016. 据え膳
襲撃者を退け、リードや御者さんと合流した後、僕たちは少女――オベリスクと共に野営の準備を始めた。
また襲撃される可能性はほとんどなかったが、万一に備え森の中での野営となった。平野部では四方八方を無防備にさらけ出してしまうためだ。
馬車は半壊し、牽引していた馬は二頭とも逃げてしまっていたが――まぁ実際問題、壊れた主な原因は僕の蹴りだがそこは深く触れずにいきたい――荷物自体は特に損傷はなかったため、テントも無事に設営できた。
もともと二つしかテントを持ってきていなかったようで、最初は男連中とオベリスクで一つずつ使用しようとしたが、なぜかオベリスクが僕と一緒がいいと言いだし、結局僕とオベリスク、リードとルカさんの組み合わせになった。
リードの虚空の匣から取り出されたお茶を飲みながら、火を囲む。
ぱちぱちとはねる火の粉を見ていると、子どものころのキャンプファイヤーを思い出す。自然の情緒がただようキャンプ場での出来事だったが、それでも外灯があり電気があり水道がありトイレがあり……文明の中にいたんだなと実感する。
今いるこの世界は、完全にそことは違う別世界だ。
どこか遠くで鳥のような鳴き声が響いた。
夜だというのに活動する鳥がいるのかと不思議に思うが、ここは別世界。どんな生物がいてもおかしくない。なにせ、魔物と呼ばれる存在までいるのだ。
その魔物が襲ってこないことを願いながら、先ほどの続きをしようかと立ち上がる。
頬を一粒の汗が流れ落ちた。
一つ息を吐き、手にした剣を水平に振るう。その風圧に火の粉が幻想的に舞った。ひゅんという風切り音が心地よく響く。
どうやら疲れは全くないようだ。腕も身体も依然と軽く感じていた。
脇に置いてある太く短い丸太を持ち上げ、真上に放り投げる。
重量がありそうなそれを軽々しく投げる自分に少し笑えてくるが、すぐに意識を入れ替え――集中。
落ちてくる丸太に剣を入れる。すっと、流すことに重点を置く、およそ五割くらいの力加減だ。それでも包丁で豆腐を切ることとほぼ同じ感覚で、丸太が斬れる。
剣を振るうたびに、細長い短冊のような直方体になった丸太の成れの果てが、ぼとぼとと地面に落ちていった。
四方から斬らなければ綺麗な形にはならないため、踏み込む位置を常に前後左右へと高速で移動しなければならない。
それでも全部で三十四回斬り込むことが出来、丸太は全てその形を材木へと変えていた。
生まれてきた材木の出来も、なかなか満足できる質だ。
ふぅと、集中していた神経を解放する。再び、汗が流れ落ちてきた。
これはルカさん発案の剣の修行方法だ。
『私は魔術はてんでダメですが、剣なら多少自信はありますよ』と師匠役を買って出てくれたルカさんは、自分が行っていた修行方法を教えてくれた。
そのうちの一つが、この丸太切りだ。剣の扱い方だけではなく、身のこなし、腕や手首、腰の使い方等、全身をくまなく使え、なおかつ焚き火に必要な木材まで入手できるお得な修行らしい。
数時間前から延々と繰り返して行っているために、既に大木を数本は焚き火用の木材に生まれ変えている。
全身を思い切り動かしているが、いっこうに疲れる気配は見えてこない。
正確には疲れを感じることは感じるが、それを感じるときには体力が回復しているみたいだ。
個体識別情報票で能力を確認したとき、【体力】の数値も半端なかったということを今更ながらに実感した。
他人よりも連続した試行錯誤が可能だったぶん、成長も早かったのではないかと思う。
最初は思い切り剣を振るって、剣も丸太も粉々にしてしまっていたが、今ではだいぶ慣れてきた。
『ははは、まだまだですな』と余裕で見ていたルカさんも、次第に顔が青ざめていき、今はテントで横になっている。『私の人生って……』と酷くブルーになっていたが、そこはもう謝ることしか出来なかった。
「ふぅ……くせー」
剣を振ること、自分が思った以上に身体が動くことが楽しすぎて気づかなかったが、再開してから結構な時間が経っていたようだ。
丸太のストックがなくなって、ふと我に返った。
一息つくと、汗をかいたためか酸い臭いを強く感じた。
そういえば、お風呂に入っていない。まだ寒くはないが涼しいくらいの気温なので、身体を思い切り動かしていれば汗が出てしまう。
