第5章
ぼくが、上田とやりあった、あの日以後は、小康状態が訪れた。上田たちが、榊さんに謝ることはなかったけど、かといって、正面切って、榊さんに突っかかることも、なかった。
いや、それが、小康状態に見えていたのは、ぼくだけだったのかも知れない。それが、ただ上辺だけのことだったのが、ぼくの目にも、はっきりしてきた。
それは、英語の授業中のことだった。ぼくらのクラスには、座席表というモノがある。要は、先生からは、生徒の顔は見えても、名前が分からない。そこで、座席ごとに名前を割り振った表を作ってあって、それが、教卓の上に置いてある。先生は、それを見ながら、生徒を授業中に指名できるようになっている。
それは、英語の授業の時だった。担当の西田が、その座席表を見ながら言った。
「ここに、『当ててください』って書いてあるけど、本当に当ててもいいのか。じゃあ、当てるぞ。榊、次、訳してみろ」
そう言って、西田は、彼女を指名した。彼女は、少し驚いたような顔をしたが、すぐに席を立って、スラスラと訳し始めた。
ぼくは、すぐに何が起きているのかを悟った。ありふれた嫌がらせだ。もっとも、こんな嫌がらせが、彼女のような優等生に効果があるとは思えない。
でも、彼らにとっては、実際の効果よりも、嫌がらせをしたという事実の方が、重要なんだろう。そして、その嫌がらせは、ぼくの目につかないところで、密かに行われている。だが、それが、誰の仕業かは、問うまでもないことだった。
休み時間になると、彼女は、席を立って、教卓へと行き、「当ててください」の文字を消しゴムで消した。その様子を、上田たちのグループが、ニヤニヤしながら見ていた。彼女が、自分の席に戻ると、上田が、ぼくの方を振り向いて、得意げに笑って見せた。
誰が、やったかは、わかっている。だが、証拠はない。ぼくは、隣の席の小池に、カマを掛けてみることにした。
「なあ、『当ててください』なんてさ、誰が、書いたんだろうな」
そう言って、ぼくは、小池の方を見た。小池は、目を見開いて、口を開けていた。だが、彼は、何も言わなかった。
その小池の反応が、何よりも雄弁に語っていた。この嫌がらせは、教室の中に、ぼくが、いない時を見計らって、行われたんだ。それも、クラス全員の目の前で。だから、小池は、犯人を知っている。知っているが、報復を恐れて、何も言えないんだ。
こんな古典的な嫌がらせが、彼女のような優等生には、効果がないことなど、彼らだって、百も承知なんだ。これは、彼女を困らせるための嫌がらせではなく、クラス全員を試すための踏み絵なんだ。
彼らの真の目的は、ぼくや、彼女に、告げ口をするヤツがいるかどうかを確かめることにある。そして、クラス全員の前で、嫌がらせをすることによって、彼らのメッセージを伝えたんだ。つまり、彼女に味方するヤツがいれば、ソイツもまた、彼らの餌食になると。
当然、彼女は、クラスの誰からも相手にされなくなる。実に効果的な方法だ。そして、彼らが計画を実行するにあたって、最も注意したのは、ぼくに知られないことだった。確かに賢いやり方だ。でも、その小賢しさが、ぼくの心の中に、怒りの炎を植え付けていたことまでは、彼らは、気付いていなかっただろう。なぜなら、彼らは、知らなかったからだ。ぼくが、どれほど彼女に心惹かれているかを。
ぼくは、虎視眈々と機会を狙っていた。こういう連中は、一回こっきりで終わらせはしない。だから、また、何かをやろうとする。
そして、いつも数の力に頼るヤツらには、理解できないことがある。ヤツらが、攻勢に出るのは、自分たちが多数派の時だけだ。少数派に転落すると、おとなしい羊としてしか振る舞えない。たとえ窮地に追い込まれても、仲間内で口裏を合わせて、教師の目をごまかす。多数派という連中は、いかなる状況にあっても、自分たちを正義の側に立たせることができると、信じている。
追われる側に立ったことのない者は、守りが手薄になるものだ。だから、気を付けていれば、必ずボロを出す。ぼくは、その機会をうかがっていた。
そして、その機会は、意外に早くやってきた。最初の嫌がらせがあってから、三日後の昼休みのことだった。
