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雪の音色

作者: 藤堂かのこ

 雪が降る音がするとしたら、きっとこんな風に聞こえるんだと思う。

 冷たい空気をふるわせる、凛と澄んだ高音。左手からこぼれる低音は柔らかく、荘厳さをまとって冬空の中を踊る。

 音楽室のベランダに座り込んで、私は雪空に舞う透明なピアノの音を聴いていた。

 今年の秋、母と行った地元オーケストラの定期公演。そこに特別出演していたのが、音の主、高等部三年の東郷理人先輩だった。

 三白眼で眼光鋭い東郷先輩は、任侠一家の三代目とか怖い噂が付きまとう有名人だ。案の定、ピアノを弾くより叩き壊す方が得意そうな先輩の登場に、場内はざわついた。

 それが、先輩の紡ぎだした一音で一変した。

 力強い和音。そこから続く、繊細で優しい音。複雑で速い曲なのに、音は全く尖らない。どこまでも透明で澄みきっていて、心の内側で乱暴なくらい甘く鳴り響く。

 気付いたら、自分でも驚くほど泣いていた。

 あの瞬間が忘れられなくて、こうして放課後にこっそり先輩が練習する音楽室のベランダに通っている。雪の降る十二月の夕方はかなり寒いけど、我慢。ばれたら怖いし。

 赤くなった鼻の頭にカイロをあてると、温度差で盛大にくしゃみが出た。

 ……しまっ、た……。

 逃げようとした時には遅かった。頭上でがらりと窓が開いて、東郷先輩が不機嫌そうに私を見下ろしていた。

 殺される。

 有名音大に進学するようなすごい人の演奏をタダで聞いてたりしたから、きっと袋詰めにされて海に投げ捨てられるんだ。

「お前さ、毎日毎日外で聞いてて寒くねえ?」

 しかも毎日来てることまでバレてる。何故。完璧に隠れてたはずなのに。

「入れば?」

 背中に拳銃を突きつけられた気分で音楽室に入ると、外の寒さが嘘みたいに温かかった。なのに、体のこわばりは全く溶けない。固まった体のまま、これまた指示された通りピアノ正面の席に腰を下ろす。

「お前、中等部生? 名前は?」

「す、鈴原です。二年の鈴原鞠乃」

 鈴原ね、と呟いて、先輩はピアノの前に座る。指先に息をかけて温めた。

「あ、あのあの! どうして私がこっそり聞いてることがバレたんでしょうか!」

 決死の覚悟で尋ねると、先輩は表情を変えずに「見えてた」と、自分の頭の上を指差す。ハテナを浮かべて頭上に手をやると、ニット帽についた大きなボンボンが指にふれた。

 し、しまったああああ!

「盲点でした!」

 真剣な顔で叫ぶと、東郷先輩はぽかんと口を開けて。一拍後、盛大に吹きだした。

 わ、笑っておられ、る……?

 想定外の事態に途方に暮れていると、涙目の先輩と目が合う。

「変な女」

 怖い印象のする目元が和らいだ。今まで見たことのない、物凄く優しい顔になる。

 胸の奥で、きゅう、と音がした。

 あれ?


 その日から、私は音楽室の中でピアノを聞かせてもらえることになった。

 先輩は言葉遣いと外見は怖いけど、悪い人じゃないみたいだ。私が制服のベストにカイロを並べて貼り付けていたのを見て、「自爆しに行くみてえ!」と、椅子から転げ落ちるほど笑っていたし。笑い上戸なんだろうか。

 それに、喧嘩なら地元一、なんて言われてた先輩の指はすらりと細くて綺麗で、誰かを殴ったり傷つけたりできるとは思えなかった。あれは、ピアノに優しく触れるための指だ。

「お前、クラシック好きなの?」

 先輩の指に見惚れていた私は、怪訝な表情を向けられて我に返った。

「全然わかんないです!」

「はああ?! なのに毎日聞いてたのか? あの寒い中!」

「オケの秋公演で先輩の演奏聞いたんです! すごく感動して、もっともっと聞きたくて」

 あれ以来定位置になった、ピアノ真正面の机から身を乗り出す。

「初めて話した時弾いてた曲も好きです!」

「初めて話した時の? ああ、あれね」

 言いながら、鍵盤に両手を乗せる。同じ曲を弾いてくれてるとわかって嬉しくなった。

「メリークリスマス、ミスターローレンス」

「……? 私、鈴原ですけど」

「ぶっは!! ちっげーよ、曲のタイトル!」

「え! あ、そうなんですか!」

 恥ずかしい。顔から火が出そうだ。

「これはクラシックっていうか、映画音楽か」

 細い指先からこぼれる透明な音。やっぱり雪みたいだと思う。

「きれいな曲ですね」

「うん。俺も好き」

 穏やかに笑う横顔。何だか恥ずかしくなってしまって、顔が上げられなかった。

 

