000. プロローグ
柔らかな太陽の光が、木漏れ日となって少女に降り注いでいた。
滴となって降り注ぐ陽光のなか、少女は太い根の一つに腰掛け、大樹を見上げていた。
太く、逞しく、美しい巨大樹だ。
この国の皇家に伝わる至宝として護られてきた大樹は<世界樹>あるいは<生命と知恵の樹>と呼ばれていた。大の男数十人ほどが必死に腕を伸ばしてやっと周りを囲めるほど幹の直径は太い。
世界の隅々までを見渡す守護者である神鷲が住むと伝えられる樹の頂きは蒼天にも届きそうなほど高い。
自分の父親の背中ですら巨大だと感じる少女にとっては、まさしく世界生誕の昔話に出てくる巨神に等しい存在だった。
小柄な少女からしてみれば巨大過ぎる幹は、四方八方に伸びたたくさんの枝を支えている。その枝一つ一つも少女の身体より太く、無数の緑葉を生い茂らせていた。
樹の真下から見上げれば、空を覆い尽くしてしまいそうな緑はささめき合うように揺れ、空の光を万華鏡のように透き通している。
緑の中で、いくつかの光が反射するように輝きを増した。樹になる林檎に、陽光が反射したのだ。巨大すぎる樹と比べれば、果実の大きさはひどく現実的な大きさであった。強く暖かな父親の拳と同じくらいの大きさだろう。
だが、樹が大きすぎるためか遠近感が狂い、まるで豆粒のようなちっぽけな大きさに見える。
しかし、降り注ぐ陽光の反射によって黄金色に染まるその林檎は<生命と知恵の樹>と同じく神聖な国宝とされ、<黄金の林檎>と呼ばれていた。
<黄金の林檎>にはいくつかの伝承が残されており、その中で最も皇族に慣れ親しまれているものが『<黄金の林檎>を口にすれば創造神アメノヒカリの祝福を受け、英雄たる力を得る』というものだ。
これは、この国の初代国皇がまだ一端の冒険者であった頃、この地を支配していた強大な魔物を討ち滅ぼしたときに<黄金の林檎>を携えていたと伝えられていることに伝承の発端があると考えられている。
実際に、開国以来皇城の王座には林檎のような果実を手に持ち、初代国皇が愛用していたと言われる『刀』と呼ばれる武器を掲げている肖像画が飾られていることも伝承により真実味を与えていた。
歴史の真実は分からないが、<黄金の林檎>に何か特別な力があることが信じられるほど、その果実は不思議な存在感を持っている。
事実、その伝承を信じ、数代前の皇族の一人が果実を得ようと周囲の反対も聞かず樹に登ろうとしたところ、大樹の天辺から舞い降りてきた神鷲の巨大な鉤爪につかまれ、大空を舞った挙げ句、放り投げられ大怪我を負ったという逸話も残っている。
いったい、いつからこの樹がこの地に根を張っていたのか誰も知らない。初代国皇がこの地に建国してから既に五百年。建国の遙か以前から<生命と知恵の樹>と神鷲は壮大に、そして荘厳にここに在り、世界を見渡していたという。
今でこそ皇家の管理下に置かれ、厳重な警備体勢と堅固な結界魔術により護られている大樹だが、遙か昔は皇城も魔物の巣もない雄大な緑の大地に、がっしりと根を張っていたのだ。
幾千もの悠久の時を受け容れていた大樹。その大樹の果実を求め、おそらく何人もの勇者、あるいは野望をもった者が訪れ、樹に挑んだはずだ。
しかし城にある古文書や歴史書をいくら読みあさっても、果実を得ることができたと言われるのは初代国皇ただ一人。どうやら<黄金の林檎>を得るためには、その果実の本来の持ち主であるこの世界――ヴァレスティアの創造神に奇跡を願わなければならないということだった。
輝く果実を見つめていた少女は、細めていた瞳を一度閉じ、決意を固めたかのように頷いた。
皇家の禁忌を破り、自らの生命を踏み台に、これからその奇跡を掴まなければいけないのだ。畏れに震えていては、確実に失敗する。何より大切なのは、やりきる覚悟と貫く意思。少女の父親が、困難に立ち向かう際の秘訣だ、と教えてくれた言葉が脳裏に甦る。
本来であれば、こんなリスクの高い方法は選びたくなかった。しかし、今の自分の状況、父や母、姉の置かれている立場、皇家や愛する国の時局を考えれば、残された使える手はほとんどなく、伝説とも言える不確かなものに頼るしかなかったのだ。
「父様、母様、姉様……」
あの優しく暖かい家族の顔を思い浮かべ、一度大きく息を吐く。頭を軽く振り、改めて果実を見つめる。狙いは、一番自分に近い位置にある林檎だ。近いとは言っても、その高さは城内にある月見塔の鐘楼の高さよりも遙かに高い。
