第1話「目も眩む朝」1
その夜、私はいつものように、自分の部屋のベッドの中へ潜り込んだ。
時間はいつもより少し早かった。その日は学校で体育の授業があったから疲れていたのだ。
母はまだ台所で洗い物をしていたし、父は仕事から帰ってきたばかりで、1人遅れて夕食を食べながら、リビングで新聞を広げていた。
私は、部屋の外で家族が生活している音を聞きながら、疲れた体を柔らかい布団に沈めて、心地よく、眠ったのだ。
明日も朝は早い。さっき学校の支度は済ましたけれど、忘れ物はないかな。明日起きたら、もう一度確かめておこう。
そうそう、それから、今週末に友達と遊園地に行こうかっていう話があったんだ。結局どうなったのか、確かめておかなくちゃな……。
他愛のない日々を思いながら私の意識は落ちていき、
そしてその時描いていた日常は、もう二度と、私の元へ訪れることはなかった。
目を覚ますと、薄暗い視界に、白い天井が映っていた。
変に思って、私はじっとそれを見つめていた。見つめてみても、やっぱり変である。見慣れた、自分の部屋の天井ではない。
何かがおかしい。何が起こったのだろう。意味の分からない現状に対しての不安が、恐怖が、一気に胸へこみ上げてくる。
身動きすることすら怖かった。目だけを動かして、少し周りの景色を窺ってみる。
真っ白な天井ばかりが見える。部屋を淡く照らしている光は横の方から差していて、天井にある、丸いガラスの電灯は点いていなかった。
何も物音はなかった。おそるおそる、今度は首を動かしてみる。
光が差しているのは窓からだった。白いカーテンを透かして、白い光がぼんやりと届いている。
自分はベッドの上に横たわっていた。自分の体を包んでいる布団も、見知らぬものだ。色は白だった。ベッドは部屋の真ん中に位置しているらしい。
部屋は、天井も壁も床も真っ白で、私の部屋より少し広くて、そして、ほとんど何もない、閑散とした部屋だった。ある物といえば、天井にある電灯、壁には窓とドアと、丸いシンプルな壁時計――針は7時過ぎを指していた――があり、そして私が寝ているベッドの脇、すぐ手が届く距離に、小さなタンスが置いてあった。
タンスの色も白だ。何もかもが白い部屋で、ただ、そのタンスの上に、ぽつりとひとつ、異様に彩度の高いものがあった。
透明なガラス瓶に入った、真っ赤な液体だ。何かの新鮮な血液のように見える。
白い部屋の中で、その瓶の醸し出す存在感は、どこか圧倒的でさえあった。見ていることすら恐ろしく感じて、私はすぐにそれから目を逸らし、天井を見つめた。
一度、目を瞑ってみる。
やっぱり、何もかもが変だ。一体なんなんだ、これは。
必死になって私は記憶を遡った。自分の部屋で、いつものように眠った。それが一番新しい記憶だった。
そこから、本当ならいつものように自分の部屋で目覚めて、朝ごはんを食べて、学校へ行く、いつもと同じ朝を迎えるはずなのだ。
しかしそうはなっていない。これは一体どういうわけなのだ。
いやいや、きっと何かうっかり忘れていることがあるだろう。そう言えば旅行中だった? そうでなくても、何かしらいつもと違う場所で寝る経緯があったんじゃないか?
……何度考えなおしても、同じだった。明らかに、心当たりのない状態に、いきなり放り出されている。
諦めて目を開ける。
私はただ、見知らぬ、白い部屋で目覚めていた。
これは夢なのだろうか? まず、そう疑った。
見えている景色や、布団の感触などを改めて確かめる。どうも、夢だと言うのは無理がありそうだった。
それでは私は、自分の部屋で寝て、眠っている間に、誰かによって、ここへ連れて来られてしまったのだろうか。そんな話があるだろうか、と信じられない気持ちになるけど、そうとしか、自分で思いつく答えはなかった。
もし、そうだとすれば……。
誰が? 何故? 家族は? 私はこれからどうなる?
途端に疑問は具体的に浮かんでくる。しかもその全部が、とんでもない不安を伴って。
きっと、何か……、何か事情があるのだ。今は分からないけど、きっとそのうち、何か説明がされて、この状況が何なのか分かるに違いない。
そう考えて小さくため息をつくと、少し気持ちが落ち着いた気がした。
ドクンドクンと、自分の鼓動が静かに脈打っているのが分かる。
体を動かしてみる勇気が出てきた。
まず、手を布団のうちから出してみる。腕も、手のひらも、見慣れた自分のものだ。
ゆっくりと、体に被さっている掛け布団を、剥がしてみた。
上体を起こして、布団の下にあった自分の体を見てみる。何やら、見覚えのない洋服を着ている。
お気に入りの寝間着ではなくて、薄い灰色の、無地の服だ。生地は薄く、動きやすい造りなので、なんとなくパジャマっぽい。襟元から服の中まで覗いてみると、下着も自分のものではなかった。
鏡が無いので顔は見えない。手でぺたぺたと顔を触ってみるけど、特に違和感は無かった。髪も、少し寝癖がついているぐらいで、異変はないようだ。体はどこもおかしくなかった。
もう一度部屋をぐるりと見回してみる。
白い床、白い壁、白い天井、白いドア、白い窓、白い時計、白いベッド、白いタンス……、
やはり、タンスの上の赤い液体だけが、強烈な存在感を放っている。
……なんなんだろう、これは。
その異様な雰囲気に気味の悪さを感じながらも、なんとなく、惹きつけられるように見つめていた。
その時だった。
今まで自分が身動きをする音以外にはひたすら静寂であった部屋に、別の音が鳴った。
驚いてそちらへ視線を向ける。正面の壁の真ん中にある、ドアの所からだ。
カチャリと、ドアノブが回る音。
途端に緊張が急激に高まる。私は息を呑んで、この部屋への来訪者を迎えた。