序章 大戦争
序章 大戦争
もうすぐ、この大戦争に決着が付くだろう。
だが、火と硫黄の池がそこまで迫っている。
最早、私は死を待つだけだ。
――文明の遺跡から出土した文章より引用。
●
空が赤く染まり、ラッパの音がけたたましく鳴り響いた。
額に刻印が現れた人間は、虚ろを見ながら聖句を唱え、賛美歌を歌う。
異形が空を支配し、人々の血の河が作られていた。
地震が起き、竜巻が吹き荒れる。
赤い炎を上げながら、幾つもの隕石が落ちるのが見えた。
幾つもの土柱が上がっている。
何が起きたのだと、スマートフォンでニュースを見ようとするも、圏外になっていた。
電話も当然通じない。
パニック状態になった群衆が右往左往しながら逃げ場を求めていた。
車が爆発し、暴動が起き、アッシュは人混みから離れようと走り出す。
ごう、と風が顔に叩きつけられた。
体が金属で出来た、人では無い異形が目の前に立ち塞がった。
神の言葉を語り、自らを天使と称するもの。
空の割れ目から現れ、人々を殺したもの。
それが何も語らず、アッシュの前に降り立った。
言葉にならない呻き声を上げながら後ずさるも、背後にもう1人、空から降りてきた。
じりじりと、天使達が近付いてくる。
剣も銃も無く、アッシュは何の訓練も受けていない。
せめてもの抵抗と、拳を振るうが効く筈も無かった。
天使の体と剣がちらちらと揺らめく炎の光を反射した。
揺らめいていた光が鋭くなり、アッシュを切り裂いた。
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人類が異変に気が付いたのは、イタリアで執り行われた教皇着座式の時だ。
ラテラノの聖ヨハネ大聖堂。
5つの入口がある巨大な聖堂。
アーチで区切られた身廊の中を彫刻が見守っていた。
奥にある教皇専用の祭壇の周りには綺羅びやかな格天井とキリストが描かれた12枚のフレスコ画。
その上にある籠の中には2人のヨハネ像と、ヨハネ達の頭部が収められている。
誰もがその時を待ち侘びていた。
大聖堂内外で、数万人のローマ市民が見守り、マスコミが、その時をカメラに写していた。
コンクラーベで選ばれた、教皇になる男が大聖堂に到着した。
式典が始まる。
教皇専用の祭壇、司教座に教皇が着座し、人々は新たな教皇の誕生を祝福する筈であった。
その時が来るまでは。
教皇が自身の名前ではなく、預言書に書かれた最後の教皇の名前を名乗り、
静寂の中から異形が現れ、空間が歪に歪み、ガラスのように割れた。
聖堂の天井が崩れ落ち、空までひび割れが広がっていく。
ひび割れの向こうに、たっぷりと蓄えられた魚卵のようなものが見えた。
群衆のように蠢きながら笑い声を上げている。
それは、目だ。
光る眼がこちらを覗き込んでいた。
そしてそれらは歪から這い出る。
天使と悪魔。
聖書に書かれていた存在が生み出され、人々を狩り始めた。
蝗が全てを食い荒らし、信徒で無い者の肌は爛れ、3人の天使が裁きを下す。
悪魔に名前を知られた人間から人格と高潔さが奪われ、その配下となった。
太陽の光が地上を焼き尽くし、空から赤い竜が投げ落とされた。
世界が闇に満ち、地上の草木が枯れ果てる。
天使達は主の命令のままに裁きを下し、焼き払っていく。
人間が焼かれ、国が焼かれ、他の神々も焼かれた。
ウガリット神話、ギリシャ神話、北欧神話、インド神話、クトゥルフ神話。
歪から現れた、数多の神話の神々が怒り、天使と悪魔、そして主に刃を向け、――文明は滅びた。
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大陸の北。
もうすぐ晩課の鐘が鳴る頃合いだ。
人々は夕食の準備を始めており、天使達は山から獣が入り込まないよう、柵を見て回っている。
天使の国の中で最も高い、白い塔から国を見下ろした。
文明と呼ばれたものの面影は無く、畑と木で建てられた家、そして石造りの教会が目に入る。
遠くの山を見ると木樹が生い茂り、人工的な建物は見る影も無い。
舗装すらされていない土道の先の丘で、女が沈みゆく太陽に向かって祈っている。
翼を広げ、塔から飛び立ち、女の所へ向かう。
何事かと空を見上げる人の子達を気にせず、丘に向かって飛んだ。
着陸する為に翼を羽ばたかせると、その音で気付いたのか、跪いていた女が立ち上がり、こちらを見る。
「感心しませんね。1人でこんな所に居ては獣に襲われてしまいますよ」
「使徒マンセマット」
女が再び跪こうとするのを止め、マンセマットは何をしているのかを尋ねる。
「主に祈りを……、教会の方々は、お忙しそうでしたから」
「成程……。では、次からは塔においでなさい。こちらの門は何時でも開かれています」
「はい、次からはそのように」
日が沈んでいくにつれ、徐々に寒さが増していく。
女はそれに構わず、地平線をじっと見ていた。
マンセマットもそれにつられる。
かつて見た、炎に染まった空とは違う赤に、何故か安堵した。
ピュウ、と風が強く吹きつける。
マンセマットの目が少しだけ険しくなる。
この国のものでは無い匂いが混ざっている。
東の遊牧民達が使う薬草の匂いだ。
おそらく今夜、攻め込んでくるのだろう、とマンセマットは確信し、女の帰宅を促す。
「さぁ、行きましょう。もうすぐ鐘が鳴ります」
「はい」
1人で帰す訳にもいかず、マンセマットは女と並び歩き始める。
ふと、振り返ると日没の瞬間が目に入った。
晩課の鐘が鳴る。
日は落ち、世界は闇に満ちる。