第1章
彼女と初めて会ったのは、高二の一学期初日のことだった。
その日の朝も、ぼくは、いつも通りに学校への坂道を上っていた。ぼくの学校は、この地方都市では、最もレベルが高いといわれている進学校だ。各中学校から、優等生ばかりが集まっているから、当然のことながら、校内暴力とかいった、世間を騒がせている問題とは無縁だ。
かくいうぼくも、中学時代は優等生だったわけだけど、かといってガリ勉というわけでもなかった。優等生といっても、成績だけの話で、生活態度に関しては、品行方正とはいかない。頭はいいが、性格的には「ひねくれ者」だった。それが、このぼく、相川啓一という人間に貼られたレッテルだ。
でも、教師は、成績という一点で、ぼくを気に入っていた。けれど、集団行動に、まったく馴染もうとしないぼくは、きっと厄介な存在だっただろう。
もっとも、教師にとって重要なことは、学校の進学実績なので、それに貢献する可能性の高いぼくは、それなりの自由を得ていた。というような事情で、ぼくは、学校公認のひねくれ者だった。それは、高校に入っても、何も変わらない。
一年の時も、ぼくは、クラスの連中とは、あまり深く関わろうとしなかった。ぼくは、学校に多くを期待しない。その代り、学校にも、ぼくに多くを期待してほしくなかった。そして、ひねくれ者のぼくは、新しいクラスに、何か期待しているわけでもない。だから、二年生になったからといって、そこに感動なんてない。
新学期初日の、何か浮き立つような雰囲気の中で、ぼくだけが、いつもと変わらない日常の中にいた。いつもと変わらず、あくびを噛み殺しながら電車に乗り、学校近くの駅で降りる。そして、いつも通りに信号を渡り、学校に続く坂道を登っていく。
坂の途中の桜の木が、蕾をつけているのを、ぼんやりと眺めながら歩いた。春休みで、一時中断された日常生活が、また始まる。ぼくにとっては、それだけのことだった。
この世の中には、いくつものレールがある。そんなことは、ぼくだって、知っている。そして、今、ぼくは、進学校の生徒という、いわばエリートコースへと繋がるレールに乗っかっているんだ。
でも、だからといって、ぼくが、そのレールの先に、何かを見出しているってわけじゃない。だって、ぼくは、お偉いエリートになりたいわけじゃないから。でも、じゃあ、何になりたいんだって聞かれても、そこに答えはない。
それに、このレールの上を進んでいくためには、この進学校の中での成績っていうモノが問題になる。でも、この学校でのぼくの成績は、悲惨としか言いようがなかった。エリートコースの落ちこぼれ。そんなものに、何の意味があるんだろうか。
ぼくの通っているのが、実業高校なら、何か手に職をつけることもできたかも知れない。でもこの進学校で教えているのは、受験という関門を突破するための技術ばかりだ。そんなものが、はたして現実社会で何かの役に立つんだろうか。しかも、そこから落ちこぼれたぼくに、いったい、どんな価値があるんだろう。そこのところが、ぼくには、よくわからなかった。
そんなわけで、ぼくの置かれた立場っていうヤツは、とてつもなく宙ぶらりんで、曖昧だった。
でも、だからといって、ぼくが、そのことで悩んでたってわけでもない。ぼくのようなひねくれ者には、目の前の世界のすべてが、どうでもよかった。ただ、それだけのことだったんだ。ぼんやりとした将来っていうモノに、何の期待も希望も持っていない人間っていうのは、そういうものさ。
ただ日々の日課を、こうしてこなしている。それが、ぼくの毎日だ。
ひょっとすると、ぼくは、この学校に馴染んでいないっていうだけじゃなくて、世の中から必要とされていないってことだったのかもしれない。でも、それが、何だっていうんだろう。守りたい何かが、あるわけじゃない。貫きたい思いが、あるわけでもない。じゃあ、何がやりたいのか。それも、わからない。だったら、賑やかに通り過ぎていく、日常っていう水槽の中を泳いでいくしかないじゃないか。
そうさ。それだけのことなんだ。そんなわけで、華やかな新学期の風の中で、ぼくだけが、別の風に吹かれていた。
学校に着くと、校舎前の掲示板には、新しいクラス分けが、もう張り出されていて、すでに人だかりができていた。また同じクラスになったことを喜んでいる女子や、別々のクラスになって残念だとか言っているヤツもいた。残念だとか言っている割には、どちらも、嬉しそうに笑っている。
「どうせ、前のクラスメートと離れ離れになっても、新しいクラスでまた新しいクラスメートに出会うだけの話だ。プラスマイナスでいったら、チャラじゃないか」
ひねくれ者のぼくは、そんな風に呟いてみる。
もっとも、そんな言葉に耳を傾けてくれるヤツなんて、いない。浮いているのは、ぼくの方なんだから。そんなことよりも、この妙に浮かれまくっている人ごみの中に入っていくことが、ぼくには、煩わしかった。
