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志織  作者: 越智千尋
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第2章

 一通り新学期の全体行事が終わると、クラスごとに分かれ、これから一年間、ぼくらの面倒を見ることになる、中野という名前の担任が、教室にやって来て、挨拶を始めた。でも、ぼくには、挨拶というより、説教に聞こえた。

 これからの一年間、つまりは、高校二年の間で、受験勉強のスタートラインが決まってしまう。受験のことを考えたら、この一年を無為に過ごしてはいけない、と、ソイツは、熱をこめて語ってた。

 まったく、これだから、大人ってヤツは始末が悪い。一方で、もっと勉強をしろと言い、もう一方では、勉強だけじゃなく、もっと自分のいろんな可能性を試してみろ、とか言う。ぼくらの一日が、ヤツらの一日と同じく、二四時間しかないというのを理解していないんだろうか。

 おまけに、何かというと、若い頃にもっと勉強していれば、自分の人生も変わっていたかもしれない、なんて言い出すし。だったら、今から勉強すればいいんだ。そうすりゃ、今からだって、アンタの人生は変わるよ。

 年をとると、なかなか思うように勉強できなくなる、とも言う。何を言ってるんだか。若い頃だって、そうやって何かと理由を見つけては、勉強できなかったんだろう。

 こんな言い草を聞かされる度に、ぼくは思う。大人の90%は、理不尽でできていて、残りの10%は、他人への期待で、できているんじゃないかって。

 ぼくが、そんなことを考えているうちに、教師の自己満足と、ぼくらの忍耐とで構成される「教師の挨拶」という苦行も終わりを告げた。

 どうも、この教師という人種は、ぼくとは、わかり合えないらしい。あれは、中三の時のことだっただろうか、こんなことがあった。

 国語の山村という教師が、課題として川柳を作ってくるように言った。そこで、ぼくは、次のような川柳を作ってきた。

「ハナクソを ホジって幸せ かみしめる」

 それが、ぼくの作ってきた川柳だった。

 放課後、山村から呼び出された。ヤツは、言った。

「お前、ふざけているのか。何なんだ、これは」

 ぼくは、ふざけてなんか、いなかった。

 山村は、こんな態度だと内申にも響くぞと脅す。ぼくは、「いいですよ」と返した。

 読書好きのぼくの国語力は、クラスの中でも断トツで、この程度の減点は、たいしたことじゃない。山村は、なおも、本当にやるぞと言って脅す。ぼくも、本当にいいですよと言って、譲らない。

 すると、山村は、受験がかかっているのに、そんなことが、できるわけがないだろうと言う。当然だ。ぼくが、いい高校に進学しなければ、進学実績が下がる。だったら、最初から無意味な脅しなど、使わなければいい。

 そもそも、この山村という教師は、頭の中まで岩石で構成されているような、頭の固い男だ。ぼくは、ソイツのことを、ひそかにダイヤモンド・ヘッドと呼んでいた。

 だいたい川柳とか狂歌というのは、江戸時代、くだらない冗談として流行ったんだ。たとえば、四方赤良よものあからという人が、深夜まで酒宴に居座って帰らないのを迷惑がった人が、こんな狂歌を彼に送っている。


 いつ来ても 

  夜更けて四方の長話 

 赤良さまにも

  申されもせず


 というものだ。「四方赤良」と「四方山話」、「あからさま」と「赤良様」を引っ掛けているんだ。要は、純粋なシャレなんだ。川柳とか狂歌なんていうモノは、そうやって生まれてきた。

 なのに、後世になって、文学的価値とか、伝統とか、不純なモノを持ち込むから、廃れてしまったんだ。文化なんていうものは、面白いからこそ、流行るんであって、それを格式とか伝統とかで、がんじがらめに縛りつけてしまうと、結局面白くなくなって、いつか廃れてしまう。

 そんなことを、ぼくが、言うと、山村は、「屁理屈を言うな」と言って、尚更、怒り出した。

 教師というヤツは、生徒を屈服させるということに、異常な執念を燃やす。ぼくの不幸は、頭を上げたままでしか、生きられないことだ。説教とも、訓示とも取れる担任の話を聞きながら、ぼくは、そんなことを思い出していた。

 その後、クラス全員が、名前だけの簡単な自己紹介を行った。新しいクラスメートとか、そんなものには、何の興味もないぼくにとっては、どうでもいいことばかりだったけれど、唯一つ気になっていたのは、朝の彼女のことだった。

 彼女も、ぼくと同様、クラスメートの自己紹介など興味無いらしく、一人ひとり席を立って、自分の名前を言っている間も、当人の方を見ることもなく、所在無げに、やり過ごしていた。

 そして、自分の番が回ってくると、目線を机の上に落したままで、

「榊志織」

 とだけ言った。その名前は、その日ぼくが覚えた、たった一つの名前だった。

 ぼくらの学校は、このさして大きくもない地方都市では、進学校として通っていたので、新学期二日目からは、すぐに授業が始められるように、クラス委員を決めるのも、席を決めるのも、新学期初日の今日に済ませてしまう。その結果、ぼくは真ん中の一番後ろ、彼女は窓際の前から三番目の席に決まった。