それ自体は仕方ないが、この世界ってお風呂はどうしているんだろうという疑問が生まれる。リードやオベリスクはにおいがしないし、イリスやレンさんは良いにおいがしていたから、お風呂がないという恐ろしいことにはならないと思うが。
「お風呂入りたいなぁ……」
「ヒロユキ様、見張りの交代時間です」
木の陰から大きなあくびをしながらリードが顔を出す。木を斬る音が響いたら悪いと思い、テントから少し離れた場所で修行していたのだ。
リードが張ってくれた【破音結界】もあるし、常時発動型スキルである【索敵】もあるので多少離れていても大丈夫だった。
ちなみに【破音結界】とは、結界内に無理矢理侵入しようとすると大きな音が鳴り響く、鳴子のようなものらしい。感覚を研ぎ澄ましてみれば、この周り一帯が薄い膜のようなもので包まれているのが分かる。
見えてしまっては居場所をアピールすることになるんじゃないかと聞いてみたところ、本来は視えないし、感じることも難しいものなんですけどね、とリードが首を傾げていた。
「うい。じゃあ、よろしくお願いしていいかな?」
見張りの順番は、≪指セーノ≫で決めた。
≪指セーノ≫とは、両腕を握って前に出し、『いっせーの、で』のかけ声で親指をあげるか下げるかを決断するゲームだ。
親は他のメンバーがどのくらい親指をあげるかを予測し、かけ声の後にその数を叫ぶ。たとえば『いっせーの、で、さん!』という感じだ。
皆が上げた親指の数とかけ声が一致すれば親の勝ちとなり、片腕を下げることが出来る。当てても外れても親は隣に移り、最初に両腕を下げた人が勝つというゲームだ。未だ僕の周りで流行っている、シンプルだが盛り上がる、ナイスゲームだ。
この≪指セーノ≫、どうやら皆知らなかったらしく、僕は勝利を確信していた。
だから、一番負けは一番長い時間見張りをしたらどうだろうか、というルカさんの提案に、一二も無く賛成した。内心でほくそ笑む。これでゆっくり寝られる、と。
結果、屈辱的なビリ。なぜか分からないが、みんな強すぎる。
僕だけが外し、他の皆は完全試合。ビリになったことより、手も足も出なかったことが悔しかった。結局、見張りはオベリスクとルカさん、僕、リードの順番となったのだ。
「はい。長い時間ありがとうございました。ゆっくり休んでください」
「うん、そうさせて貰うよ。おやすみ」
正直、今日一日色々なことがありすぎて、そろそろ精神的な限界を迎えそうだった。
しかし、振り返ってみると一日の出来事としては密度が濃すぎる。
異世界に召還され、イリス達と出逢い、呪術を解術し、ミチードと対決し、襲撃者達を倒す。本当に一日の出来事なのか、信じられなかった。
「おじゃましまーす」
こっそり声を出して、僕たちのテントに身を滑らせる。
二つの携帯布団――寝袋のようなものだった――が並べて敷かれていた。
テントは結構大きいらしく、携帯布団がどんどんと置かれているにもかかわらず、結構まだスペースに余裕があった。
携帯布団の片方は人の形に膨らんでいる。
もう時間も時間なので、おそらくオベリスクは寝ているのだろう。起こしては可哀想だとこそこそに入り込む。あまり柔らかくはないが、寝床としては十分な機能をもっているそれに包まれた瞬間、睡魔が大挙して責めてきた。
ああ、本当に疲れてたんだなぁと思うと同時に、意識が抵抗を止め、暗闇に落ちていくように途絶えた。
「……ユキ」
ふと、誰かに呼ばれたような気がした。
だが、意識を覚醒させなければならないという思いより、睡眠への欲求が強く、微かに目覚めつつあった思考力が再び活動を停止する。
「……ヒロユキ」
かさかさと衣擦れの音が、耳元で響いた。
その場違いな音が、僕の意識をまどろみの淵から呼び戻す。そして、再び聞こえる僕の名前。やはり、誰かが呼んでいる。
「ん、あぁ?」
寝惚け眼の視界の中は、照明用の魔法具が薄く幽かに灯りをともしていたが、ほぼ真っ暗と言っても良いくらいだった。
しかし、暗くてもしっかり周りが見渡せる【夜目】スキルのお陰で、隣に敷いた携帯布団で寝ていたはずのオベリスクが、僕の真上に立っているのが鮮明に見えた。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿で。
白い陶器のような肌が、魔法具の灯りにうっすら照らされ魅惑的な陰をつくっている。控えめにふくらんだ胸を一切隠すこと無く堂々と立つ姿は、むしろ芸術品のようだ。
