第3章
榊志織、ぼくは、彼女のことが、気になっていた。けれども、彼女と話をするキッカケさえつかめずにいた。
新学期が始まってから、二週間が過ぎていたけど、彼女のガードはとても固かった。というのは、彼女は、意図的に他人との接触を避けているように、見えたからだ。
初めの頃は、何人かが、彼女に話しかけようとしたけど、その度に彼女は、視線をそらして、話しかける隙を与えなかった。人間というものは、視線を合わせずに、誰かと会話するのが難しい、ということを、ぼくは、この間の彼女の行動から学んだ。
多分、しばらくするうちに、去年のクラスメートたちから、彼女とは距離を置くべきだと聞かされたからだろう。彼女に話しかけようとする者は、いなくなっていた。おそらく、ぼくだけが、唯一の例外だっただろう。でも、ぼくにしても、彼女は話しかけるきっかけを与えなかった。
ただ時折、彼女は、ぼくの方を見た。それは、登校時、教卓の後ろを通る時だったり、お昼休みが終わって、教室に戻ってきた時の一瞬だけだった。そんな時の彼女の表情は、それまでの人生における、ぼくの人間観察の成果では、計り知れないものだった。
初めは、何かを期待するように、ぼくの方を見るんだけど、目が合った途端に、そこには悲しみとも、怖れともいえる、何ともいえない色が、浮かぶんだ。
いずれにせよ、ぼくは、この二週間、彼女と言葉を交わすことも、できないでいた。相変わらず、休み時間には、彼女は、窓の外を眺めているばかりだったし、弁当の時間には、教室から出て行った。
ぼくには、彼女の後を付け回すという、ストーカーまがいのことは、できなかった。それは、ぼく自身、人から構われることが、嫌いだったからであり、何の理由もないけれど、彼女も、ぼくと同じ種類の人だと感じていたからだ。
ただ彼女を見ていて、気づいたこともある。
それは、彼女が他人と視線を合わせないのは、何も接触を避けるためだけではない、ということだった。例えば、授業中、先生にあてられても、後ろの黒板に目をやっていたり、教卓を見たりして、先生とも、目を合わせなかったからだ。多分、この教室で、彼女が、目を合わせる相手がいるとすれば、それは、ぼく一人だけだっただろう。
ある意味、ぼくにとっては、光栄なことだった。このクラスで、高貴なお姫様に拝謁する特権を与えられたようなものだ。もっとも、ぼく以外に、その特権を光栄だと考える人間は、いなかったかも知れないが。
でも、意外な形で、ぼくは、彼女の秘密を知る機会を得た。もっとも、それを秘密と呼ぶならば、の話なんだけど。
その日の四時間目は、芸術の授業だった。ぼくは、音楽を選択していたので、音楽室で授業を受けていた。生憎、この学校の音楽室は、ぼくらの教室から離れていたから、当然、購買からも距離があった。それから急いだところで、購買は、他の生徒で混雑していることが、予想された。なので、ぼくは、のんびりと音楽室を出ようとしていた。
すると、音楽の担当の井川という先生に呼び止められた。片付けを手伝ってほしいと言う。さっき話したような事情で、ぼくにも、時間的余裕があったので、先生を手伝ってから、購買へと向かった。
片付けといっても、それほど時間が掛かったわけじゃないから、購買に着いた時には、まだ生徒が大勢いた。
「仕方ない、空くまで、少し待つか」
なんて考えていると、突然、彼女の姿に気づいた。新学期初日に出会った時のように、彼女は、混雑を避けるように、人混みから少し距離を置いて立っていた。人との接触を避ける彼女らしいな、と、ぼくは、思った。
人が少なくなって、購買の手が空くと、彼女は、ゆっくりとパンを買い始めた。ぼくは、その彼女の姿を見ていた。やがて彼女は、パンを買い終わると、校舎裏へと向かう出口へと歩き出した。
そうして、彼女が、どこへ向かうかを見定めた上で、ようやく、ぼくは、自分の昼食を確保して、彼女が立ち去った方向を見た。彼女は、校舎裏の何本かある杉の木の、その根元を囲った煉瓦に腰を下ろして、先ほど手に入れたパンを食べていた。
なるほど、彼女は、毎日お昼になると、あそこで昼食を食べていたのか。多分、そのままそこで、授業が始まるまでの時間をつぶしていたんだろう。この新しい発見は、ぼくの心を弾ませた。この時になっても、ぼくは、まだ、彼女のことを、ほとんど知らなかったし、話しかけることすら、できなかったからだ。
