013. 覚 悟
リード少年の【虚空の匣】勉強会は思った以上に時間を使っていたようで、気づけば太陽が既に沈んでいて、外は既に暗く、闇が支配する世界になってきていた。
窓から外を覗けば、満天の星空――思った通り、いつも見慣れていた星座は、いっさい見えなかった――が、やけにハッキリ綺麗に見える。周りに灯りが全くないからだろう。田舎の夜空を思い出す光景だった。
ただ、違うのは、夜空を照らす月が二つあることくらいか。大小の月が、並んで存在するその夜空は、とても芸術的だった。
「……でも、時間や暦のこと、虚空の匣のことも忘れてしまうって、記憶喪失って大変なんですね」
蕩々と、少し申し訳なさそうに、真向かいに座っているリードが口を開いた。
天井から吊り下げられたオシャレなランプの灯が照らしているため、馬車の車両内は周りの暗さに反して明るさを維持している。
このランプ、何でも『光の魔法元素結晶』とやらを使ってつくられた魔法具と呼ばれるもののようで、オイルや電気を使用しているわけではない。そもそもオイルや電気って何ですか、と逆に質問を返された。
どうやら、この世界は魔法や魔術的なものの発達が先行しており、科学的な部分では未成熟らしい。しかし一方で、光の窓等近未来的のフォルムをもっているものもあるなど、『古き良き時代』と『近未来』の不思議な融合を遂げた世界だ。
「え? 記憶喪失?」
「はい。アヤ様のところへ伺うのも、記憶喪失の治療と聞いております。ボクが言うのもなんですが、元気を出してくださいね」
「は、はぁ……」
どうやらイリス達は、僕が記憶喪失になったせいでこの世界の常識を知らないという『設定』にしたらしい。そういう設定があるならば、城を出る前に言っておいてほしかった。
しかし、この設定自体はむしろ、この世界の住民から見たら異常とも言える無知さが不自然ではなくなる良い設定なのかもしれない。
リードを利用してしまっているようで罪悪感を感じるが、異世界から来ましたなんて言えるわけも無いので、仕方が無い。そんなことを言っていたら正気を疑われ、イリス達にも迷惑をかけてしまう。
心の中でしっかりリードに謝っておくことにしよう。
「坊ちゃん! そろそろ『迷いの森』に差し掛かります」
「ありがとうございます! では予定通り、ここらで野営にしましょう!」
この馬車の御者が車両の外から声をかけてきた。
忘れていたが、人の良さそうな顔つきの恰幅の良いおじさんが、御者としてこの逃避行に付き合ってくれていた。
なんでも昔は冒険者として活躍していたようで、その力量を買われ、護衛役としての役割も担ってくれているようだ。
「この先が通称『迷いの森』と呼ばれる、ほとんど誰も近寄らない深い森になります。魔物も出ますし、夜だと迷って出られなくなることもありますから、とりあえず今晩はここで野営しましょう」
「魔物……?」
「あー……もしかして、魔物の存在も?」
記憶喪失を信じているリードが、馬車内に置いてあった荷物を取り出しながら、心配そうに首をかしげてくる。そもそも最初から知らないのであって、忘れたわけではないが、一応頷いておく。
「魔物とは、魔力の元である魔法元素が体内で結晶化し、凶暴化、兇悪化してしまった存在のことです。獣や植物等が魔法元素を体内に取り入れ魔物化した自然種と、死を迎えた生命の残留思念――憎しみや絶望といった負の感情が魔法元素と結びつき魔物として生まれた敵対種が存在します。敵対種はその存在理由が人を害することなのですが、自然種は魔法元素を求め人を襲うのです。人のもつ魔力は、魔物にとって己の力を高める栄養素となるようですね」
「つまりは、自然種だろうと敵対種だろうと、人にとっては危険な存在ということ?」
「ええ。ですから冒険者ギルドや狩猟ギルドには、頻繁に魔物討伐の依頼が来ていると聞いています」
このあたりは僕の世界であった知識と、そう変わらない部分なのかもしれない。
「そして、人にとっても魔物は必要な存在です」
「魔物が人を餌として必要ってことは分かるけど、その逆も?」
「魔物が体内で魔法元素を結晶化したもの――魔法元素結晶は、私たちの生活に欠かせませんから。強い魔物程、精製された錬度の高い魔法元素結晶を持っていますからね。それに、魔物は良い素材ともなりますし。狩るものと狩られるもの。人と魔物の関係は複雑ですが、互いが互いに生きるために必要な存在と言っていいでしょう」
なるほどね。どちらか一方が一方的に搾取するということではないようだ。
「あとは……そうですね。魔物には"古代種"や"伝説種"といった、人智を超える空想の物語に出てくるようなものもいると聞いたことがありますが――」