お昼を食べ終わったぼくは、いつも通り本を読んでいた。だが、本を開きながらも、張りつめたぼくの神経は、教室の中の異常を感じ取っていた。教室の前の方では、上田たちのグループが集まって、ヒソヒソ話をしていた。時々かすかに、
「本当にやるの?」
とか、
「ヤバくない?」
といった声が、聞こえた。ぼくの予想通り、ヤツらは、守りの意識が希薄だ。教室内に、ぼくが、いるのだから、もう少し気を使うべきなのに。
やがて、上田が、ぼくの方を気にしながら、教室の前の扉から出て行くのが、ぼくの視野の隅に映った。ぼくも、タイミングを見計らって席を立ち、教室の後ろの扉に向かった。女子二人が、すぐに席を立って、教室の前の扉に向かうのも、ぼくは、視野の隅にとらえていた。
ヤツらには、警戒心というものが皆無だった。ぼくには、こうした彼らの行動が見えているはずないと、思い込んでいるらしい。
ぼくは、教室を出ると、廊下を右に進んだ。ぼくらの教室を出て、左に行くと、購買や下駄箱へと向かう階段があり、右へ行くと、トイレがある。廊下の右側に、上田は、いなかった。とすれば、ヤツは、左に行ったはずだ。下駄箱へ続く階段に。
それだけわかれば、十分だ。ヤツが、何をやろうとしているかは、想像がつく。席を立ってきた女子二人は、ぼくの監視係だろう。となれば、ぼくが、右へ行けば、トイレに行くと思って、それ以上は、追ってこないはずだ。
廊下には、そこかしこに、立ち話をしているヤツらがいた。ぼくは、その連中の陰に隠れるようにして、監視係の死角に入ると、足を速めた。
反対側の階段を下りて、一階の廊下を駆け抜け、下駄箱に着いた。上田の姿は、そこにはない。
そのまま、彼女の下駄箱を探して、中を見た。案の定、中は空だった。彼女は、いつも校舎裏で、昼食を食べる。だから、下駄箱には、彼女の上履きが入っているはずだった。
すぐに、外へ向かう。上田の姿は、すぐに見つかった。右手には、彼女の上履きを持っている。ぼくは、ゆっくりと上田の背後から近付いた。
ちょうど、上田は、彼女の上履きを、校舎脇の植え込みの中に、放り込んだところだった。
「よお、何、やってるんだ、こんなところで?」
ぼくが、声をかけると、上田がすぐに振り向いた。その顔が、驚愕に歪んだ。
「なんで、オマエが、いるんだ?」
「いちゃ、悪いか。今、植え込みに放り込んだの、榊さんの上履きだよな」
上田は、言葉を失っていた。
ぼくは、上田の前に立つと、無言でヤツのみぞおちに、渾身の一撃を叩き込んだ。上田が、腹を押さえながら、膝から崩れ落ちていく。その髪の毛をつかんで、続けざまに二発、三発と上田の顔に、力任せのパンチを叩き込んでいく。
何もかもが、許せなかった。コソコソと他人をいじめて喜ぶ、その根性も、彼女を悲しませる、その行為も、群れを作って、自分たちこそが正義だと言わんばかりの、その傲慢さも。何もかもが、許せなかった。
ぼくは、彼女のあの時の涙を思い出していた。「私は、平気だから」と言った時の、彼女の悲しみに満ちたまなざしを。
コイツらにとっては、自分たちが、クラスの中で目立っていたいだけのことなのかも知れない。でも、そのために、いとも無邪気に彼女を悲しませるコイツらが、どうしても許せなかった。彼女の心を平然と踏みにじる、コイツらのやり口が、どうにも我慢ならなかった。上田の唇は裂け、ヤツの顔が紅く染まっても、ぼくは、一切の容赦をしなかった。
すぐに騒ぎになり、先生たちが、駆けつけてきた。時折、普段、威張り散らしている教師という人種の、本当の姿が垣間見えることがある。暴力を前にして、ただオロオロするばかりのヤツもいれば、果敢に止めに入るヤツもいる。その時、一番勇敢だったのは、英語の西田だった。
西田は、上田を殴り続けるぼくの前に飛び出してきて、ぼくに飛びつくと、両手の自由を奪った。それに勢いづいたように、他に何人かが、飛び出してきて、ぼくは、地面に引きずり倒された。
目の前の砂を噛みながら、顔を上げると、校舎の前には、生徒たちの塊ができていて、その中に、彼女の姿を見つけた。彼女は、ぼくと上田の姿を見て、何が起きたのかを理解したようだった。