「…………はっ!?」
夢かと思った。こんな少女に欲情してしまったのかと自分を恥じるが――あまりの現実感、迫真の臨場感に瞬間的に意識が覚醒する。
「にゅあにぉおっ!?」
慌てて飛びずさろうとして、言葉を噛みながら布団に引っかかって転んでしまった。
しこたまお尻を打ち、あいたっ、と悲鳴が飛び出る。
なんとか立ち上がろうとする前に、裸の少女が僕のお腹辺りにまたがってきた。
狙って位置決めをしたかのように、危ない場所の真上に少女の重みがあった。
「ちょちょちょちょっ!? 何? 何!?」
年甲斐もなく慌ててしまう。いったい何事だというのだ。夢遊病の気でもあるのかと、本気で心配になる。
「惚れた」
「はっ!?」
「あなたに惚れた……抱いて」
「ほ、惚れたって……」
突然の告白に、目を白黒させる。いったいなぜこんなことになったのかを考える余裕もなく、オベリスクの小さな顔が迫ってくる。
閉じられた瞼を見て、長い睫毛だなぁと場違いな感想が浮かんだ。
顔のパーツがまるで精巧な芸術品のように整っている可憐な少女の顔を見ていると、何故か不思議な気分になってくる。
意識がぼやけるような、胸の奥が熱くなるような、そんな感覚だ。
『据え膳食わぬは男の恥』という言葉があるじゃないかと、僕でない誰かが心の中で囁いたような気がした。
彼女に恥をかかせるな、何を逃げている、ラッキーじゃないか。強迫観念のように、迫り来る都合の良い言葉。
――まぁ、いいかな。
そう思った瞬間、額に熱い激痛が走る。
「ぅぐぅっ!?」
予想以上の痛みに、涙があふれ出る。その涙と一緒に、邪な気持ちが抜け出ていった気がする。
自分の額を拳で思い切り叩いたせいで、手の甲が赤く染まっている。
おそらく額も腫れて――最悪、たんこぶができてしまっているかもしれない。しかし、そこまでしないと自分がダメになる予感があった。
堕落した感情を持ってしまった瞬間、脳裏に浮かんだのはイリスの笑顔と泣き顔。僕は絶対に彼女を裏切りたくはない。その思慕が、欲望に打ち勝った。
「いてて……」
目の前には、驚いた顔のオベリスク。いつも無表情だった彼女が、ここまで感情を露わにして愕然としていた。
「……打ち破るとは……」
ぽつりと、つい内心の想いを口走ってしまったという感じの言葉が聞こえた。
ふふふ。こう見えて、僕は一途な男。
と、格好つけようかと思ったが、少女が裸で男にまたがったままというのは、あまりよろしくない。
さっと周りに目をやると、彼女が脱いだと思われる脱皮の後がすぐそばにあった。そういえば、衣擦れの音がいやに耳の近くで聞こえると思ったが、本当に僕の頭のそばで脱いでいたらしい。
その衣服の束には危険なブツがありそうなので、一切目を向けずに手探りで大きくて分厚そうなものを探す。
手触り的にオベリスクが来ていたローブのようなものを見つけたので、それをそっと少女にかける。
「なぜ?」
「キミの気持ちは嬉しいんだけど……僕には裏切りたくない人がいるから」
自分よりも半分くらい小さな少女に、想いをこめて真面目に答える。
たとえ少女だとはいえ、オベリスクも恥ずかしい想いをしながら、必死に気持ちを伝えてくれたのだ。
僕も真摯に真剣に応えなければならない。
「ばれなければいい。わたしのお礼の気持ちもある」
「ばれるばれないじゃないんだよ。自分やイリス――僕の好きな人への信頼なんだ。それにお礼したいって気持ちがあるなら、なおさらそんなことしちゃ駄目だ。もっと自分を大切にして幸せになってくれることが、なによりのお礼だよ」
しばらくの間、視線が交差する。
オベリスクのことが嫌いではないし、僕のことを少しでも好いてくれていることは純粋に嬉しい。
でも、イリスとこれからも堂々と向かい合っていくためには、譲ってはいけない一線は必ずある。
その一線を守ることがたとえオベリスクを傷つける結果になったとしても、絶対に妥協はできなかった。
「……そう」
さっぱりとした声で、さっと身を翻したオベリスク。
その声と動きが爽やかであったことが、逆に心を締めつける。
「ごめん……」
「勘違いしないで。あなたのこと、惚れ直したわ」
にこりと微笑み、布団に戻っていった。いつもの無表情さとは全然違う向日葵のような笑顔は、心の底から可愛らしかった。