 その他、担任からの注意や連絡があり、やっと学校から釈放されたのは、昼頃だった。

 彼女は、すべてが終わると、特に急ぐということもないが、かといって、誰かと居残るわけでもなく、なにごともなく教室を出て行った。ぼくもまた、部活があるわけでもないし、クラスメートとのおしゃべりがしたいわけでもないから、荷物をまとめると、教室を出ようとした。

 すると、突然後ろから肩を叩かれた。振り向くと、島田がいた。

「よお、相川、久しぶり。中学以来だな」

 島田が、言った。コイツは、ぼくの中学の同級生だ。

「アレッ。お前もこのクラスか」

 ぼくの反応を見て、島田が笑った。

「オマエ、変わんないよな。クラスのこととか、どうでもいいんだろ。みんなが自己紹介してる時、大きな口あけて、アクビとか、してたもんな」

「なんだよ。見てたのか。てか、気づいてたんなら、声掛けろよ」

「ゴメン、ゴメン。でも、オマエ、みんなと関わりたくないオーラ、出てたからさ。でもまあ、同じクラスになったのも何かの縁だし、今年一年よろしく頼むわ」

「ああ、コッチもな」

 島田は、ぼくとは違って、わりとクラスの人気者だった。だいたいコイツは、中学時代から野球一筋で、当然のことながらいつも部活の仲間と一緒だった。

「あ、オレ、部活あるから、もう行くわ」

「ああ、じゃあまたな」

 急いで教室を出ていく島田を見送ると、ぼくも、ボチボチ帰ることにした。

 ぼくにとって、学校というところは、勉強という用事を済ませるための場所でしかないし、用事が終わったら、長居する場所でもなかった。でも、もう少し正確に言うなら、学校は勉強するための場所というのは、違っているかも知れない。だって、ぼくは、ロクに勉強なんてしていないから。

 進学校に通っているからといって、別に行きたい大学があるわけでもなし、将来やってみたい仕事があるわけでもない。要は、ぼくの年代にとって、学校に通うというのは、ある意味、世間となんとか折り合いをつけていくための処世術って言った方が、当たっているかも知れない。

 こんな風な冷めた考え方をしているからと言って、別に、ぼくが、問題児って、わけでもないと思う。

 イジメられているって、わけでもないし、コミュ障って、わけでもない。ぼくだって、話しかけられれば、それなりに受け答えするわけだし、避けられたり、嫌われているってことも、ないと思う。

 一年の時、周りのみんなが、ぼくを見る目は、「問題児」っていうより、「変わり者」っていう感じだった。ぼくが、もし問題児って言われるとしたら、それは勉強のことくらいだ。

 まあ、ぼくの通っているのは、まかりなりにも進学校だから、みんな予習をやってくる。でも、ぼくは、家で勉強なんてやったことがない。

 実際、中学の時には、それでも、まったく問題はなかった。ぼくだって、中学と高校とでは、授業の質が全然違うってことは、知っている。当然、ぼくの成績は、落ちるとこまで落ちて、見事な低空飛行のアクロバットを披露していた。

 とはいっても、昔ながらのおおらかな気風の進学校である我が校では、よほどのことがない限り、赤点なんてつかなかった。

 成績が悪いっていうのは、それを気にする人間にとっては、大問題なんだろうけど、ぼくみたいに、気にしない人にとっては、字が下手だとか、絵が上手だとかいうのとさして変わらない、ある種の個性にしか過ぎない。つまり、どうでもいいことだった。

 家に帰ると、ぼくは、今日のことを考えていた。朝出会った彼女のことを。今まで、ぼくが、出会ったことのないタイプだ。

 教室に入ってからも、ずっと一人で、何を考えているのかわからないし、何人か、話しかけようとしたヤツはいたけれど、その度に、絶妙ともいえるタイミングでソッポを向いてしまう。だから、誰も、話しかけるタイミングをつかめない。

「ああいうのを、オーラっていうのかな」

 そんな風に、考えてしまう。

 人との関わりを避けているっていうか、そのくせ、ぼくには、彼女が寂しがっているようにも見えたし、何か不思議な子だ。でも、そんな不思議な子が、ぼくには、気になって仕方がなかった。

 年頃の男の子としては、女の子に人並みの興味はあったけれど、どうも、ぼくには、同年代の女子の話を聞くのは、ムリみたいだ。

 好きなアイドルのことを悪く言うヤツがいると、

「あの人は、絶対いい人なんだからね。みんな、わかってないだけ」

なんて、言い出すんだから。

「だいたい、お前は、ソイツに会ったことあるのかよ、何で、そんなこと、わかるんだよ」

 なんて思ってしまう。

 それと「カワイー」とか、やけにトーンの高い声で絶叫するのも、うるさくって仕方ない。挙げていったらキリがないけど、コイツらの頭の中には、便所のタワシでも詰まっているんじゃないかと、本気で考えてしまう。要するに、ガキっぽい。ウザい。それに尽きる。

 でも、彼女は、他の女子とは全然違っていた。何ていうんだろう、どこか神秘的っていうか、謎めいているっていうか。

 みんなが、クラス委員を決めるので騒いでいる時も、机の上で頬杖をついて、窓の外を眺めている姿は、なにか特別な人みたいだった。彼女のような人とだったら、ぼくだって、上手くやっていけるんじゃないか。そんな風に思えた。