ぼくは、地面の上に押さえつけられたままで、目の前の西田に言った。
「先生、植え込みに、榊さんの上履きが捨ててあるんです。彼女に、返してあげてください」
西田は、その言葉で、すべてを了解したらしい。
「お前、まさか、そのために」
そう言って、西田は、言葉をのんだ。
西田は、植え込みの中をのぞいて、そこから、彼女の上履きを取り出した。それを手に持ちながら、西田は、ぼくを見た。それを確認しながら、ぼくは、彼女を見た。彼女の頬には、涙の雫が光っていた。
最低だな。彼女を泣かせないために、したことなのに、結局、ぼくは、彼女を泣かせてしまった。そして、ぼくは、無抵抗の相手に暴力をふるい、怪我をさせた罪人として、引き立てられていった。
あとは、お決まりの展開だった。ぼくは、生活指導室へ連れていかれて、担任と学年主任に尋問を受けた。
教師という人種に、不信感しかもっていなかったぼくは、素直に事情を打ち明けることも、なかった。もし、すべてを話せば、彼らは、クラスみんなで、仲良くしろとか言い始めるに違いない。それが、ヤツらの哲学だ。そして、決まって言い出すんだ。クラスで何か、親睦を深めるための行事をしようと。それは、彼女が一番嫌っていることだ。
当然、クラスに溶け込もうとしない彼女の態度も、問題にされるだろう。いじめた側も悪いが、いじめられた側にも問題があったという、黒とも白ともつかない、灰色の解決策が出てくるだけだ。要は、学校にとっては、問題が起きないことが重要であり、生徒の個性や人格などは、後回しなんだ。そんなことは、今まで、イヤというほど、経験してきた。
もしも、ぼくが、素直にすべてを話せば、彼女は、今後、窮屈な学校生活を強いられることになる。それだけは、どんなことをしても、避けたかった。
そんな風に考えているぼくに、担任の中野が、厳しい声で問い詰めてきた。
「お前は、どういうつもりなんだ。こんな事件まで起こして。こんなことが、許されると思っているのか」
許されるなんて、思っていなかった。でも、正直に話して、何になる。そうも、思った。
どうせ、ヤツらは多数派なんだ。全員で口裏を合わせて、自分たちを正当化するに決まっている。必要とあらば、クラスの他のメンバーに脅しをかけてでも。「みんな」から離れたぼくには、わかりきった展開だった。
彼らにとって、大事なことは、自分たちの快適な学校生活であって、クラス全員の幸福なんかじゃない。そして、教師という人種は、常に、多数の証言に信頼を置く。
学校という法廷では、多数派に逆らったぼくには、正義という名の援護射撃は期待できない。ここでは、ぼくという異端者は、どんな場合でも、悪の側に分類される。そんなことは、最初からわかっている。
「お前が、学校生活に問題を持ち込むのなら、学校としても、それなりの判断をしなきゃいけなくなるぞ。場合によっては、退学ということも、含めてな」
学年主任が、横から、そう口をはさんだ。
別に、それでも、よかった。
一年の時の進路相談を、ぼくは、思い出していた。一年の時の担任は、言っていた。ぼくの成績では、まともな大学は無理だと。どうせ三年間通い続けても、その先に、何かが待っているわけじゃない。将来に、夢とか希望があるわけでもない。だったら、少し早目に社会に出て、働くのも悪くはないさ。
もし、彼らが、脅しのつもりで、退学という言葉を切りだしたのなら、それは、まったく効果がなかった。
「退学ですか。それも、いいですね。アイツのことが、気に入らないから、殴っただけです。それが許されないというのなら、処分してください。どんな処分でも、構わないですから」
担任と学年主任は、呆れ顔で、ぼくを見ていた。
これで、いい。たとえ、ぼくが、退学になったとしても、クラス全員が、彼らの嫌がらせを知っている。これで、ヤツらは、今後、彼女には気軽に手を出せなくなったはずだ。彼女のことを守れたのなら、それでいい。
それは、ぼくの独りよがりな自己満足だったのかも知れない。でも、人が人生に期待するものが、満足のいく生き方であるとするなら、どんな処分を受けたとしても、ぼくには、悔いはなかった。