そして問題は高さだけではない。大樹の守護者である神鷲と呼ばれる存在にも気をつけなければならない。
以前聞いたことがある神鷲の鳴き声は、とても澄んだ鈴の音のようだった。
心に染みいるその鳴き声は、凜とした強さと母を思わせるぬくもりをもっていた。この守護者がいる限り、この国は大丈夫だとすごく安心したことを覚えている。まさか、その声に恐怖を感じる日が来るとは思ってもいなかった。
神鷲と闘うことは、できるだけ避けたい。
勝てる勝てないの問題ではなく、世界の守護者に刃を向けることがいかに不敬で傲慢で恥知らずな行為であるか、少女が一番知っていたからだ。
しかし、逃げるわけにはいかない。自らの身体だけでなく心を切り刻むことになっても、必ずやり遂げてみせる。
そのためにもしっかりと戦略を練らなければ、確実に失敗だ。
「……行くか」
逡巡の時間は、長くなかった。
少女には、小さな身体に秘められた意思を貫き通す大きく熱い信念があった。
もしかしたら後世の歴史家は少女のことを、無謀にも勝算の少ない戦いに挑んだ愚か者と評するのかもしれない。
しかし、少女は何も見ず、聴かず、動かず、ただ未来に怯えて過ごす臆病な者ではなかった。少ない可能性を心から信じ、自らの志操に従い敢えて挑むのだ。皇族としての片鱗が垣間見える。
「……イリス様、本当に」
「皆まで言うな、レン。最早わたしにはこの手しか残されていないのだ」
樹の根元、少女イリスの側で直立不動の姿勢をとっていたレンの表情は、イリスよりも思い詰め苦みに染まっていた。
黒いワンピースに白いフリル付きのエプロンといった、まさにメイド服を着こなしているが、なぜか本来肌が露出しているはずのメイド服の下には、漆黒に染められた衣装で固められていた。腰の後ろに指した直刀まで漆黒である。まるで喪服を思わせる装束も相まって、苦しげな表情はどこか艶のある魅惑的なものになっていた。
心から敬愛しているイリスの力になることが出来ない自らの不甲斐なさも、その表情をつくる要因となっている。
対個人との純粋な戦闘であれば誰が相手でも負けない自信はあったが、権謀術数を巡らし合う政治的な駆け引きに長けた相手との政局の争いには荷が重かった。
レンの言葉を途中で無理矢理遮ったイリスは、臣下の方を振り返り笑顔を見せる。幼い顔だが、その笑顔には人を安心させる強さがあった。
「もしわたしに万一のことが起こった時は、姉様を頼むぞ」
「やはり、私が登ることはできませんか?」
「うむ。この地に張られた結界を解除することはできなかったからな。<生命と知恵の樹>に皇族でない者が触れたら、それだけで終わりだ」
「……初代様も酷なことを成されます」
悔しそうに俯くレンの肩に、イリスの小さな手が置かれる。イリスが大樹の根に乗っていることで、普段では大きくあった身長差が逆転していた。
いつも見上げていたレンの美しく厳しい顔が目線の下にあることに、少し可笑しさを感じる。
「では、行ってくるぞ」
まるで、散歩にでも行くような何気ない言葉で宣言し、大樹に向き直った瞬間――レンはイリスの身体を抱え、持ちうる限りの力で後ろに弾け飛んだ。一気に大樹から距離を取る。
瞬間、上空からの突風が二人の身体を揺らす。それを上手くこなし、イリスを抱えたままバランスよく着地したが、イリスの身体からは力が抜けきっていた。
レンの顔にも焦燥の色が強く滲み出ていた。ひやりと、冷たい汗が頬に流れたのを感じる。
「そ、そんな……」
か弱い、絞り出したような声が、イリスの口から漏れる。揺れる瞳の先は、大樹と自分たちの間にいる存在を捉えていた。
「あれが……世界の理を司るという……<生命と知恵の樹>の守護者……神鷲……」
白く、大きな鷲だ。羽ばたくこともなく大樹を護るように浮かぶその巨大な鳥は、ただ静かにそこにいた。
あらゆるものを吹き飛ばせそうな強大な翼と、淡い光の帯のような九つの尾をもつその姿は、鷲というよりも不死鳥を思い浮かばせる神々しさがあった。まさに、神の鷲だ。
こちらを見つめてくる静かな琥珀色の瞳は、優しく穏やかで、そして押しつぶされそうな重圧を与えている。
相反する印象を受けるその瞳に、心の奥から湧き出る原始的な恐怖をレンは感じていた。これは、触れてはならない存在だと、震える身体全身が教えてくれる。
