第1話「目も眩む朝」2
丸いドアノブが回り、静かにそのドアは開いた。
ベッドの上で上体を起こした姿勢のまま、私はぴしりと硬直していた。
その私の真正面に、ドアの奥からやってきた者の姿はハッキリと現れた。
そしてその姿を見て、私は思わず息を呑んだのだ。
白い部屋に溶けてしまいそうな白衣を着ている彼は、ひと目見て、“医者”だった。
静けさを湛えているような澄み切った表情、堂々と、それでいてさりげない佇まい、その凛然とした美しさが、真っ直ぐと私の目に飛び込んでくる。
医者は、ドアのすぐ横にあるスイッチを押して、部屋の電灯を点けた。白色の部屋が、白い明かりに照らされてますます真っ白になる。
呆気にとられている私の元に、静かにその医者は歩み寄ってきた。
「目を覚ましたようですね、恵子」
穏やかで、透き通っていて、まるで清水が流れるような、そんな感じのする声で、医者は言った。
恵子。確かに私の名前だ。
「はい」
私は驚きと不安に戸惑いながらも、かぼそく、答えた。
「長い夢を見ていましたね」
医者はうっすらと、笑みを浮かべたようだった。
言われた言葉に、私は首を傾げた。夢を見ていた憶えはないし、そんなに長い眠りについていたような感じもしない。なんだか不思議な物言いだった。
それよりも、私には知りたいことがいくらでもあった。
見たところ、この人は医者なのだろう。医者がいるということは、ここは病院か何かなんだろうか。だとすると、何故私がそんなところにいるのだろう。
とりあえず、この医者に聞いてみることにした。
「あの、ここはどこなんですか?」
こわごわ聞いてみると、医者は変わらぬ穏やかな調子で答える。
「ここは“病棟”ですよ」
「病棟……? ってことは、やっぱり、病院なんですか?」
「ええ、そうです。私は医師です」
予想通りではあったが、やっぱり私は首を傾げた。
確かに病院のイメージカラーは白だけど、病室と言うにも、この部屋の様子は変ではないか。あまりにも何も無さすぎる。
しかし、医者はそうだと言う。本当ですか? と聞いてみたところで仕方がないだろう。
「あの……、どうしてわたし、病院に?」
「あなたが“病気”だからです」
答えはすぐに、そう返って来た。
思わず自分の胸を手で押さえる。
私が病気だって? そんなはずはない。
そう思った。だって今まで重い病気だと診断されたことなんてないし、現に今も、体のどこも悪くはない。
戸惑っている私に、医者は言った。
「あなたは長い夢を見ていました」
また、長い夢を見ていた、と。
なんだか、ざわりと、奇妙な感覚がした。
何かが、普通じゃない。何か、会話が噛み合っていない。どこかが、おかしい。
不安や恐怖が、一瞬で膨れ上がるように感じた。
その不安を、確かめるように、私の声は微かに震えていた。
「夢、ですか……?」
「ええ。長い、長い夢を見ていました。あなたは始めから……、何もかもの始めから、この病室で眠っていました。あなたが現実だと思っていた日常、家族も友人も社会も何もかも、あなたのこれまでの人生は、全て、長い夢でした。……今ようやく、あなたは、目覚めたのですよ、恵子」
医者は、穏やかで、美しい声で淡々と言った。
私は思わず、笑い飛ばしていた。
「何言ってるんですか」
医者はぴくりとも表情を動かさない。
「今までのことが全部夢だったなんて、そんなわけないじゃないですか」
医者は答えない。
「……ねえ、説明してくださいよ。ここはどこなんですか? わたし、家に帰りたいんですけど」
「あなたは生まれた時からここにいました。“家”は……、幻です」
医者は言う。
この、どこか神々しささえ感じる医者を、それでも私は睨みつけたくなった。
「ふざけないでください。ここから出してください」
思わず言葉を荒げながら、私は医者に訴えた。
「あなたは病人です。病気を治してから、退院していただきます」
「わたしが、何の病気だって言うんですか!?」
「“こころ”の病気です」
医者は言った。思わず私は言葉を詰まらせる。
心の病気だって? 精神病ということだろうか。
医者の言うことは、何もかもが信じられるはずのないことばかりだ。
しかし、「お前の頭が異常なのだ」と言われてしまえば、どうしようもないではないか。
いやむしろ、こんな信じられない状況に放り出されては、自分の頭がおかしいのだと言われた方が納得がいくようにさえ思ってしまう。
しかし、しかし、しかし……。今までの人生、家族や友人や学校や社会のことを、こんなにも明瞭に憶えている。あれが全て現実ではなかったななんて、いくらなんでも信じられない。あんなにもハッキリとしていた実感を疑ってしまったら、……それこそ、頭がおかしくなってしまう。
私は為す術なく、呆然とした。
ふと医者が、手を伸ばした。
何かと思えば、ベッドの脇にあるタンスの上の、真っ赤な液体が入ったガラス瓶を手に取る。
「あなたは病人です。その病気を治すために、この“薬”があります」
私はギョッとしてその液体を見つめた。
……これが、“薬”だって?
「この薬を飲んでいれば、あなたの病気は治ります。その時は、あなたは退院……、ここから出ることになります」
「……飲み薬、なの……?」
私はこわごわと聞いた。
「はい」
医者は答えて、瓶の蓋を捻って開ける。
そしてその瓶の口を、ずいと私の方へ差し向けてきたのだ。
「このまま飲んでください」
その奥に見える、真っ赤な、不透明な液体を見て、私は思わず身を引いた。
こんな状況で、いきなりこんなものを飲めるわけがない。
医者はしばらく、黙って瓶を差し向けてきていたが、やがてそれを引っ込めて、再び蓋をした。
「飲める時が来たら、飲んでください。いつでも構いません」
そう言って、薬をタンスの上に戻した。
「私から言うことはそれだけです。あとは、あなた次第です」
医者は唐突に言った。
「何か他に聞くことはありますか?」
そして聞いてくる。私は言葉を詰まらせた。
この現状も、医者の言うことも……、何もかもが信じられない。何がどうなってるのか、さっぱり分からない。
こんな状態で、何を聞けばいいんだろう。
沈黙している私を見て、医者は小さく頷いたようだった。
「では、私は失礼します。何かあればベッドボードの呼び出しボタンを押してください」
そう言って、去る気配を見せた。
「ちょ、ちょっと待って」
咄嗟に呼び止める。踵を返しかけていた医者がぴたりと止まった。
ほとんど混乱しかけている頭で、私は必死に言葉を探す。
「分からないことだらけなの。わたしは……、ここでどうすればいいの……?」
医者にそう問う私の声は、ただ悲痛だった。
しかし医者は、変わらない優しい声で、淡々と言う。
「薬を飲んで、病気を治してください。私からお願いすることはそれだけです。あとは、あなたが何を望んでも、それはあなたの自由です」
私はそれ以上何も言えなかった。
医者はそれを見届けて、やがて静かに踵を返して、歩き出した。
来た時と同じようにドアを開け、その奥へ消えていった。
ドアが閉まると、再び静寂が訪れた。
わたしはひとり、白い部屋の中にぽつりと取り残されていた。