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「そやけど、そのエックスって人には確かなアリバイがありはるんよね?」
事件から十数日後の昼下がり。
北白川通りにある学生街の喫茶店「エルム」の窓際テーブル席。エロダンディな髭の店長特製のエルムランチを、物憂げな表情で突付いていた映像コースの黒澤華子が、おもむろに右手のナイフを俺に向けながらそう言い放った。
ガラス越しに差し込む眩しい夏の光が、銀色の先端に乱反射する。
「ああ、そうなんやハナ」
通称ハナ。自称「世界のクロハナ」。ロングウェーブの黒髪に日本人離れした目鼻立ちとスレンダーな肢体が特長の、俺たちの学年でトップ3を争う美人だ。名前は黒なのに肌の色は透明感あふれる白なのが言い得て妙だ。
老舗呉服問屋「黒澤屋」の跡取り娘という生粋の京都ネイティブ。お嬢様育ちで品のよい端正なルックスに似合わず、明け透けで好奇心旺盛な性格。少々でしゃばりなのが玉に瑕だ。
つうか刃物の先端を人サマに向けるなっつうの。まったく失礼なヤツだ。
「で、さっきのトオルの話によると――エックスは二十三日午後十時から二十四日午前二時までの四時間に渡る間、ツイッターで常連のしろむーって人と白熱の推理バトルを繰り広げていた。その証拠は日本中のフォロワーたちのネット端末のログにしっかりと残されている――そやったよね、昭和の男前クン?」
「せや。何を隠そう俺もその証人の一人ってわけやねん。せやけど『昭和の』は余計やっつーの」
お気に入りのチョコパフェをパクつきながら応える俺。ゴツい骨格とクドいもとい精悍な顔立ちに似合わず、密かに甘いものが大好物なのだ。
向かいに座るハナや腐れ縁の幼馴染曰く、俺は三十年前の――「昭和の男前」なのだそうだ。こいつら、まったく誉めてんだか、けなしてるんだか……。
「司法解剖の結果によると、被害者の死亡推定時刻は二十四日の午前零時。遺体発見が早かった為、前後三十分以上の誤差はないとのこと。よってエックスによる犯行は物理的に不可能――ってことやねんね?」
「せやせや」
ネットで今朝仕入れたばかりの最新情報だ。ちなみに「せや」とは関西弁でYesと同義語だ。もひとつちなみに京都では「そや」。
ウチの大学は京都ネイティブが意外と少ない。実際、学園内の連中も、大阪、兵庫、滋賀、奈良などが大多数で、他は中国、中部地方などからの下宿組みといった所存だ。
怪しげな連中の集まる特殊な大学だから、地元の人は敬遠しているのかもしれない。
俺の地元は、兵庫の隣にある中国地方のO県。だから関西各地のスラングが入り混じって、言葉がチャンポンになってしまっているのだ。
「そやったら、やっぱりエックスは事件とは関係ないんやない? いくら被害者がタチの悪いアラシで手を焼いていたからといって、普通に考えて身近な人間関係による怨恨やないかな。でも、それはそれで怖いけど。私たちの生活空間に、殺人鬼が潜んではるやなんて……」
精悍な眉をゆがめる華子。くーっ、悩ましげな表情もカワイイやないか。麗しい顔にラフなブラックデニムのジャケットのミスマッチがまたそそる。こいつは黙ってると最高なんやけどな。
でしゃばりなオンナはどうも苦手だ。実家のオカンと妹を思い出してしまう。
「うーん、せやけど俺には、あのエックスの捨て台詞がどうしても引っ掛かるんや」
【返り討ちにして差し上げますよ。ええ、もちろん「完全犯罪」でねニヤリ】
そもそもアリバイがしっかりと確保されているところが逆に怪しい。怪しすぎる。これが本当にエックスの仕業なら、まさしく完全犯罪だ。
「なあハナ、オマエその殺されたkoo±――ランスケの河本って、どんな奴やったか知ってるか?」
ランスケとはランドスケープデザインコースの略称だ。学園内ではみんなそう呼んでいる。
「ええ、一応ね。直接話したことはないんやけど。同じランスケの娘の話によると――被害者のkoo±こと河本春男は地味でおとなしくて目立たないけれど、素直で優しい性格。バドミントン部所属でバイトは天一本店の皿洗い。どちらも人間関係は良好。けっして人に怨まれるようなタイプやなかったみたいよ」
顔は新聞に載っていたから掌握済みだ。気の弱そうなメガネくん。モサメンとまでは言わないがモテるタイプではなさそうだ。
ちなみに天一とは人気ラーメンチェーン「天下一品」の通称である。ここの総本店は白川の表通りを挟んで、ウチの大学と目と鼻の先にあるのだ。密かに俺は、ここエルム以上に天一の常連客なのだ。