リードの声が突然途絶える。
いや、違う。
僕の意識が全く別のことに集中してしまったから、声が耳には入るものの脳にまで到達しなくなってしまっていたのだ。
急激に膨れあがるおぞましい気配――おそらくこれを殺気と呼ぶのか、こちらに対する害悪をダイレクトに心に射し込まれる感覚。同時にちりちりとした危険信号が脳裏を走り、不快感、不安感が爆発する。
いくつもの矢が馬車の真横から突き刺さってくる――すぐ先の未来が一瞬視えた瞬間、既に僕の身体は動いていた。
時の流れがひどく引き伸ばされた感覚の中、リードの小柄な体を脇下から抱えあげ、御者席と客席の境にある木の壁に足先を突き入れる。
全く抵抗なく壁を突き破ったと認識する前に、その蹴り入れた足先をそのまま上に引き上げた。
あれほど関節が固かったのに、一切の抵抗なくバレリーナのように大きく足が振りあがったことに対する驚きは、破裂するようにばらばらになった客席の壁から覗く御者席の光景のせいで、忘れてしまった。
不思議そうに、飛んでくるいくつもの矢尻を眺めている御者のおじさんの姿が目に入る。開いた手で、おじさんの襟首を掴む。
仰角なくほぼ直進的に、ゆっくりと確実に迫る矢尻が、月の光にぎらりと反射した。
どうする。できるか。
両手に二人の人間を掴んだまま、一瞬の躊躇。決断。
この世界に来てすぐ、レンさんの殺気に反応したことを思い出す。
あの時の、空をも飛べそうな身体の軽さ、跳ねあがるような強靭さをもつ筋力、内側から無限に生み出されるエネルギー。それらが身体中で荒々しく息づいているのを感じている。
今まで当たり前のように出来ていた行動をするときのように、絶対の確信があった。
今ならどんな動きでもできるくらい自分の身体が生まれ変わっていることを、疑う余地はなかった。
眼前に迫る矢を一瞬で認識する。その数、十八。うち六本の矢が、確実に僕たち三人の身体に当たる位置にあった。
二人を馬車の下に落とすか、矢を叩き落とすか。
次々浮き出る選択肢に悩むほどの余裕が、今の僕にはあった。
ゆっくりと確実に迫る矢尻。だが、その迫る速度は、牛歩のように遅く感じられる。
選択肢を吟味し、追撃の可能性が最も薄い答えを選ぶ。
すなわち。
「うわあああああああああっ!?」
「んっぎゃああああああああ!?」
二人の悲鳴が、月夜に響く。
大きく、二人を抱えたまま後ろに跳ねあがり、矢が重力に従って地面に落ちていく距離よりも後ろに着地。
思惑通り、いくつかの矢は馬車のなれの果てに突き刺さり、そうでないものも、推力がなくなり地面に突き刺さっていた。
必然的に襲撃者達から距離を稼ぐことにもなり、多少安堵する。
「な、な、なっ、なにごとですか!?」
気づけば無理な姿勢で空を舞っていたからか、咳きこみながらリードが叫び声をあげる。余程恐い体験だったのか、涙目になっていた。
「ごほっ、坊っちゃん、敵襲ですよ!」
リードより無理な姿勢だった御者さんだが、さすがに護衛ともあってか冷静だった。柔らかかった表情が、今は厳しくなり襲撃を受けた方向を見据えていた。おそらく次の襲撃に備え、下手人の姿を捉えようとしているのだろう。
しかし、月明かりがあるとはいえ、だいぶ闇が深まってきているなか、深い森に潜伏しているであろう襲撃者達の姿を見つけることは困難だ。
それでも、"いくらか"目を凝らしていれば、自然と暗闇に目が慣れてくる。ただ僕の場合は、その慣れる時間が異常に短かった。
おそらく数秒程度で、昼間と同等とは言えないが、暗闇の中でも視界がクリアになる。
森のなかで木々の間を動く、いくつかの影を捉える。
十五の影が森から出てくるようだった。
しかし、敵の数はそれだけではないはずだ。同時に飛んできた矢は十八。少なくともあと三人はどこかに潜んでいる。
探す。隈なく探る。木の陰、草の中、多い茂る葉の中。どんな手がかりも見逃さないように、目で見える範囲だけではない、その裏まで見通すように。
――スキル【夜目】を獲得しました。
――スキル【索敵】を獲得しました。
二つのスキルを修得したという女性の声が聞こえた瞬間、僕の中の感覚が一つ増えた。
実際の視界や、触覚が変化したわけではない。
しかし、確実に自分の世界が拡がりをみせた。
喩えるなら、五感――視、聴、嗅、味、触ではない、空気を"読む"感覚だ。前を向いていても、視界に入っていない後ろの二人がどんな動きをしているのか、空気の流れで感じることができる。