 いつの間にか、彼女の少し寂しそうな、それでいて、他人を寄せ付けないその横顔が、ぼくの心の中から、離れなくなっていた。

 翌朝、学校へ行くと、彼女は、まだ来ていなかった。改めて教室の中を見渡してみると、去年も同じクラスだったヤツが、六人いた。六人とも、特に、ぼくと親しかったわけじゃない。といっても、ぼくと特に親しいヤツなんて、この学校には、いないけど。

 早くも、クラスの中には、グループが、でき始めていて、あちこちで、かたまって話している連中がいる。

「でも、考えてみれば、部活やっているヤツラは、同じ部活の仲間がいたりするわけだから、別におかしなことでもないか」

 なんてことを、ぼくが、思っていると、教室の前の扉が開いて、彼女が、入ってきた。そのまま教卓の後ろを通って、窓際の席へ向かう途中、不意に、彼女が、教室の中に視線を走らせた。

 その視線が、ぼくを通り過ぎる時、彼女は、一瞬、何かに気づいたように立ち止り、もう一度、ぼくを見た。

 目が合った。思わず、ぼくは、ドキッとしてしまった。

 気のせいか、彼女は、ぼくを見て、驚いているように見えた。少しの間、そうやって、ぼくを見た後、彼女は、視線をそらして、自分の席へ向かった。

「今のは、一体、何だったんだろう?」

 今日は、まだ新学期二日目で、ぼくは、まだ彼女と会話さえ、していない。だから、ぼくは、彼女にとっては、名もないクラスメートにしか過ぎない。だけど、さっき、ぼくを見た彼女の目は、明らかに、ぼくを、ぼくとして、意識していた。というか、少なくとも、何らかの関心を持っているような感じだった。

 ひょっとしたら、ぼくは、以前、彼女と会ったことが、あるのかな。ぼくには、そんな記憶は全くなかったんだけど。

 彼女は、自分の席に着くと、カバンの中から教科書を取り出して、机の中にしまい、昨日と同じように、頬杖をついて窓の外を眺め始めた。でも、昨日とは、少し様子が違っていた。窓の外を見ながらも、外の景色ではなく、別の何かに気を取られているような、そんな感じだ。

 しばらくすると、彼女は、後ろを振り向いた。何となく振り向いたんじゃない。明らかに、彼女は、ぼくを見ていた。そして、やっぱり、さっきと同じように、驚いている感じだ。けど、すぐにツイと視線をそらして、またすぐに、窓の外を見始めた。

 ぼくは、なにか狐にでもつままれているような、不思議な感覚だった。彼女は、ぼくのことなんか、知らないはずだ。昨日、掲示板の前で会った時だって、ぼくは、彼女を見ていたけど、彼女は、ぼくに気づいていなかった。なのに、彼女は、今、はっきりぼくを意識している。

「よっぽど、ぼくが、変態にでも見えたのかな?」

 なんて考えていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、島田がいた。

「よお、オハヨ」

「ああ、おはよう。朝練、終わったのか?」

「ああ、今終わったとこ」

 相変わらず、島田は屈託のないヤツだった。ぼくも、コイツのように脳天気だったら、少しは人生も変わっていたかもしれない。

「ところでさ、オマエ、今、榊、見てなかった?」

 突然、島田が声を低めて聞いてきた。

「イヤ、なんか見るともなしにさ。お前、あの子のこと、知ってんの?」

「一年の時、同じクラスだったからな。ホント、変なヤツだよな。で、なに、ひょっとして、オマエ、アイツに気があるの?」

「そんなんじゃないよ」

 何でだろう、島田のようなヤツに「変なヤツ」とか言われると、何か気分が悪い。自分が悪く言われているように、感じてしまう。

「お前、だいたい人のことを『変なヤツ』って、失礼だろう」

「だってさ、一年の時、いろいろあったんだよ」

「いろいろって?」

 島田は、口を開きかけたが、何かを見て、すぐにやめた。

 島田の視線の先を探ると、彼女が、コッチを見ていた。その時の彼女の表情に、ぼくは、ハッとした。悲しみとも、寂しさともとれる、何ともいえない顔だった。例えば、何度も裏切りにあってきた人が、やがて、あきらめることを覚えてしまったような、見る人の胸を刺す表情が、そこにあった。

「ヤベッ、聞こえちまったかな。じゃ、この話はまたな」

 そう言うと、島田は自分の席に向かった。

 ぼくは、再び彼女の方を見た。その時には、彼女は、もう、ぼくを見ていなかった。視線を膝に落として、必死に何かに耐えているようだった。そんな彼女の姿を見るのは、正直つらかった。一年の時、何があったかは知らない。だけど、こんな風に彼女を悲しませた事で、ぼくは、島田に腹が立った。

 チャイムが鳴り、担任がやって来て、ホームルームが始まっても、彼女は、ずっとそのままだった。だけど、その一方で、彼女をこんなに悔しがらせる一年の時の出来事というのが、どういうものなのか、気になっていた。

 一時間目は、英語の授業だった。担当は、西田という五十代初めの先生で、去年も、ぼくのクラスを担当していた。これは、ぼくにとっても、好都合だった。

 というのも、一年の時、ぼくは、一度も英語の予習をしてこなかった。最初のうちは、西田も、ぼくを当てて、教科書の英文を訳させようとしていたが、なにせ全く予習をしていないから、訳せるわけなどなく、そんなことが続くうち、西田は、ぼくの存在を無視するようになった。