 卒業式を間近に控えた三月の夕方。いつも通り非常階段から音楽室のベランダに出ると、先輩が知らない女の人と話しているのが見えた。入って良いものか困っていると、女の人の方が私に気付いてドアを開けてくれる。

「もしかして、噂の理人君ファン?」

「ウワサ、の?」

「余計なこと言わないでくださいよ、先生。鈴原、こちら、音楽の雪村先生」

 見上げると、雪村先生はふわりと微笑む。長い黒髪が揺れて、甘い良い香りがした。

 先輩は定期公演に先生の勧めで出たことや、音楽室を借りた経緯を話してくれてたけど、途中から全く聞こえていなかった。先生を見る先輩の瞳が、すごく優しくて甘かったから。

「……東郷先輩。私、今日は帰ります」

「え。どっか具合悪いのか?」

 気遣う声に首を振って、逃げるように音楽室を出た。非常階段を降りきってから、雪と背の低い自分の影を蹴飛ばすように歩く。

「先輩のばか」

 先輩とのことを、私は今まで誰にも話さなかった。言葉にしたら、あの幸せな時間が終わってしまう様な気がしてたから。でも、そんな風に思ってたのは、きっと私だけだった。

 街灯の下で立ち止まる私に、雪が静かに降り積もる。同じように思ってほしかったなんて、ただの我がままだ。わかってる。

「……私のバカ」

 でも何だか、すごく寂しかった。


 卒業式の前日も、静かに雪が降っていた。

「よう。今日は体調良いのか?」

 こくりと頷いて、定位置に座る。

「先生も気にしてた。お前が急に帰るから」

「……先輩は、雪村先生が好きなんですか?」

 訊いてしまってから、慌てて口元を覆った。

 ひどい。無神経すぎる。自己嫌悪で猛反省していると、視界の外側で先輩が笑う気配。

「惚れないだろ。あの人、兄貴の婚約者だし」

「―――ごめん、なさい」

 やっぱり聞いちゃいけなかった。こんな悲しそうな顔、してほしくなかったのに。

 泣きたくなって顔を俯けたその時、ばちん、と派手な音が響いて電気が消えた。

「げ。停電かよ」

 先輩の声が聞こえても、私は顔が上げられなかった。自分がダメすぎて消えたい。電気と一緒に消えてしまったら良かった。

 不意に、静かな深呼吸の音がして、トーン、と、硬質の音色が響いた。

 疑問符と一緒に顔を上げると、石油ストーブの灯りが音楽室を飴色に変えていた。悪戯っぽく笑う先輩の横顔で揺れる、橙色の灯り。

 肩越しに見える窓の外は深い闇。向いの校舎から零れるストーブの灯りが、淡いオレンジに滲んでいた。仄白い雪明りの中、色も光も音も飲みこんで、真っ白な雪が降りしきる。

「せんべつな」

 細い指先からこぼれだす、透明な音楽。

 メリークリスマス、ミスターローレンス。

 嬉しくて、息が止まってしまうかと思った。

 金木犀の花と香りが咲きこぼれる秋も、初雪の欠片が舞い始めた冬も、私はここで、ずっと先輩のことを見ていた。ずっと、甘く空気を響かせるピアノを聞いていた。

 優しく鳴り響く雪の音色。

 今は、私だけのものだ。

「すきです」

 涙と一緒に、私の中に降り積もっていた気持ちがこぼれた。両手に顔をうずめて、「すきです」と何回も繰り返す。

 このまま時間が止まってしまえばいいと思った。先輩は先生を好きなままで、私の胸はちくちく痛むかもしれないけど、それでも先輩のそばにいられる。だったら、痛くてもかまわない。一生、春なんか来なくていい。

「ありがとな」

 そう呟いて、先輩は淡く微笑む。

「結構楽しかった。お前といるの」

「……っ、私だって、楽しかったですよ!」

「ぶは! ひっでー顔」

「ううう、こういう時くらい、そういうこと言わなくても良いじゃないですかあああ!」

 電気が復旧するまで、先輩は色んな曲を弾いてくれた。優しい音色が嬉しくて切なくて、私は涙が止まらなかった。


 卒業式の後、主のいなくなった音楽室で鍵盤の蓋を開けた。軽く鍵盤を叩くと、澄んだ音が響いて、静かに空気を震わせていく。

「……ありがとうございました」

 呟いて、腫れた目でちょっとだけ笑う。

 雪みたいに儚い片想い。けど、好きになって良かったと、心からそう思う。

 もうすぐ終わる雪の季節。でも胸の奥に残るこの音は、雪が溶けてもきっと、私の中で響き続ける。   







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