同時に訓練された自分がここまで怯えることに衝撃を受ける。
だから、いつの間にか自分の腕から抜け出していたイリスの存在に気づくのが、数瞬遅れた。彼女の力を持ってしても追いつけない、致命的な数瞬だった。
「だ、だめです、イリス様!!」
必死に腕を伸ばすが、既に詠唱を終えていたイリスの身体は、蒼空を舞っていた。一瞬で神鷲のいる高さまで到達する。
体内を巡る魔力を脚力の増強に注ぎ込み、爆発的な跳躍を可能にしたのだ。先程レンが用いた回避術と仕組みは同じだ。
襲い来る畏怖の念を無理矢理ねじ伏せるために、イリスは全神経を攻撃に収束させるしかなかった。神への冒涜、世界を護るモノへ攻撃を重ねるという不敬だと感じている自分への矛盾な想い等、まとめて放り投げる。
本来、イリスは穏やかで優しい性格をしている。冷静でありさえすれば、まず言葉を投げかけるという選択肢をとっていただろう。しかし、人にあらざる存在がもつ圧倒的な重圧に自らの望みを打ち砕かれそうになったイリスには、自らを奮い立たせるため、希望を繋ぐために、動くしかなかったのだ。
だから、神鷲の瞳が不意に悲しみに彩られたことにも気づかなかった。
ガキン、と甲高い金属音が大気を揺らす。
神鷲を包む結界が一気に膨張し、イリスの身体を弾き飛ばしたのだ。翼や尾、嘴といった武器となる身体や攻撃魔術、魔法を用いての攻撃ではなかったため、イリスに与えたダメージは微々たるものであった。しかし、その小さな身体をレンの元に押し戻す程度には十分すぎる衝撃があった。
重力加速度に従って落ちる小さな身体を抱えたレンは上手く勢いを逃がし、再びその腕にイリスを抱き留める。腕の中をのぞき込み、怪我のない様子にほっと一息吐いたレンは、再度跳び出さないように小さな身体を両腕でしっかりと抱きしめた。
「なぜだ……なぜだ!?」
腕の中で暴れ必死に抜け出そうと藻掻くイリス。涙声が響く。神鷲はその言葉を、ただただ静かに聞いていた。
「皆を助けたい! ただ、それだけ……それだけなのだ!!」
子どもの癇癪のような感情的な叫びが響く。
だが、その声に悲痛な想いが含まれていることは、いつも少女の側にいるレンには痛いほど伝わってきた。
自分の生命を賭けた闘いに敗れたのだ。ここで生き延びたところで、大事な父や母は戻ってこないし、大切な姉の幸せも消えてしまう。この国の国民にとってもつらい未来が決定してしまうのだ。
家族やそれと同じくらい大切な国の民のことを考えれば、<黄金の林檎>を手に入れ自らが『力』を得ることは、絶対に成し遂げなければならないことだった。
「――」
神鷲の嘴から、澄んだ鈴の音のような鳴き声が響く。それは声ではなかったが、意味をもった言葉だった。心に直接響く、不思議な音だ。そして届いたその言葉は、少女にとっては残酷な現実だった。曰く、<黄金の林檎>にヒトを英雄化する力はない、と。
「そ、そんな……」
神鷲が言葉を介して意思を伝えてきたという事実に驚くよりも、希望が絶たれた絶望感に身体は支配される。
心に届いたその言葉は、至心と愛に満ちあふれていて、疑う余地が一片もないことを心が理解してしまっていた。身体から力が抜ける。がくりと肩を落とした。
「――」
再び響く、鈴の音。
その言葉が心に届くと同時に、俯いていたイリスの顔が神鷲を見上げる。その眼差しに秘められた想いは、希望と不安。
一方の神鷲は最初から同じように、優しく穏やかな琥珀色の瞳でイリスを見つめていた。
不意に、神鷲の光の九尾が動き、大樹からゆっくりと<黄金の林檎>が落ちてきた。
重力を完全に無視したその果実は、ゆっくりと黄金色の光を煌めかせながら落ちてくる。不思議な模様をもった果実だった。黄金色に光る実の表面に、十個の球体が三本の柱に配置されその間を22本の径が結んでいる紋様が描かれている。
「これが……<黄金の林檎>」
イリスの手のひらに落ちてきた果実を、ゆっくりと包み込む。不思議な暖かさをもった果実は、その輝きを増していた。
「お願い……父様を、母様を、姉様を……皆を助けて」
瞬間、<黄金の林檎>を中心に、世界が光に満たされた。母に抱かれているようなぬくもりをもった、不思議な光だった。
――だが、希望を与えることはできる。
光の中、神鷲の先程の言葉が、再び聞こえた気がした。
アドバイスよろしくお願いします。
読みづらければ教えてください。
《1/25》行間を編集してみました。