 おかげで、ぼくは、公然と予習不要という特権階級に、身を置くことができた。もっとも特権階級でなくても、予習しないわけだから、たいした違いがあるわけじゃ、なかったんだけど。

 西田は、いわゆる「教育熱心」なタイプの先生で、自己紹介は五秒ほどで済ませ、つまり、名前を名乗っただけで、終わらせたんだが、初日から、いきなりトップギアで授業をスタートした。

 初日は、予習などしてこなくても、大丈夫だろうとタカをくくっていた連中は、焦り、予習してきた連中は、誇らしげにしていたが、「教育熱心」な西田は、焦っている方の生徒を当てて、訳させていった。

 もちろん焦っている方は、予習ナシグループだから、まともに訳せるはずもなく、当てられた生徒は、説教という名のささやかなプレゼントを受け取る羽目になっていた。

 そのうちに、西田は、窓際で外を眺めている彼女に目を留めた。

「そこのお前、授業中に外を見ているなんて、余裕だな。よし、次のところ、訳してみろ」

 当てられた彼女は、教科書を持って、席を立った。すると、いきなり指されたところからスラスラと訳し始めた。

 これは、ぼくにとって、ちょっとした驚きだった。彼女が、授業を聞いているとは思わなかったし、訳も全くよどみなかった。ぼくは、勝手に、彼女が、ぼくと同じタイプだと思っていたから、勉強なんて、できないだろうと思っていた。だから、こうして優等生として振る舞う彼女は、とても意外だったし、変な話だけど、彼女のことを誇らしく思ってしまった。

 彼女は、訳し終わると、ゆっくりと腰を下ろした。でも、その途中、不意に後ろを振り返って、ぼくを見た。その時、ぼくは、まだ呆気にとられていて、そんなぼくを見て、彼女は少し笑ったようにも見えた。

 その後も、相変わらず、彼女は、窓の外を眺めていたけど、その後ろ姿は、さっきよりも明るくなったように見えた。さっきの島田のあの失礼な発言から、彼女が、気分を回復してくれたことが、ぼくには嬉しかったし、この出来事で、ぼくと彼女の距離が、少し縮まったような気がしていた。それに、どういう事情かは知らないけれど、自分が、彼女の役に立ったような気がして、誇らしかった。

 そうして、四時間目が終わって、昼休みに入ると、ぼくは、購買へと急いだ。ぼくの家では、両親は共働きで、仕事が忙しい母親は、弁当など作っている暇などなかった。というか、夕食も、時々、コンビニ弁当を買ってきて、それで済ます時がある。だから、ぼくは、いつも購買でパンを買って、お昼を済ませていた。

 幸い、ぼくの新しい教室は購買に近くて、一年生の時には、滅多にありつけなかった焼きそばパンやコロッケパンも手に入った。お昼を買って、教室に戻ると、彼女の姿はなかった。トイレにでも行ったのか、と思ったけれど、ぼくが、食べ終わっても、帰ってくる気配はなかった。ぼくは、昼食を食べ終わると、カバンから本を取り出して、読み始めた。

 だいたい、この昼休みというのは、ぼくのように、クラスメートとの他愛ないおしゃべりを趣味としない人間にとっては、長過ぎるんだ。

「昼休みは、もう少し短くしてもいいから、帰り時間を早くしてくれないかな」

 なんて、思ってしまう。もっとも、そんなことを思っているのは、クラスの中で、ぼくだけだろうから、多数決をとれば、却下されるんだろうけど。

 いや、でも、ひょっとしたら、彼女なら、ぼくに同意してくれるかも知れない。実際、四時間目が終わってから、教室を出て、戻ってこないんだから、たぶん、彼女も、この時間を持て余しているんじゃないか。

 そんな風に考えると、ぼくは、彼女のことを、このクラスで、たった一人の同志のように感じた。もちろんそれは、ぼくが感じただけで、彼女が、どう思っているかなんて、確認したわけじゃない。でも、ぼくには、彼女が、ぼくと同じように考えているという、妙な確信があった。

 昼休みも、残り少なくなったところで、ぼくは、読書の時間を切り上げることにした。

 まだ、彼女は、教室に戻ってなかったけど、ふと視線を感じて、右隣を見た。すると、興味津々といった感じで、こちらを見ている目とぶつかった。眼鏡を掛けた、いかにも気の弱い優等生といった感じの男子生徒だった。

 まあ、ここは進学校なんだから、この学校に通っている時点で、たいていのヤツは優等生なんだけれど。

「あ、はじめまして。『はじめまして』で、いいよね、僕たち、まだ挨拶していなかったから。僕は、小池和也。君は?」

 ソイツは、そう言って、おずおずとほほ笑んだ。

「相川啓一」

 互いに名前を名乗りあったところで、ソイツは、さっそく本題を切り出してきた。

「ねえ、何、読んでたの?」

 相当、気になったらしい、ソイツの目は、興味で輝いていた。

 確かに、気になるだろう。文庫本サイズで、しかも、水色のハードカバーなのだから。賭けてもいいが、コイツは、今まで、そんな装丁の本は、見たことなかったに違いない。

「本」

 そう答えると、ソイツは、何かの冗談だと思ったらしい。ぼくとしては、いたって真面目に答えたつもりなんだけど。

 こんなつまんなさそうなヤツに、いちいち話題を提供してやるほど、ぼくは、心が広くない。オマエと話したくないだけなんだから、空気を読めよ、というメッセージを込めたつもりだったのに、ソイツは、逆に、ジョークで親睦を深めようとしていると解釈したようだった。