それから数日後の昼休みのことだ。ぼくらのクラスに、山本というヤツがいるんだが、コイツは、良く言えば陽気、悪く言えば落ち着きのないヤツで、昼休みの間も、あちこちフラフラしていたようだ。ちょうどその時、先生から伝言を頼まれたらしい。五時間目は、理科の授業だったんだけど、全員、実験室に集まるように、ということだった。さっそく男子の中には、どんな実験をするのかを話題にして、浮かれるヤツが、出てきた。
ぼくは、すぐに彼女の席に目をやった。彼女は、やはり、いなかった。きっと今日も、校舎裏の杉の木の所で、パンを食べているに違いない。
授業が始まるまでに、まだ時間があったので、ぼくは、彼女に知らせに行こうと思った。というのも、彼女は、このクラスでは、アンタッチャブル、つまりは、接触してはならない人とみなされていたからだ。
勘違いしないでほしいんだけど、それが、イジメだとか言っているわけじゃない。だって、どう考えても、彼女の方でも、それを望んでいるようだったからだ。
教室を出て、購買を通り過ぎ、校舎裏へと続く出口を抜けると、彼女は、そこにいた。ぼくは、彼女に近づくと、声をかけた。
「榊さん」
ぼくが、彼女の名前を呼ぶと、彼女は、顔をぼくの方に向けたけど、目線は、ぼくの足元に向けていた。
「次の理科の授業なんだけど、実験室の方で、やるそうだから」
「そう。ありがと」
相変わらず、ぼくとは目を合わせずに、彼女は、答えた。
ぼくは、その時、考えていた。今まで話をするチャンスが、なかったけれど、今なら、話せるんじゃないかって。授業が始まるまでに、まだ時間はある。せっかく会話が始まったんだから、これを逃す手はない。
そう思ったぼくは、言葉を繋いだ。
「榊さんて、あまり人と目を合わせないよね。何か、理由でもあるの?」
我ながら、情けない言葉が口から出てきた。もし彼女が、気にしていたら、どうするつもりなんだ。
でも、彼女は、ぼくの心配をよそに、静かに答えた。
「見なくていいものを、見ずに済ませられるから」
その時のぼくには、彼女の言葉の意味が、わからなかった。
もっとも、彼女がバカげた言葉のせいで、ぼくのことを軽蔑しているわけじゃないとわかって、安心していたから、他のことに気づく余裕もなかったんだけど。
そして、安心したぼくは、さらに言葉を続けた。
「いつも、ここで、お昼食べてるの?」
不意に、彼女が、ぼくを見た。その目は、何かにすがるようでもあり、何かに怯えているようにも見えた。そんな彼女の視線が、さらに、ぼくをときめかせた。でも、彼女は、すぐにぼくから視線をそらせて、答えた。
「どうして、そんなこと、聞くの?」
確かに、大きなお世話なのは、事実だった。世間とウマが合わない人間にとっては、他人の関心ほど、鬱陶しいものはない。
でも、ぼくは、どうしようもなく彼女に惹かれ始めていた。彼女と初めて出会ったあの日から、その気持ちは、増すことはあっても、冷めることはなかった。きっと、ぼくなら、彼女と上手くやってゆける。それは、単なる自惚れに過ぎないのかも知れない。でも、ぼくは、その時、本気で、そう思っていた。
そして、こんな時には、自分の気持ちを素直に語った方がいい。本気で、そう考えていた。だって、ぼくは、彼女に駆け引きなんて、仕掛けたくなかったし、彼女のことを思うからこそ、彼女に対しては、嘘をつきたくなかった。
「榊さんのことが、なんだか気になってね。ぼくは、人と上手くやってくってことが、苦手でね。苦手っていうより、嫌いって言った方が、当たっているのかも知れない。でも、何となく榊さんも、ぼくと同じなんじゃないかって思って」
再び、彼女がぼくを見た。それは、何かを探ろうとするような視線だった。ぼくは、言葉を続けた。
「榊さんは、気づいてなかったかも知れないけど、ぼくたち、初日のクラス分けの発表の時に会ってるんだよ。その時から、ずっと思ってた。ぼくみたいなひねくれ者でも、榊さんとなら、上手くやっていけそうだなって」
彼女は、ぼくを見ていた。彼女が、誰かをこんな風に見つめているのは、見たことがなかった。だから、ぼくは、彼女のお眼鏡にかなったのかなって、勝手に思い込んでいた。
「相川君は、ひねくれ者なんかじゃない」
彼女は、ぼくの目を見たままで、静かに言った。彼女のその言葉は、意外でもあったし、同時に、思っていた通りでもあった。
彼女は、そこで、ぼくから視線をそらし、もう一度、小さな声で言った。
「相川君は、ひねくれ者じゃない。だって、相川君は、嘘をつかないから」
