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白い部屋  作者: バビロン
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第1話「目も眩む朝」4

白いワイシャツにきっちりとネクタイをしめ、顔には眼鏡をかけている、若いサラリーマン風の青年だった。腕に、分厚い茶封筒を大事そうに抱えている。

青年に話しかけられ、私はその目をじっと見つめ返してしまうが、言葉が、見つからなかった。

どうしたもこうしたも、自分がどうなっているのかが、さっぱり分からないのだ。

でも、何かを話さなくちゃ。何かを聞かなくちゃ。そう焦って、私は狼狽える。

そんな私を見て、青年は言葉を続けた。

「もしかして、初めて目覚めたの?」

その奇妙な言い回しに、しかし私はハッとして青年を見つめた。

彼が私の状況を察してくれているらしいことが、直感的に分かったのだ。そのことに言い知れぬ安心感を抱くけど、でも同時に、“目覚めた”という言い方が、これまでのことが全部夢であったことを肯定しているようで、やっぱり抵抗はあった。

まだ黙っている私を見て、青年はくすりと笑った。

「始めは戸惑うよね。僕もそうだった」

その笑顔を見て、少し緊張が緩む。……少しは、少なくともあの医者よりは、話が通じるような、そんな気がした。

青年はちらりと腕時計を見ると、やがて微笑んだ。

「僕の名前は有本忠(ありもとただし)。君は? 良かったら案内するよ」

有本と名乗った青年に、私はただ頷いた。

雲居恵子(くもいけいこ)、です」


有本は、立ち話もなんだし、と言って、私についてこいと促して歩き出した。

部屋の前から離れるのはやっぱり少し不安だったけど、外から部屋の施錠をしてから、なんとか踏み出した。

正面に広がっていた市場の中へ入り、通路に展開されている、小さなカフェのような場所にやって来た。カウンターの向こうでは店員らしい人がいそいそと働いているし、テーブルにはまばらながらも人がいて、飲み物を飲んでくつろいでいる。すっかり、病院らしさなどは感じない。

有本は茶封筒をテーブルの上に置いて、軽い調子で言った。

「コーヒーでいい?」

私は戸惑いながら頷いた。

店員にコーヒーを2つという注文を伝えてから、有本は私を見て、なにやらにこにことし始めた。

何がそんなに楽しいのだろう。私はこんなに戸惑いと不安でいっぱいだと言うのに……。

そう思うと、ついむっとした表情になってしまっていたらしい。有本が笑って言った。

「ああ、ごめん。なんだか初々しいなって思って、懐かしくなった」

そんなことを言われると、余計にむっとしてしまう。

けれど、そう笑われると、私の感じてる不安もそんな大したものではないような気もしてきた。

有本はぐるりと周りを見回した。

「驚くだろう? 僕もだけど、ここでこうして生きている人……、生活している人達はみんな、君と同じ境遇の人なんだよ」

釣られるように、わたしも周りに視線を巡らしてみる。

何度見ても、ここにいるたくさんの人達は、普通……、いたってごく普通の人達ばかりだ。

「わたしと、同じ境遇?」

ぼんやりと、私はそう繰り返した。

「そう。……みんながみんな、この病棟に入院している、“病人”だ」

落ち着いた声色で有本は言った。

思わず私は、ハッとして有本の顔を見た。

こうして有本と話し、同じ境遇の人がたくさんいるんだと聞かされて、少しは気が楽になるように感じたが、しかしやっぱり、私が“病人”であること……、私のこれまでの人生が全部偽物だったということ……、あの医者が言ったことを信じることは、到底、できそうもない。