六時間目が始まると、西田が、生活指導室に顔をのぞかせた。担任と学年主任を目で呼び出すと、三人は、扉の外でしばらく小声で話していた。
一人部屋の中に取り残されたぼくは、窓の外を見た。校庭では、体育の授業が行われていて、みんな楽しそうに一つのボールを追いかけまわしていた。こんなのどかな学校生活とも、もうすぐ、お別れかも知れないと思うと、ありふれたその光景も、少し眩しく見えた。今までずっと慣れ親しんできた、学校という名の牢獄も、これで、最後なのかも知れない。そう思うと、感慨が一つの風になって、心の中を駆けて行く。
しばらくすると、扉が開いて西田が、学年主任と一緒に入ってきた。西田は、学年主任に目配せをすると、ぼくの正面に座って、話し始めた。
「中野先生には、クラスに戻ってもらったよ」
西田は、そう言うと、いったん言葉を切ったけど、また、すぐに続けた。
「五時間目、お前のクラスは、俺の英語の授業だったから、授業はやめて、みんなと話し合ったよ」
西田は、今まで見たことがない様な穏やかだが、それでいて、真剣な顔をしていた。
「クラス皆の話から、俺なりに、事情はわかったつもりでいる。その上で言わせてもらうが、お前のしたことは、人間として、間違ったことだ。だがな、一人の男としては、お前のことが、羨ましくもある」
意外な言葉だった。思わず西田の顔を、まじまじと見つめてしまった。
「少し、思い出話をしてもいいかな」
そう言って、西田は、学生時代の思い出を語り始めた。
西田が、学生生活を送っていたのは、今からニ十年以上も前のことだった。当時は、バブルと呼ばれた時代の終わり頃だった。その頃、西田は、東京の私大に通っていた。今でも教育熱心な西田は、華やかに浮かれる周りの世界とは対照的に、バイトと勉強の毎日を送っていたらしい。
そんな西田にも、その年頃の男にありがちな、恋の話もあった。その人は、一つ年上の先輩で、いつしか西田は、その人に心を奪われていたらしい。
西田同様、地方都市から上京して、東京の大学に通う彼女は、決して豊かな家庭の出ではなかった。仕送りだけでは、私大に通う生活を支え切れず、生活を切り詰め、バイトで何とかしのいでいた。
「ひたむきな人だったよ。親に負担をかけまいとして、毎日のようにバイトもして、それでいて、大学の方も手を抜くことがなかった。きっと相当大変だったはずなのに、そのことを表に出すことはなかったし、いつだって、穏やかで優しい人だった」
そんな彼女に、西田が、好意を寄せるのは、自然な成り行きだったのかも知れない。
だが、残念なことに、西田には、彼女と結ばれるチャンスはなかった。彼女には、その当時、付き合っている相手がいたからだ。
相手は、彼女の同級生で、彼女とは対照的な遊び人だった。彼女の他にも、何人か付き合っている女性がいるという噂もあった。見るに見かねた西田は、彼女に何度も忠告した。だが、疑うことを知らない彼女は、その男の言葉に乗せられていて、西田の忠告を、嫉妬からくる勘違いだと思わされていた。
だが、そんな遊び人が、いつまでも、彼女のような、上辺を飾ることも知らない相手に満足しているはずもなく、やがて、彼女は、棄てられた。そんな男にはお似合いの、着ている服の価値さえもない女に乗り換えたんだ。
それまでの生活の苦労も、あったんだろう、疲れ切っていた彼女には、あまりにもつらい出来事だった。信じていた相手から裏切られた彼女は、浴室で手首を切って、自殺してしまった。最期まで、誰にも、つらい顔を見せなかったから、それほどまでに追いつめられていたことに、西田は、気付けなかった。
その後も、相手の男とは、キャンパスで、幾度となく顔を合わせた。彼女のことなど、何もなかったかのように、新しい女と笑い合っているその男の姿を見る度に、西田の心は、怒りに震えた。
「あの頃は、その男のことを、本気で殺してやりたいなんて、思ったもんだ。その男を殺して、将来を全部投げうって、刑務所に入って、それでも、自分の人生は、それで、よかったんじゃないかって、思うこともあった。結局、オレは、あの人のことを守ることさえできなかった。だからな、お前が、榊をイジメから守るために、こんな暴力事件まで起こしたと知って、お前の勇気が、羨ましかったよ」