その意識感覚を、広く全方位に拡げる。今、感じられる限界は、僕を中心におよそ百メートル程度。それが広いのか狭いのかは分からないが、今、この場においては十分に事足りる。襲撃者が潜む森の入り口は、十分に範囲内だった。
感じる。草を跳ねる小さな虫。微かな風で揺れる花。荒い息で森を抜けだそうとする獣。木の陰に、生い茂る草の後ろに隠れている人の気配を、確実に察知できる。
「こちらに向かっているのが十五人、森に隠れているのが五人……奥の方に二人、全部で二十二人、いますね」
「なっ、見えるのかい!?」
「多分、ですけど。【索敵】スキルで」
「ほぅ! その若さで【索敵】持ちとは。どんな訓練を積んだのか……しかもその距離でスキル効果があるなんてレベルも高そうだね!」
御者さんが驚きの声をあげるが、あえて聞こえないふりをする。訓練なんて一切していないのに、なぜか簡単に修得してしまうスキル。せっかく貰えた物は最大限利用するのが僕の信条だ。
だが、罪悪感や良心の呵責、負い目を感じないわけでは無かった。
せめて、これらのスキルを――もっといえば、貰った能力全体を有意義にそして限界まで使えるように、鍛錬を重ねたいと心に決めていた。
「先人としてのアドバイスを頂きたいのですが、この状況どうすべきでしょう?」
「そうだねぇ、相手の力量にもよるけれど、正直私一人じゃ全員を相手にするのは厳しいと思うな」
腰の鞘から剣を抜きながら、油断無く前を見据える御者さん。
隣では、リードが首を振っていた。つまりは、ボクは戦力外で、ということだろう。
「だけど相手が弓持ちなら、逃げるのもキツいね。もしかしたら魔術を使えるヤツもいるかもしれないしね……」
「なら、戦うしかないってことですね」
「いや、君のさっきの力なら、逃げることもできるんじゃないのかい?」
「その選択は……取れません」
なぜなら、襲撃者は明らかに僕を狙っているからだ。
確かに偶然の遭遇かもしれないが、こんな夜に、誰も近づかないと言われる森に入ろうとする僕たちを偶然見つけ、待ち伏せのように襲撃することが可能なのか。
もしかしたらあり得る話かもしれないが、作為的なものだと思った方が現実性がある。
だったら、ここで逃げたとしてもまた襲われる可能性は高い。
そしてその襲われるタイミングが、今より守らなければならない人が多いことも十分に考えられるのだ。だから、今、叩くしかない。
ごくりと、いつの間にか口に溜まっていた唾を飲み込む。
イリス達の話によると、僕の能力は最大限活用することができれば、ほぼ敵なしだろうという評価だった。
問題は、人間相手にその能力を存分に使えるかどうか、だ。つまりは、生命のやり取りを僕は出来るのか。
「もしかして、人間との殺し合いは初めてなのかい?」
僕の緊張状態に気づいたのか、御者さんが心配げに眺めてきた。隠すことではないし、隠してこの状況が悪化しても不味いので、正直に頷く。
「そうか。うん、私にもあったよ……そうだね。助けてもらって先輩面するのも何だけど、ちょっとアドバイスさせてもらうよ」
昔を思い出したのか、懐かしむように少し目を細めた御者さんは、一転、真剣な眼差しで口を開いた。
「『人の生命を奪うこと』――それにどう折り合い付けるかは、君自身が決めることだ。ただ、もしそれに負けてしまったら、君は間違いなく死ぬ」
死、という言葉が、大きく心に残る。
死。無になること。消えること。もう家族にも友人にも、そしてイリスにも会えない。話すことも、笑いあうことも、そしてふれることも出来ない、完全な終わりだ。
「君がすべきことが出来なくなることより、相手の生命を奪うことが怖いのなら、戦うことは無理だ。ここは逃げなさい」
最後は優しく諭すように言ってくれていたが、僕の耳にはほとんど入ってこなかった。
僕がすべきことが出来なくなる。この言葉で、覚悟は恐ろしいほどすんなり決まった。
ここで、僕が相手を殺してしまうかもしれないという恐怖に負け、自分が倒れてしまったら――。
間違いなく、イリス達は苦境に立たされ、最悪彼女たちの生命も危機を迎える。
それが許されるのか。自分のせいでそうなっても、僕は耐えられるのか。そんなわけは、絶対にない。
イリスの笑顔と、僕の希望。それらと僕たちを殺そうとする奴らの生命、どちらが大切か。
そんなもの、決まっている。
『人の生命は地球より重い』、『生命は平等である』、『誰にも人の生命を奪うことは許されない』。そんなことしるか。実際に殺されそうな時に、大切な物を奪われそうな時に、理不尽な暴力に屈しそうな時に、そんな言葉に何の意味がある。
僕は、僕自身の利己的な理由で、覚悟を決めた。
その選択に、迷いも後悔も、ない。
「戦士の顔だな……よろしい。ならば、戦いだ!」