抱きかけていた安心が、またぐらりと揺れ始めた。

「本当、なの……?」

私は震えた声で聞いた。有本の視線が、すっとこちらを向く。

「わたしが、病気だなんて……、全部、全部が全部何もかも、夢だったなんて……。……嘘じゃないの?」

「嘘じゃないよ。本当のことさ」

有本は、すぐにそう答えた。

その答えを聞いて、頭の中が、サーッと暗くなっていくような感じがした。

やがてカウンターからコーヒーが出てきた。有本は砂糖を溶かして飲み始めたが、私はじっと、その黒い水面を見つめている。

やっぱり、医者の話を聞いても、有本の話を聞いても同じだ。結局わけの分からない説明しかなされないようだ。

いや、わけが分からないんじゃない。信じられない……、信じたくないのだ。示された情報を、受け容れることができないのだ。

どうやらもう、この状況をどうにか納得して安心しようという、そういう希望は持てないらしい。

途端に、あの医者の言った言葉が、今目の前に広がっている景色が、まるで現実かのように私の前に立ちふさがる。

何が現実で何が夢なのかは分からない。でも、ひとつだけ分かることがあった。少なくとも、今までの人生で関わってきた場所や人とは、おそらくもう二度と、巡り会うことはないということだ。

最後の夜に思い描いた“明日の朝”は、決して訪れることはないということだ。

見慣れたはずの、家族や友人たちの顔が、頭のなかで滲んで見えた。

「お母さんたちに会いたい……」

俯いて、思わずそう零した。今にも泣きそうな声だった。

「大丈夫だよ」

有本の声は穏やかだった。

「みんな同じだから」

カフェ店員が働いている音、周りの人のお喋りの声、市場を行き交う雑踏の音、露天商の張り上げる声……、雑多な喧騒を耳に感じる。

本当なのだろうか。この人達はみんな、こんな絶望みたいな気持ちを負って、それでもこんなふうに、当たり前のように生活ができていると言うのだろうか。

この賑やかな市場のなかで、私ひとりだけが取り残されているような、そんな気がした。

「有本さんは、そう思わないの?」

私は顔を上げて、有本にそう聞いてみた。

同じ境遇だと言うのなら、彼にも私と同じように、見てきた“夢”があるはずだろう。もっとも、その“夢”がどんな人生だったかは、知る術がないけど。

有本は穏やかに微笑んでいた。

「目覚めたばかりの頃は、そりゃ、思ったさ」

そう言って、一口コーヒーを啜った。私はじっと、有本の顔を見ている。

「でも、お医者様も言ってたでしょ。あれは、夢だったんだ。幻なんだ。始めから、無かったものなんだ。『もう一度会いたい』と思っているけど、実は一度も会ったことのない人達なんだ。存在していないものに焦がれても、仕方がないじゃないか」

明確な答えだった。

あれが本当に夢だったなら、そんな幻に恋い焦がれてみたところで、確かに何の意味もない。でも、それが信じられなかった。夢だったなどとは、思えなかった。

何の意味もないと思ったところで、会いたい気持ちがなくなって消えるわけには、到底いかない。

私は諦めて、ぬるくなったブラックコーヒーを、ぐいと喉へ流し込んだ。


「……ありがとうございました。私、部屋に戻ります」

そう有本に伝えた私の声は、いやに落ち着いていた。

「そう? もういいのかい」

有本は言った。

もういい。そう思った。こうして会話をしていることすらつらくなってきたのだ。

頷くと、有本は微笑んだ。

「そうか。また何か困ったら言ってくれたらいい」

有本はズボンのポケットから取り出したメモ帳に、ボールペンで何かを書き留め、それを千切って差し出してきた。

「僕の病室の番号と職場の住所。この道を真っ直ぐ行ったところにある出版社で働いているんだ」

病棟の中に出版社があるというのも変な話だが、いちいち気にする気力もなかった。この市場や人々の様子を見る限り、この病棟では患者たちによって、それなりの規模の社会が築かれているのだろう。

私はその紙切れを受け取って、もう一度礼を言い、じゃあ、と椅子から立ち上がる。

「雲居さん」

呼び止めるように、有本が言った。

逸らしていた視線を有本へ戻すと、やはり彼は微笑んでいる。

「きちんと、薬は飲むんだよ」

そう言われて、ドキリとした。部屋にあった薬の、怪しげな赤色が思い浮かぶ。

自分が病気だということすら、納得がいっていない。それなのにあんな薬を飲もうなどとは、到底思えなかった。

私は視線を逸らしながら、適当に頷いて誤魔化した。

第1話はこれで終わりです。

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