そこで、遠い目をしたまま、西田は、一度、言葉を切った。そして、ぼくの方に顔を向けると、付け足すように、穏やかに言った。
「こんなこと、教師が言うべきことでは、ないかもしれんがな」
ぼくは、言葉を失っていた。教師という人種にも、こんな背景があったなんて、それまでは思いもしなかったから。
「お前が、どうして、そんなに頑なになるのか、俺には、分らん。でもなあ、クラスには、お前の支持者だって、結構いるんだぞ。お前の隣の席の小池だって、勇気をもって、イジメの事実を教えてくれたんだ。それにな、お前と榊の関係は、よくわからんが、榊は、お前のために涙まで流したんだぞ。泣きながら、お前は、悪くないんだって、お前が、処分されるなら、代りに自分を処分してくれって、言ってきたんだぞ。そのことは、キチンと頭の中に入れておけ」
涙が、頬を伝うのを、どうすることも、できなかった。彼女が、ぼくのために涙を流したなんて。ぼくは、彼女には笑っていてほしかった。なのに、ぼくが、彼女を泣かせる羽目になるなんて。自分の無力が、何度も、ぼくの心を刺していた。
「とにかく、事件は、事件だ。お前の親にも連絡しなくちゃならん。処分については、これから職員会議で、話し合うことになる。とりあえずは、処分が決まるまで、お前は、停学だ」
西田は、そう言うと、隣の学年主任を見た。学年主任は、西田の言葉に頷いた。
いつの間にか、六時間目の授業も終わり、校庭では、部活に張り切る生徒たちの声が、こだましていた。
カバンを取りに、教室に戻ると、がらんとした教室の中に、彼女が、いた。ぼくが、後ろの扉を開けて、教室の中に入っていくと、自分の席に座っていた彼女が、振り向いた。泣きはらした目が、赤かった。
ぼくは、黙って教科書をカバンの中に、放り込み始めた。彼女は、静かに、ぼくに近付いてきたけど、言葉が見つからないようだった。
ぼくは、帰る準備が整うと、彼女の方を向いて、言った。
「気にしないで、いいよ。前からアイツのことが、気に入らなかったんだ。榊さんには、関係ないから」
彼女は、まっすぐに、ぼくの目を見ていた。
「どうして?」
彼女は、ただ一言だけを口にした。その声に込められた切ない響きが、ぼくの心を引き裂いた。ぼくは、彼女の目を見ることさえ、できなかった。
「気に入らないヤツをぶちのめした。ただ、それだけのことだから」
「どうして、そんなにまでして、私をかばうの?」
立ち去ろうとする、ぼくのカバンをつかんで、彼女が言った。
「私、相川君に、話しておきたいことが、あるの。少しだけ、私に付き合って」
彼女は、ぼくを見ていた。その目に浮かぶ、いつにない真剣な表情が、ぼくをとらえて離さなかった。そして、ぼくの声は、ぼくの意思に関わりなく、了解の意思を伝えていた。
ぼくは、彼女について校門を出て、学校前の坂道を下った。そのまま、ぼくらは、無言のうちに、電車の駅へと歩みを進めた。やがて、ぼくの家の方へと向かう電車が、ホームに入ってくると、彼女は、
「乗ろう」
と言って、先に電車の中へ入って行った。ぼくも、続いて電車に乗ったけど、彼女と何を話していいか、わからなかった。
彼女と二人で、電車の椅子に腰を下ろしながら、ぼくは、自分がどうすればいいか、わからなかった。彼女と、こうして二人きりでいることを、喜ぶべきだったんだろうか。それとも、こんなに近くにいる彼女に、受け入れてもらえないことを、悲しめばよかったんだろうか。
彼女が、ぼくを誘った場所は、ぼくの家がある駅から、二つ先の駅だった。そこは、海の近くで、駅を降りると、すぐに公園がある。ぼくらの住むこの街から見る海は、いつも波が荒く、寒さが身にしみる季節になると、それに力を得るように、波も一層激しくなる。
やがて、目的の駅に着くと、彼女は、先に立って歩き始めた。ぼくは、彼女の後をついて歩きながら、彼女の細い背中を見ていた。手を伸ばせば届きそうな彼女の背中は、どれだけ手を伸ばしても届きそうにないほど、遠く感じられた。