案外顔を合わせたこともあったのかもしれない。まったく世間は狭い。
「ふーん、ツイッターでのkoo±は毒舌陰険性格ババ色で典型的な嫌われ者の極悪アラシやったのにな。人の心の中って分からんもんやな。つうかハナってどのコースにもツレがいるんやなあ。ちょっと関心するよ」
「うふふ、なんてったって私は『世界のクロハナ』やからね。ワールドワイドの情報ネットワークをナメてもらっちゃあ困るわね」
日本人離れした高い鼻を、益々高くする華子。まったく美大という世界は、自己顕示欲と自意識過剰の巣窟だ。
「ハイハイ、お見逸れしました、お嬢サマ。せやけど、表の顔が人畜無害つうことは、逆に怨恨と考えると現実よりもネットの方が有力やろ? モテへんタイプみたいやから、オンナに怨まれて背後からグサリってワケでもなさそうやし」
「ちょっと、亡くなった人に失礼よ。それが今まで彼女いない歴二十年だったみたいなんやけど、最近ようやく待望の彼女ができてたみたいやの」
「なんやて!? カノジョいるんかいな、それを早く言わんかい!」
「被害者と同じランスケの娘よ。彼と同様、おとなしくて地味なタイプ。新聞記事に出てた第一発見者の同級生って、どうもその娘のことらしいんよ」
「じゃあ、そいつが最有力容疑者で決定やないか。第一発見者が真犯人つうのはミステリの定石やぞ」
「残念でした。その彼女さんにはアリバイがあるんよ。事件当夜はバイト先の友人数名と北バチで一晩中カラオケしてはったんやって。証人もたくさんいてはるわ。それに付き合い始めてお互いラブラブやったから、動機の面でも弱いしね。その娘、えらい憔悴してはるらしいわよ」
北バチとは天一本店のすぐ横にある「スポーツランド北白川バッティングセンター」の略称である。ゲーセン、ビリヤード、卓球、カラオケボックスなどが完備された二十四時間営業のプレイランドだ。飲み会の後はここで遊んで天一でシメる、というのが健全なK美大生の夜の定番コースだ。
「なーんや、振り出しに戻るやな。つうことは、やはり真犯人はエックス?」
「うーん、そやけどエックスにも推理バトルという鉄壁のアリバイが――」
椅子の背もたれに仰け反りながら、腕組みをして眉間に皺を寄せる華子。ロングウェーブの黒髪が揺れる。ラベンダーのコロンの甘酸っぱい香りが、俺の鼻腔をくすぐりやがる。
「そこなんや。あんなハイレベルな論争を繰り広げながらの犯行なんて絶対に不可能や。それに真犯人がエックスにしろ、被害者のカノジョにしろ、誰かに殺人を依頼したとも考えにくいし……」
残り少ないチョコパフェの底を見つめて、かき回しながら応える俺。照れ紛らわしだ。だけど逆効果だったかも。チョコとバニラの甘い香りがラベンダーと絡まって、ますます脳髄の奥底をかき回しやがる。
「そうよね。代理殺人なんて、よほど大金でも積まれない限り、引き受ける方にはメリットがあらへんものね――ん、待って。ねえトオル、仮になんやけど……逆にエックスがその事件当夜だけ推理バトルの代役を立てたって可能性はあらへんの? それぐらいのことなら、頼めば誰か引き受けてくれそうな気もするけど」
華子の大きな瞳が爛々と輝く。ようやくスイッチが入ったみたいだ。しかし名探偵のお嬢サマ。残念ながら――
「それは考えられへんな。あの文体や語り口調や推理の展開は、紛れもなくエックス本人や」
俺はゲームの常連だからエックスの文体は熟知している。問題文なんて、毎回それこそ液晶画面に穴が開くまで熟読している。案外ネットの文章のクセってヤツは如実に出るもんだ。俺は以前、そのことを腐れ縁の幼馴染が書いた三文長編小説で学んだことがある。
「仮に百歩譲って口調は真似できても、あの手練な論理の展開だけは、そんじょそこらの人間に真似できる筈があらへん」
「そっか。生身の対戦相手がいることだから、台本を書いて代役に渡すってのも不可能やし――あっ!」
突然、華子が椅子から立ち上がり大声で叫んだ。エルムの他の客たちが怪訝そうな顔でこちらに注目する。
「な、なんやハナ、なんか閃いたんか?」
「そうやわ。代役を立てても自然に生身の人間と推理バトルを展開できる方法がひとつだけあった」
憑き物が取れたように晴れ渡る表情を浮かべる華子。彼女は銀色のナイフを俺の目の前に突き立てながら、矢継ぎ早にその閃きをまくし立て始めた。
「ねえトオル。もしよ、もし仮に、エックスとしろむーって人が――」
(つづく)