「本は、わかるよ。何の本なの?」

 笑いながら、重ねてそう聞いてきた。

「『トロイラスとクレシダ』」

 ぼくは答えた。

 ソイツは、一瞬ポカンとした。それは、そうだろう。この進学校の連中が読むような本じゃないから。

「誰が、書いた本なの?」

「気になるなら、ネットで調べたら、どうだ」

 ソイツは、戸惑ったようだった。だが、ぼくの様子から、この場は、あまり深く突っ込まない方がいいという、正しい判断を下したようだった。

 この進学校では、たいていの問題は、受験にとって、有利かどうかという基準によって価値が決まる。当然のことながら、シェークスピアの作品であっても、受験に出題されそうにないものは、スルーされることになる。

『ハムレット』とか『ロミオとジュリエット』辺りなら、誰もが、タイトルと作者名を知っているだろうし、文学史の問題で、それが出たら、正解をはじき出すだろう。

 でも、『トロイラスとクレシダ』のような、あまり知られていないものには、価値が認められていない。要は、そんなもの、受験には出題されないだろう、ということだ。つまり、価値がないと判断されるわけだ。

 実際、この学校では、シェークスピアの四大悲劇のタイトルをスラスラと答えられるヤツはゴロゴロいるが、それを読んだヤツは、ほとんど、いないだろう。ぼくが、この学校にウンザリしているのは、こういうところなんだ。

 本というものは、読むためにあるんであって、知識としてタイトルを覚えるためにあるんじゃない。多分、こんなぼくの考え方は、ここでは、異端の部類に属するだろう。だから、ぼくが、ここで異端者として振舞うことは、ごくごく当然のことなんだ。

 小池君は、まだ何か話したそうにしていたが、異端者相手に何を話していいのか分からずに、モジモジしていた。

 ちょうどその時、彼女が、教室の前の扉を開けて、入ってきた。そのまま教卓の後ろを通って、自分の席に向かう途中、ぼくの方をチラリと見た。自惚れでも何でもなくて、確かに、彼女は、ぼくを見た。

 こうしてぼくは、彼女のなにがしかの興味の対象になっていることで、誇らしく感じたし、また、彼女に対して同志のような親近感も感じていた。

「今、榊さん、相川君の方を見てなかった?」

 小池モジモジ和也君が、言った。

 ぼくは、小池の方を振り向いた。

「相川君、あの子には、気をつけた方がいいよ。僕、去年同じクラスだったんだけど、かなりおかしな子だから。あんまり近づかない方がいいよ」

 またか。ぼくは心の中で舌打ちをした。

 一年の時に何があったかは知らない。でも、何でそうまでして、彼女を避けなければいけないんだ。さっきの島田もそうだったけど、何で、皆して、ここまで彼女のことを悪く言うんだろう。

 人間なんて、誰しも、失敗はあるものだし、高校生活のスタートラインである一年の時の印象で、三年間のすべてが決まってしまうなんて、バカげてる。このクラスには、島田や小池以外にも、彼女の去年のクラスメートが、いるだろう。ソイツらが、まずは噂という種をまく。やがて、それは、クラス全員シカトという実を結ぶ。くだらない。

「あのさ、人間なんて、みんな、どっかおかしなところを一つや二つは持ってんじゃないの。お前だって、そういうの、あるだろ。だからって、いちいち避けるだなんだって言ってたら、世の中、生きていけないだろうが」

 ぼくが、そう言うと、

「あ、いや、僕が、言ってるのは、そういうことじゃなくって。ただ、あの子は、ホント、特別な子だから」

 小池が、慌てて言い訳を並べ始めた。その時、授業開始のチャイムが鳴った。ぼくと小池の話は、それっきりになった。

 ぼくは、授業中も彼女の後姿を眺めながら思っていた。もしも、クラス全員が、こんなくだらないことで、彼女をシカトしたとしても、ぼくだけは、彼女の味方でいよう。島田や小池の話では、彼女は、相当な異端者であるらしい。ぼくだって、ここでは異端者なんだ。だったら、ぼくと彼女は、異端者同士の同盟関係を結ぶのも悪くない。

 というより、彼女と運命共同体になれるものならば、ぼくには、何の異存もなかった。たとえ、クラス全員を敵に回したって、関係ない。もともと、ぼくは、ヤツらの仲間じゃないんだから。そんなぼくの決意を知ってか、知らずか、彼女は、相変わらず窓の外を見ていた。

 一日の授業が終わると、昨日と同じように、彼女は、急ぐわけでも、ゆっくりするわけでもなく、帰り支度を整えて、教室を出て行った。ぼくも、授業さえ終われば、学校に留まる理由もないし、早々に退散することにした。