彼女は、ここへはよく来るらしく、目的の場所へ向かってまっすぐに歩いて行く。やがて公園を抜けると小高い丘に突き当たった。その丘の麓を回り込んでいくと、丘の上へと向かう細い道があった。木立に隠れたその道は、気をつけていないと、通り過ぎてしまうほど小さかった。左右の木立が伸ばす枝に何度も肩を叩かれて、ぼくらは進んだ。
しばらく行くと、木立が途切れ、不意に少し開けた場所に出た。そこは、丘のてっぺんのようで、そこから海が見えた。右手には、港が姿を見せ、その先には、原子力発電所の冷却塔が見える。そこが、彼女の目的の場所のようだった。
彼女は、地面に腰を下ろして、ぼくを見た。彼女の近くに行ってもいいかどうか、判断がつかず、突っ立ったままのぼくに、彼女は、言った。
「相川君も、座ったら」
彼女の言葉を聞いて、ぼくは、おずおずと彼女の隣に腰を下ろした。
「今日は、ありがとう。相川君は、気に入らない人を殴っただけだって、言ったけど、それは、嘘よね」
そう言う彼女の瞳を前に、ぼくは、もう何も言えなくなっていた。そんなぼくを見て、彼女は一度視線を海へと移し、遠い何かに目を泳がせた。
彼女は、しばらく、そうやって、黙って海を見ていたけど、やがて、何かを決心したように口を開いた。
「ねえ、相川君、私、どんなふうに見える? もう私の噂、聞いたんでしょ」
「ああ、オレの隣の席の小池が、去年、榊さんと同じクラスだったんだよね。アイツから、話は聞いたけど、別に、だから、どうってことでもないよ」
その時のぼくは、どうかしていたのかも知れない。寂しそうな彼女の横顔を見て、心が突き動かされてしまったんだろうか、自分の思いを伝えておきたいという思いに駆られていた。
「それに、榊さんには迷惑かもしれないけど、ぼくは、榊さんのことが好きだ。だから、榊さんが、あんな風にされるのには、我慢できなかった」
ぼくの言葉を聞いた彼女は、ゆっくりとぼくの方を振り向いた。
ぼくの目をのぞき込む彼女の瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。ぼくは、その瞳から目をそらすことができなくなっていた。その美しさにぼくの心は、吸い込まれそうになって、彼女を支えるためなら死んでもいい。ぼくは、その時、本気で思っていた。
「私、相川君みたいな人には、初めて会った。相川君になら、分かってもらえるような気がする。だから、相川君にだけは、話しておこうと思ったの。それで、相川君が、私のことを嫌いになったとしても」
彼女の言葉に、ぼくは、戸惑っていた。
彼女が、秘密を打ち明けるほど、信頼してくれたということは嬉しかったけど、ぼくが、彼女を嫌いになるかもしれないというのが、不安を投げかけていた。そんな相反する気持ちが同居して、混乱しているぼくを見て、彼女は、クスリと笑った。
「私ね、人の心が見えるの」
彼女の意外な言葉に、ぼくは、どう反応していいかわからなかった。勘が鋭いということなんだろうか。
「そういうことじゃないの」
まるでぼくの心をのぞき込んでいるように、彼女が言った。
「信じられないかもしれないけど、誰かの目を見ると、その人の心の中まで見えてしまうの。わかりにくかったら、超能力みたいなものだって、思ってくれればいい」
彼女の告白のあまりの意外さに、ぼくは、呆気にとられていたけど、同時に、ハッと思い当たることもあった。
校舎の裏庭で話した時、どうして人と目を合わせないのかと聞いたぼくに、彼女は答えたはずだ。
「見なくていいものを、見ずに済ませられるから」
でも、そんなことって可能なんだろうか。今まで、そんな話は聞いたことがない。ありえないと思うと同時に、いくつもの出来事が頭の中を駆け巡っていた。
教室で初めて彼女を見た時、彼女は、ぼくの視線に気づいて、驚いていた。あの時、ぼくは、すでに彼女に心ひかれていた。まったく面識のないはずのぼくに、彼女が示したあの反応や、島田が彼女の噂をしようとした時の、あの目だ。まるで、ぼくらが、何を話しているか、知っているようだった。確かに、彼女が超能力者で、人の心が読めるとしたら、すべてが上手く説明できる。
ぼくの頭の中で、あり得ないという気持ちと、彼女ならあり得るという思いが、激しい綱引きを始めていた。