彼女のその言葉は、ぼくを有頂天にさせた。だから、その後の彼女の言葉は、ぼくを驚かせた。
「もう、私に関わらないで。放っておいて」
その時のぼくを誰かが見ていたら、その人の目には、ぼくは、どんな風に映っていただろう。その時のぼくの役回りは、さえないピエロだった。
空中高く放り上げられたボールが、高く上がれば上がるほど、地面に勢いよく叩きつけられるように、彼女との会話で高揚したぼくの気分は、足もとに無残に叩きつけられた。そして、粉々に砕け散った。
ぼくは、何を言えばいいのか、わからなかった。だから、わけのわからなくなった人間が、かろうじて口にできる言葉を呟いた。
「ひょっとして、迷惑だったかな?」
彼女は、うつむいて両手を握りしめていた。
しばらくしてから、絞り出すように言った。
「うん、迷惑だから」
その彼女の一言が、ぼくの胸を抉った。
ぼくの頭は、思考という精神の作用を停止していたけど、かろうじて、ぼくが、ここにいてはいけない、ということは理解できていた。
「ごめん」
わずかに、そう言うと、ぼくは、壊れたからくり人形のように、一歩一歩をその場に刻んで、立ち去った。
午後の授業は、何も、頭に入らなかった。もっとも、普段から、授業なんて聞いてはいなかったんだけど。ただ、この時は、彼女の「迷惑だから」という言葉が、頭の中で何度も渦を巻きながら、繰り返されていた。ぼくなら、彼女と上手くやっていけるんじゃないか。そんな自分の自惚れを笑い、そして、それに泣いた。
時間というヤツは、ぼくらの気分に関係なく、勝手に、そして、変わらずに過ぎてゆく。もどかしい時間が流れて、ようやく一日の授業が、すべて終わると、ぼくは、一刻も早く一人になりたかった。だけど、ぼくの手は、ぼくの意思に反して力なく、どうしようもなくのんびりと、教科書をカバンに詰め込んでいた。
ぼくが、そんな風に手間取っていると、彼女が、急ぎ足で教卓の後ろを通り抜けて、出口へ向かうのが、視界の隅に見えた。今日は、随分急ぐんだな、なんて思う自分がいて、そんな自分を擦りガラス越しに眺めるように見ている、もう一人の自分がいた。
そんな時だった。島田とその友人二人が、ぼくのところへやって来た。たしか、二人とも野球部だ。背の高い方が、内川で、もう一人が、中根といったはずだ。
口を開いたのは、島田だった。
「あのさあ、オマエ、今日、榊と話してただろう。さっき昼休みに外見てたら、オマエが、アイツと一緒にいるとこ、見ちゃったんだよ。悪いこと、言わないからさ、アイツには関わるなって。アイツ、マジでヤバイから。去年、同じクラスだったオレが言うんだから、間違いないって」
コイツら、何を言ってるんだ。そんな風に思いながらも、ぼくの意識は、三歩ほど下がった位置から、冷めた目で見ているようだった。丁度、リビングのテレビをダイニングからチラ見しているみたいに、見えてもいるし、声も聞こえるのに、心が反応しない。そんな感じだった。
彼らの目には、そんなぼくの様子が、島田の言葉に反発しているように、見えたんだろうか。
「あのさあ、コイツだって、お前のことを心配して言ってるんだからさ、そんな顔するなよ」
内川が、横から猫なで声で言ってきた。その言葉は、聞こえていたけど、意味は理解できていなかった。「そんな顔」って言われても、今のぼくは、自分がどんな顔をしているかも、わかっていなかった。
「とにかく、アイツ、マジでヤバイから。オレら、部活あるから行くけど、マジでアイツにだけは近づくなよ。オマエのためを思って、言ってるんだからな」
そう言うと、彼らは、教室から出て行った。
その後、自分がどうやって家まで辿り着いたか、ぼくには、定かな記憶がない。人間というものは、頭が思考を停止していても、日々のルーチンワークだけは、こなしてしまうものらしい。
気がつくと、ぼくは、リビングのソファに座ってテレビを見ていた。共働きの両親は、まだ帰っていなくて、しんとした部屋の中で、テレビの音声が、寂しく一人喋りをしていた。
テレビの中では、レポーターがマイクを持って、街行く人に、将来の夢を聞いて回っている。ぼくは、他人の夢に興味はないし、こうして他人の夢を聞きかじることの、何が楽しいかも、理解できなかった。
さっきまで、ぼくにも、ささやかだが、夢といえるものはあった。彼女と親しくなりたいという、あまりにもささやかな夢が。だが、叶わない夢が、たいていそうであるように、その夢が、ぼくの心に苦い思いを刻み込んでいた。
