89章 Epistle of the wilderness Imperial civil servant
89章 Epistle of the wilderness Imperial civil servant
今日という良き日に皇帝となれた事、喜ばしく思う。
神々の霊廟に見守られながら帝国は建った。
ここには森があり、ここには山がある。
僅かばかりの耕す者達と、それぞれの信仰を持つ戦士達がある。
ならば命じるのは1つだけ――。
●
剣の切っ先を避け、回転しながら恥を引き倒した。
剣を抜きながら文官が立ち上がる直前に、恥が攻撃を仕掛けてくる。
乾燥していく空気が。
枯れた植物の臭いが。
硫黄の臭いが。
燃え上がる炎と熱風が。
轟々と響く音が。
真っ赤に染まる空が。
物言わぬ神の視線が。
恥の憎悪が。
目の当たりにする、かつて罪とされた物が。
嵐のような剣戟が文官を打ちのめす。
「不公正である」
弾かれた体勢を立て直しながら恥が言った。
思い切り引き倒した事など無かったかのようにピンピンしている。
「私に一切の疲労は無く、貴公は連戦。何より」
生まれついての体格差は如何ともし難い。
言うと同時に全体重を載せた恥の剣が振られた。
文官は防がずに避ける。
真っ当に打ち合っては剣と体力が保たない。
文官、18歳。
恥は30後半程。
成長期半ばと、超えた者では体格に差が出る。
そして力の差もだ。
浅い息を繰り返しながら文官は隙を伺う。
涼しい顔で恥が言葉を紡ぐ。
「私は貧困」
恥が懐から細い筒を取り出した。
中には液体が入っている。
「しかして、過度な裕福さを保持する」
恥が筒を太腿に突き刺した。
中の液体が恥の体に吸い込まれていく。
投げ捨てられた筒が割れ、恥の体が音を立てて割れ、獣の声が上がった。
ぐずりぐずりと音を立て、体が変化していく。
血と体液を吹き出しながら下半身が見上げる程に巨大な蜘蛛の物へと変わっていく。
地を這うような体勢で突撃しながら、恥がもう1本の剣を抜いた。
防御を全く考えない突進。
文官はすれ違いざまに蜘蛛の足を斬りつける。
切断こそしなかったものの、痛みに怯む程度の深手は負わせた。
通常であれば。
ぐるりと振り向いた恥に痛みを感じた様子は無い。
唸り声を上げながら剣を何度も振り下ろす。
「!」
この行動に文官は見覚えがある。
悪魔の国に流通している白い粉。
それを摂取しすぎた人間の行動だ。
疲労と苦痛を感じなくなり、ただひたすらに暴れるだけ。
こうなれば致命傷か気絶でしか止められない。
蜘蛛の糸が恥の口から文官に向かって吐き出される。
白い、ベッタリとした糸が地面に張り付いた。
文官が避けた先に突撃が来た。
振り下ろされた剣2本、胴体による突進。
地面を抉るような踏み付けと急旋回。
柱も無い平地。
蜘蛛糸による縦横無尽の立体攻撃は無いが、それ以外も十分に脅威だ。
胴体と足の隙間を潜り、後ろに回る。
蜘蛛の後体、俗に言う腹、尻の部分を切る。
柔らかい部位ごと蜘蛛脚を切り取ろうと踏み込んだ所で、恥が勢いよく方向転換をする。
崩れた体勢を地面を転がる事で立て直す。
根本ごと切り取ろうとしたのが功を奏したのか恥の体勢が大きく崩れた。
辛うじてぶら下がっている脚が使い物にならないのか、恥の体勢が前のめりの物に変わる。
頭を文官に向かって突き出す体勢となる。
切りつけた部位から血のような体液が噴き出ているがお構い無しだ。
切るよりも殴るほうが早いか、と文官が構えた時だ。
ふっ、と風だけ残して恥の姿が消えた。
衝撃。
胴体に蜘蛛足がめり込む。
吹き飛ばされ、何度も地面に叩きつけられる。
剣だけは手放さぬように強く握りしめる。
咳と胃液。
無理矢理に吐かされた空気を取り戻すように荒い深呼吸を繰り返す。
恥が姿を人間の物に戻しながらこちらに歩いてくる。
手首を思い切り踏み付けられた。
「諦めろ」
ここに呼ばれたのは主の御意志だ。
人の姿に戻った恥が文官を見下ろしながら言った。