 学校の前の坂を下りきったところに、みんなが、「前店」と呼んでいる売店がある。文房具や菓子を扱う店で、部活をやっている連中は、いつも帰りにこの店で、しばしの社交タイムを過ごしている。友達のいないぼくには、あまり馴染みのない場所だが、ノートとかシャーペンの芯が切れた時など、何度かこの店を利用したことがある。

 店の前を通り過ぎて、少し行くと、大きな通りがある。ここには、バス停があって、バス通学の連中は、ここから通っている。ぼくは、電車通学なので、大通りを渡って、右に少し歩いたところにある駅に向かった。

 ぼくらの学校は、進学校ではあったが、部活も盛んで、この時間帯に電車に乗るのは、たいてい三年生の先輩たちだ。ただし、先輩たちは、ぼくと反対方向の電車に乗る。というのも、そちらには、この地方都市の中心があり、そこには、この街で唯一の予備校があるからだ。ぼくは、受験戦争に立ち向かう勇猛果敢な先輩たちを向かいのホームに見ながら、電車を待った。

 この高校に入って、最もよかったことは、定期が使えるようになったことだ。おかげで、帰宅途中の駅で降りて、この街では珍しい古本屋なるものに、寄れるようになった。

 ぼくは、自宅のある駅から、二つ手前の駅で降りると、その古本屋を目指した。我が家では、お小遣いの支給は、毎月一日と決まっている。もちろん、今月も一日に、母親の財布から既定の金額をいただいたのだが、なにせ、春休みでだらけきった生活が続いていたから、外へ出るのが億劫だったんだ。

 そんなわけで、今日は、今月の古本屋デビューの日となった次第だ。

 駅前の商店街、わずか三十メートルしかないさびれた店の集まりを、商店街と呼べるならの話だが、その一番奥に目指す店はあった。ぼくは、店に入ると、早速今月の戦利品となるべき獲物を探し始めた。

 とはいっても、古本屋なんていうものは、売りに来る人も、買いに来る人も、ある程度決まっている。だから、月が、変わったからといって、ラインナップが、大幅に変わるわけじゃない。

 にもかかわらず、ぼくが、こうしてチェックしているのは、財政上の都合によって、先月買えなかった本が、まだ手つかずで残っているかどうか、新しい本が、入荷されていないかどうか、この二点を調べていたんだ。

 この街には、なかなかのマニアがいると見えて、時折、文学関係で掘り出し物に出会うことができた。昼休みに読んでいた本も、ここで見つけた掘り出し物の一つだ。シェークスピアなんて、どこの本屋でも手に入るけど、あの『トロイラスとクレシダ』は、そういうのとは、モノが違う。

 そもそも、シェークスピアは、セリフが長い。元の英文では、いろいろなリズムや調子があるんだろうけど、そういった持ち味は、翻訳の過程で、かなり失われてしまうものだ。もっとも、ぼくに、原文の味わいが、わかるわけじゃないんだけど。

 ただ、あの本を読んだ時、言葉が流れるような文章のリズムが、ぼくの心をとらえた。それは、戦前に出版された坪内逍遥の訳だ。もちろん、旧仮名使いで書かれているので、最初のうちは戸惑った。でも、慣れてしまうと、言葉の美しさが胸に響いた。

 さて、そんな掘り出し物を今日も狙ってきたんだけど、調査の結果、いくつかの新作が入っていることがわかった。

 ここからが、古本屋めぐりのクライマックスだ。まず、状況を整理しよう。今、ぼくの手元には、今月分のお小遣いがある。これが、第一の状況だ。

 しかるに、今はまだ月初めで、不意の出費のために、セーブしておく必要がある。これが、第二の状況。つまり、全額をここで投資するわけにはいかない、ということになる。ここに吟味という過程が始まる。それは、予測と駆け引きだ。

 今、最も読みたい本を買う。それは、ぼくに言わせれば、ただの素人だ。なぜなら、ぼくの財政状況は、読みたい本をすべて手に入れるほど、恵まれてはいない。で、あるならば、だ。読みたい本の中から、いくつかを選択しなければならない。

 選択する基準の中で、重要なことは、売れそうにない本は後に回して、売れそうな本を優先的に、選び取らなければならない、ということだ。というのも、ここは古本屋だからだ。通常の本屋であれば、売れてしまったら、次の入荷を待てばいい。しかし、古本屋では、そうはいかない。次にその同じ本が、ここに並ぶ可能性は、きわめて低い。

 もちろん、読んでは売り、読んでは売りの自転車操業をする人もいるが、たいていは、気に入った本は、手元に残しておくものだ。つまり、読む価値のある本ほど、一度チャンスを逃したら、それっきりになってしまう可能性が高い。当然、より読みたいのは、どの本か、という問題にもここで配慮しなければならない。

 知らない人が見たら、ただボーッと本の背表紙を見ているように、見えるかも知れないが、こうした瞬間にも、ぼくの脳細胞は、フル回転していた。

 こうして、様々な要素を検討した結果、ぼくは、ついに一冊の本を手に取った。『草の花』という本だ。どうやら、純文学らしい。福永武彦という人が、書いたものだ。こうして、戦利品を手に入れたぼくが、店を出た時には、早くも、街は、夕暮れに包まれていた。ぼくは、随分長い間、古本屋にいたようだ。