もしも、ぼくに積極性という無意味な元気があったら、ひとこと「さっさとどけよ」なんて言ってたかも知れない。それとも、肩でそこいらの連中を突き飛ばしながら、掲示板へと急いでいただろうか。
でもぼくは、そのどちらもしなかった。代わりに、ぼくがしたのは、ただ待つことだった。
「どうせコイツらは、ただハシャギたいだけなんだ。ひとしきりハシャギまわったら、どこかへ消えてくれるさ」
そんな事を考えながら、ふと周りを見渡していた時、突然、彼女の姿が目に入ってきた。彼女は、少しうつむき加減で、浮かれまくった周りとは対照的に、冷めた目でみんなを見ている。肩までの髪が、時折、春の風に吹かれてなびいていた。
彼女が、人目を引くほど特別美人だったっていうわけじゃない。髪の色が、他の人と違って目立っていたわけでもない。目鼻立ちが、人より整っていたわけでもない。容姿は、平凡な女の子に過ぎなかった。なのに、ぼくには、彼女が気になって仕方がなかった。
それは、彼女の佇まいとでもいうんだろうか、あるいは、身にまとった雰囲気といってもいい。世の中には、見た目を飾りたがる女の子は、山ほどいる。でも、彼女は、違った。見た目は普通なのに、雰囲気というか、内面からにじみ出てくるものというか、そういうものが、他の誰とも違っていた。
こんなことを感じるのは、ぼくだけなのかも知れない。その証拠に、さっきから他の男子は、彼女に気づきもせず、彼女の傍らを通り過ぎている。でも、たとえ、それに気づいているのが、ぼく一人だけだったとしても、彼女は特別な人だった。ぼくには、それがわかった。
彼女は、ずっとみんなの輪の外に立っている。きっと、彼女も、ぼくと同じで、浮かれた人ごみの中に入っていくのが、煩わしいんだろう。みんなが立ち去るのを、じっと待っているんだ。ぼくは、彼女から、目をそらすことができなくなっていた。
自分でも、バカなことを言っていると思うけど、この人ごみの中で、ぼくと彼女だけが、同じ時間を共有しているというか、まるで、二人だけの時を過ごしているような、不思議な気持ちを感じていた。
どのくらい、そうしていたのか、自分でも、わからないけど、彼女が、掲示板に向かって歩き始めたことで、人ごみが、どこかへ消えていることに気づいた。もう掲示板の前には、数人が、たむろして話し込んでいるだけで、ぼくも、ゆっくりと自分のクラスを確認できそうだった。
掲示板に近づきながら、それでも、ぼくは、横目で彼女を見ていた。彼女は、ぼくのいる場所とは反対側の十組から、掲示板を確認し始めた。ぼくは、手近な一組からクラスを調べ始めた。
彼女は、他のみんなのように、去年のクラスメートが今年はどのクラスになったかなんて、そんなことは気にも留めずに、ただ自分のクラスだけを探していた。ぼくも、彼女と同じように、自分のクラスを探しながら、順に掲示板の張り紙を見て行った。
そうやって、自分のクラスを探しながらも、横目で彼女を追っていた。彼女もぼくと同じように、自分のクラスを探している。でも、ぼくらが一緒に過ごすこの時間は、彼女が、自分のクラスを見つけた、その瞬間に終わってしまう。
本当に、自分でも、どうかしていると思うけど、その時が、来なければいいと、ぼくは、本気で思っていた。
一つのクラスから次のクラスへと、自分の名前を探して、数歩、横に移動する。その数歩が、ぼくと彼女を引き裂く無情な歩みだった。横目に映る彼女が、自分の名前を見つけられずに、隣のクラスへ移る度に、ぼくは、ホッと胸をなでおろしていた。
やがて、三組までたどり着いた時、ぼくは、そこに自分の名前を見つけた。思わず彼女の方を見ると、彼女は、もう四組まで来ていた。
彼女の存在を間近に感じて、ぼくの心臓は、高鳴り始めた。ぼくと彼女との間の距離は、もう、ほんの数歩のところまで来ている。その距離は、とても近いようでもあり、また、同時にとても遠いようにも感じた。彼女の目が、自分の名前を探して、上から下へと視線を移す、その動きさえ、愛おしく思えた。
多分、その時、ぼくは、幸福と不幸の両方を同時に感じていたんだと思う。彼女を近くに感じられる幸せ、そして、まもなく彼女が遠くに行ってしまう不幸。
と、その時、彼女が、ぼくの方へ近づいてきた。その瞬間、ぼくは、思わず息をすることを忘れた。もう彼女は、手を伸ばしさえすれば、届く場所にいる。
その時、突然に風が吹いて、彼女の髪が、揺れた。その髪の一本一本が、ぼくには、眩しく見えた。上から下へと自分の名前を探す彼女の目が、不意に止まった。少しの間、もう一度確認するように、同じ場所を彼女の瞳が見つめた。すると彼女は、くるりと振り返り、校舎の方へと歩き始めた。
ぼくは、その場に、ただ立ち尽くしていた。彼女は、三組まで調べて立ち去った。一組や二組を見もせずに。ということは、彼女のクラスは、ぼくと同じ三組なんだ。もし誰かが、その時のぼくの様子を見ていたら、どう思っただろうか。それほど、ぼくは、呆けたように立ち尽くしていた。