テレビの中では、どこかの女の子が出てきて、結婚して、海外に住みたい、なんて言っていた。
「ああ、そういうもの、なんだろう」
そうさ。人は、いつも、ここじゃないどこかに、願いを託したがる。
自分が、今いる場所を変える勇気がないから、どこか他の場所でなら、幸せが待っていると考えたがるんだ。それに、女の子には、自分の人生にどれだけ失敗しても、結婚という一発逆転の逃げ道がある。
男のぼくには、それがない。自分の人生は、自分で作り上げるもの以外に、何も存在しない。そして、ぼくは、今日、さっそく躓いた。
にぎやかなテレビの中の世界が、傷ついたぼくの心を刺した。ガランドウになった虚ろな胸の内に、幸せそうな人たちの声がこだまして、なお一層の寂寥を駆り立てる。いたたまれなくなったぼくは、テレビを消して、二階の自分の部屋に行き、ベッドの上で横になった。すると、今日一日のことが、次第に実感を伴って、感じられるようになってきた。
きっとこれが、失恋というものなんだろう。人との関わり合いを避けてきたぼくには、初めての体験だった。
不意に、胸の奥から軋むような音が聞こえて、何かが、胸の奥、心臓の辺りだろうか、その辺りをギュッと締め付けているような感じに襲われた。そのまま、そこに生きる気力というか、エネルギーみたいなものが、果てしなく吸い込まれてゆくようで、体から、力が失われていった。
その胸の痛みは、腕の内側を通って、小指まで続いてゆき、悲しみという一本の線が、おもりとなって、ぼくを縛り付けていた。
この年になって、ようやく、ぼくは、気付いた。愛されないことよりも、愛する人に振り向いてもらえないことの方が、辛いんだということを。ぼくは、彼女に心惹かれていた。でも、今日、はっきりと、彼女から拒まれた。
彼女とは、まだ出会ってから、いくらも経たない。でも、自分が必要とする人にとって、自分が迷惑以上のものではないと知ったことで、自分は、この世の中に価値を持たない人のように感じていた。
世の中から拒まれたのなら、世の中を憎めばいい。そして、似たり寄ったりの連中とつるんで、ひねくれて見せればいい。でも、好きな人に拒まれた時は、どうすれば、いいんだろう。一番必要とされたい人から、「迷惑だから」と言われた時には。ぼくには、その答えが見つからなかった。
ぼくは、彼女のことを思い出そうとした。初めて会ったあの日、彼女の肩で揺れていた髪。翌日、教室で、初めてぼくを見た時の驚いたような顔。今まで見てきた彼女の姿を思い浮かべていた。
ふと、彼女の笑顔を思い浮かべようとした時、ぼくは気づいた。ぼくは、まだ彼女の心からの笑顔を見ていない。少し笑ったように見えた時もあった。でも、そんなのは、笑顔のうちに入らない。一度でいい、彼女の心からの笑顔を見てみたい。そう思った。
ぼくは、彼女に愛される資格が、無いのかもしれない。でも、心から楽しそうにしている彼女の姿を、ぼくの思い出にしたい。そんな風に思い始めていた。
彼女にとって、ぼくは、迷惑なだけの存在かも知れない。でも、もし彼女が、笑っていてくれるのなら、ぼくは、さえないピエロの役回りだって、構わない。そう、彼女が、幸せであってくれれば、ぼくのことなんて、どうでもいいんだ。
ぼくは、次第に、こう考え始めていた。たとえ、ぼくが、彼女にふさわしくないとしても、ぼくは、ずっと彼女の味方でいよう。島田たちの言葉が、よみがえってきた。
「アイツ、マジでヤバイから」
でも、ぼくは、思い出していた。
「迷惑だから」
と呟いた時の、彼女の様子を。
彼女は、まるで、とてもつらい決断を下すように、その一言をふり絞るように言った。きっと彼女は、本当は、心優しい女の子なんだろう。だから、ぼくを傷つけることが、つらかったのかも知れない。
それが、彼女の優しさであるならば、ぼくは、その優しさに応えよう。自分の利益ばかり考えている人間を、ずっと、ぼくは、軽蔑してきた。あんな風には、なりたくないって、ずっとそう思ってきたはずだ。ぼくは、ぼくの信念を貫こう。
たとえ、ぼくが、愛されることなんて、なくてもいい。それでも、ぼくは、彼女の味方でいよう。クラスの連中は、彼女のことを忌み嫌っているかも知れない。でも、ぼくは、ぼくだけは、彼女の側に立とう。ぼくには、彼女に愛される価値がないとしても、彼女を守ることで、ぼくは、ぼく自身に生きる価値を見出そう。
いつしか、ぼくは、そんな風に考え始めていた。