 再び電車に乗って、家へ帰る。その頃になっても、まだ、両親は、帰っていなかった。ぼくの両親は、共働きで、父親は、大学教授、母親は、いわゆる地方公務員というヤツだ。そもそも大学教授という仕事が、毎日、大学にせっせと通う必要のあるものなのかどうかは、知らない。でも、ぼくの父親は、朝は、ゆっくりめに出かけるが、帰りは、夕方になる。当人いわく、大学にいた方が、研究に集中できるんだそうだ。

 もっとも、今でこそ大学教授などという、エリートコースの見本のような立場だが、昔は、いろいろ、あったらしい。

 そもそも、大学の教官になるためには、大学院というところに、五年も通わなければならない。いい年をした大の男が、大学院を卒業するまで、授業料を払いながら、大学に残らなければならないわけだ。もちろん、父も、バイトをやってはいたが、専門である刑法の研究のためには、膨大な本を買わなければならない。そのため、生活は、相当に苦しかったようだ。

 その上、父が、母と結婚したのは、父が、大学院生の時だ。したがって、一時は、すでに就職していた母親の稼ぎで、暮らしていたらしい。こういうのを、世間では、ヒモと言うのだろうか。

 その当時は、生活が苦しく、いろいろと大変だったらしい。ただ、ぼくの両親は、そうした苦労話を押しつけたがる世間の大人たちとは、違っていた。だから、ぼくは、

「オレの若い頃は」

 から始まって、

「近頃の若い者は」

 につながる、あの有名なフレーズとは、無縁だった。

 この点で、ぼくは、両親には感謝している。自分が、若い頃に、好きなことに打ち込んできたからなのか、無責任ともとれる放任を以て、教育の基本としていた。そんな両親が、ぼくのこのひねくれた性格の生みの親でもあったといえる。ただ、別に、ぼくに不満があるわけじゃない。

 ともあれ、両親は、あまり帰りが遅くなることはない。子供のぼくとしては、これは、ありがたいことだった。ぼくは、料理なんて、できなかったから、あまり遅く帰られると、空腹を持て余すことになる。自分の部屋で、今日の戦利品に目を通していると、やがて母親が、しばらくしてから、父親が、帰ってきた。

 夕食の間、他愛のない会話が、いくつかあったけど、ぼくは、それらを適当にやり過ごしていた。多分、普通の親なら、ぼくのような成績を持って帰ってくると、

「今年は勉強に力を入れないとな」

 とか

「将来は、どうするつもりなんだ」

 とか、言い出すんだろうけど、ぼくの両親は、あまり、そういうことは、言わなかった。

 そもそも、ぼくの両親は、ぼくのことには、全く口出ししなかった。人として、してはいけないことに関しては、注意をされるが、それ以外には、あまりうるさくない。普通なら勉強とか部活とか、あれをやれ、これをやれ、なんて、うるさいんだろうけど、ぼくは、両親からそういうことを言われた記憶がない。まあ、だから、ぼくのような人間が、出来上がったともいえるのだけど。

 両親ともに読書好きで、家には、たくさんの本があった。ぼくの本好きは、きっとこうした両親の影響だと思う。よく世間では、親の顔が見たい、なんて言う人がいるけど、ぼくの両親は、ぼくと大して変わらない顔をしていた。

 時折、近所のおばさんが、母親を訪ねてきて、

「ウチの子は、全然本を読まなくって」

 なんて、嘆いているのを耳にすることがあるけど、そういう親に限って、自分では本を読んでいない。

 そんなに、本を読むことがいいことだと思っているなら、まず自分が、読めばいいのに。でも、たいてい、こういう人たちは、それをしない。子どもが本を読まないのは、自分に似たのだということを理解できない親が、多過ぎると思う。

 その点、ぼくの両親は、ぼくにとっては、理想的な両親だと思う。食事が終って、リビングでテレビを見ている時も、

「学校は、どうだった」

「ぼちぼちだよ」

 なんて、軽いジャブの応酬があったが、それに続いて、

「勉強、どうするつもりだ」

 という伝説の右ストレートや、

「将来のことは、ちゃんと考えているのか」

 という幻の左フックが飛んでくることはなかった。要は、放任なんだ。

 テレビでは、くだらないお笑い番組が終わって、ニュースが始まっていた。先日、自殺した有名な映画監督の葬式の話が、本日のメインディッシュだった。

 ニュースの女性キャスターは、深刻な顔をして、哀悼の意を捧げていた。何でも低俗な写真週刊誌に私生活を暴かれて、精神的に追い詰められていたらしい。街頭インタビューでは、その監督のファンだという女性が、彼の自殺を特集した写真週刊誌を片手に、「とても残念です」と語っていた。

「いったい、何の冗談なんだろう?」

 と、ぼくは、思った。

 その映画監督を死に追いやったのは、彼女が、今、手にしている写真週刊誌のはずだ。自分の敬愛する人を奪った写真週刊誌を片手に、「残念」だって。ぼくには、彼女の行動そのものが、残念に見えた。こういう世間の人たちの常識ってヤツが、ぼくには、理解できない。

 そんなぼくの感想には、お構いなしに、ニュースは、何事もなかったように、次の話題へと移っていく。

 次の話題は、ある地方での、携帯の電波塔設置をめぐる住民との揉め事だ。住民は、電波塔設置についての公聴会が、きちんと行われていないことに対して、不満を語っていた。つまりは、電波の健康に対する影響が、何一つ、説明されていないというんだ。