これが意味する所は明白だ、神は人間の成長を望んでいない。
少なくとも恥はそう解釈している
そして何人も屠るか、諦めさせたのだろう。
血臭が鼻を突く。
心臓の音と荒い息。
文官は神座を見る。
神は何も言わない。
剣が喉元に突きつけられた後に振り上げられる。
諦めの言葉を以って処刑開始となるのだろう。
沈黙と轟々と燃える音の中。
楽器の音が耳に入った。
旋律。
曲と歌。
賛美歌だ。
楽園では無い地上から賛美歌が聞こえる。
題名は知らない、判らない。
恥を睨みつけて返答とした。
不意の視線に恥がたじろぐ。
踏みつける恥の足を振り払い、剣を握り直す。
「主よ」
剣を杖代わりにする。
「我らと同じく、名を失った神よ」
己が神への信仰を、生き様で立てよ。
――帝国皇帝、即位演説。
「我らの行先、荒野の果てを御照覧あれ」
立ち上がる。
●
恐れるな。私は貴方と共にいる。
――イザヤ書41章10節。
恐れるな。私達は貴方と共にいる。
――神々の霊廟最奥、大戦争時に遺された言葉。
●
ここから見ていたのだろう、お前は、何もかも。
文官は男を見据え、剣を構えながら言った。
そして、続ける。
もっと前から、マンセマットの時から、ベリアルの時から、僕は何も変わっちゃいない。
男が主の方を見た。
狼狽と、驚きを以って主を見る。
「構えろ戦士、最初の夫婦の子。神の義に従い、僕はお前を誇りとしよう」
神は何も言わない。
白い花。
ミルトスの花が雨のように降ってきた。
男が剣先を向けた。
2本の剣が挟むように襲いかかってくる。
文官は剣と手甲で弾き、空いた胴体に突きを入れる。
男が柄頭で剣先を挟んだ。
突きが止められ、文官の攻撃が避けられる。
二刀流。
蜘蛛のような速さは無いが、不足を技量と手数で埋めてくる。
蹴り上げられた花飛沫、花の雨の影を剣が割る。
文官は剣を弾いて気付いた。
男は疲弊しきっている。
先程の薬物の所為だろう。
先程と比べて余りにも軽い剣先だ。
何度も弾く毎に剣の重さが消えていく。
そうは言っても文官も限界が近い。
自身の体の重さがそれを物語っている。
距離が空き、互いに剣先を向け合った。
これが最後だ。
互いにそう思った。
文官と名前も知らない男は互いに向かって走り出す。
金属音、そして亀裂。
折れた切っ先が地面に突き立つ。
全ての剣は折れ、2人は同時に膝を付き倒れる。
神は何も言わない。
●
白い場所に雷が落ちた。
僅かな電気を纏いながら白い鎧の男、ゼウスが立ち上がる。
「――久しいな」
何も言わぬ神座に向かってゼウスが言った。
そして、2人の戦士達に目を向ける。
穏やかな呼吸の2人は目を覚まさない。
片方の、文官を肩に担ぎ上げゼウスが言う。
「それがお前への罰か、4文字」
神は形を持たぬと姿を消し。
あらゆる正義と、罰を司り。
全ての信徒の信仰に応えようとした結果。
「駆け寄るべきに駆け寄れない」
ゼウスの言葉に、じわり、と空気が怒りの物へと変わる。
だが、神座の御簾が上がる気配は無い。
「万が一、天使に、目覚めたこいつらに姿を見られたら。
誰かの、ともすればこいつらの信仰の裏切りになる、だから駆け寄れない。お前は」
「主よ」
更なる言葉を紡ごうとしたゼウスが止まった。
寝言か朧気な覚醒か、文官が言葉を口に乗せる。
「また、いつか」
そう言って再び穏やかな寝息を立てる。
「……」
溜息を付きながら、閃光と共にゼウスと文官の姿は消えた。
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神は「光あれ」と言われた。
――創世記、1章3節。
●
派手な凱旋も無く、帝国軍は山を超え森を抜ける。
森を守るエルフ達の視線を感じた。
東の山から金属を叩く音が聞こえる。
森から出ると、 湖では漁が行われていた。
宮殿に帰ると、詰めていた者達が皇帝に臣下の礼を執った。
こちらを見つけた見習いが大きく手を振り、駆け寄る。
「ただいま!」
「おかえり」