 ひとしきり騒動を伝えた後、女性キャスターが、その話題を締めた。

 彼女は、語っていた。

「いやあ、でも、健康か、便利さか。これは、難しい問題ですね」

 彼女の周りに座っていた評論家や、他のキャスターたちも、彼女の言葉にうなずきながら、口々に「難しい問題ですねえ」なんて、語り合っている。

 ぼくは、呆れてしまった。

 住民が要求しているのは、公聴会であり、健康に影響があるのかどうかの説明だ。つまりは、だ。健康に多少影響はあっても、便利さとの天秤によっては、住民は、電波塔の設置を受け入れるということなんだ。

 なのに、知的女性のシンボルとも言われ、世間の憧れを集める、その女性キャスターは、

「健康か、便利さか」

 という単純な図式に論理をすり替えている。これでは、取材を受けた住民も、浮かばれないだろう。

 こういうのが、世間の常識的な思考なんだろうか。ぼくには、理解できない。世の中の多くの人が正しいと思えることが、常識なんだろう。でも、その世間の常識には、矛盾が、いっぱいある。あるいは、矛盾を矛盾と感じないことが、常識というものの本質なんだろうか。

 これは、さっきまで見ていたお笑い番組以上の喜劇だ。違うのは、芸人は笑えるが、こちらの喜劇は笑えない。

 隣を見ると両親が、晩酌片手に、まじめな顔で、ニュースを見ていた。イラついていたぼくは、二人に自分の疑問をぶつけてみることにした。

「あのさ、コレってどう思う?」

 そう言って、ぼくは、話を切り出した。

 ぼくの話が終わると、父親が、さも愉快そうに、声をあげて笑い出した。

「なるほど。それは重大な問題だ」

 父親は、言った。

「確かに、お前の言うことは、間違っていないと思うよ。でも、世間には、世間の常識がある。お前の言うことは、正しいけれど、正しいことが、必ずしも世間の常識であるとは、限らないからな」

 父親は、いつもこんな風にして、ぼくを、ケムに巻く。

「ソレって、どういうこと?」

「昔、ある人が、こんなことを言ったんだ。訳のわかった人は、自分を世に中に合わせる。わからず屋は、世の中を自分に合わせようとする。だから、世の中の進歩や発展は、わからず屋のおかげだってね」

「何が、言いたいんだよ」

「常識に納得できないってことは、大切なことだよ。だけど、その納得できない世間の常識の中で、生きていかなきゃいけないのも、事実なんだ。お前は、まだ高校生なんだから、これから、ゆっくりと、世間との妥協点を探していけばいいさ」

 世間との妥協点といわれても、ぼくには、難しい。ぼくは、世間に対して、妥協も譲歩もしているつもりだ。でも、世間の方で、ぼくを放っておいてくれない。

「ルールを守れ」

 とか、

「なんで、みんなと同じように、できないんだ」

 といった言葉が、飛んでくる。

 意味のあるルールなら、ぼくだって、あえて反対はしない。でも、無意味なルールも、多い。

 年長者の言うことを聞け、というのも、その一つだ。

 年長者の経験値になら、ぼくだって、素直に価値を認めよう。でも、先輩風を吹かせる連中が、後輩にジュースを買ってこさせたりする、いわゆる部活のルールのようなものには、納得がいかない。

 ジュースを買うという行為に対して、人生の経験が、どんな作用を果たすというんだろうか。そんな連中は、「社会の決まり事」という隠れ蓑を理由にして、自分の都合で人を振り回す、プチ独裁者にしか見えない。

 こんな常識に従う必要が、本当に、あるんだろうか。こんな常識が、人を幸福にするものなんだろうか。

 ぼくのようなひねくれ者は、この世の中で生きていくという、それだけのことに、いくつもの割り切れない思いを抱いてしまう。世間というヤツは、そんなぼくの疑問にはお構いなしに、いつも急ぎ足で通り過ぎていく。ぼくは、自分を、まるで間違った時代に生まれたサーサイティーズのように感じていた。

 両親との会話も潮時だと思ったぼくは、自分の部屋に引き上げることにした。

 自分の部屋に戻ると、ぼくは、両親との会話を頭の中から追い出して、今日一日の出来事を振り返っていた。とりわけ、ぼくの心を支配していたのは、彼女のことだった。

「榊志織」

 という名前が、何度も頭の中でこだましていた。

 ぼくは、彼女に、単なるクラスメートに対する以上の関心を持っている。そして、今日、彼女は、ハッキリとぼくを見た。つまりは、彼女も、ぼくに関心を待っている。独りよがりな思い込みかも知れないけど、ぼくは、その時、彼女との出会いに運命めいたものを感じていた。後は、具体的に二人が親密になるためのキッカケさえあればいい。

 この二日間で、彼女についてわかっていることは、去年のクラスメートが、彼女を避けていること、そして、彼女も、他人を避けているように見える、ということだった。誰かが、彼女に話しかけようとしても、ツイとソッポを向くことで、それを許さない。

 でも、ぼくは、あまり心配していなかった。なに、どうせ同じクラスなんだ。そのうち、機会なんて、いくらでも作れるさ。その時、ぼくは、そんな風に思っていた。

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