A certain dog's story
1.
入梅の前に海に行くことは、もはや習慣になっていた。
むしろそれをしないことの方が不自然で、つまり今自分は不自然な状況にある。海と自分とを隔てる車で二十分ほどの距離がひどく遠く感じられ、妙に切なかった。浜辺の端から集まってきた潮騒の高鳴りが、すぐ目の前で弾ける瞬間を思うと、ささやかな幸福を感じることができる。だがそれは現実のものではなく、ただの想像であることも結子は悲しいほどに理解していた。
今結子は、駅前の喧騒の中で彼を待っている。自分を海へと誘ってくれる筈のただ一人の者を。少しの孤独と寂しさを抱えて、待っている。
彼が結子の前から姿を消して数日が経っていた。その寡黙な男は別れの時もいつものように無言だったが、結子は無条件に再会を信じることができた。だから今結子の中にあるのは、会えないことに対する焦燥だけであり、不安はない。何も不安がる必要はないのだ。自分は待っている。いつまでも。それが結子にできる唯一のことであり、戦いだった。
2.
彼の身体が、まるで人形のように地面に叩きつけられる情景を、今まで結子は二度も目にしている。
一度目の時に感じたほどの絶望はなかったが、それでも胸は張り裂けそうに痛み、身体の震えもしばらく止まらなかった。
乾いたアスファルトに染み込んでいく彼の血液が、彼の命そのもののように思えて怖かった。
やがて彼の本体すらも深い闇に飲み込まれてしまうのではないかと思い、その想像の恐ろしさに震えた。自分がただ一つ恐れているものが彼との別離であり、それがいつか必ず訪れてしまうことを、結子はよく知っていた。理解し、受け入れているからこそ、それは明確な恐れの感情として存在する。だから逃れられずに苦しいのだ。
最初の事故の時、結子はただおろおろとしているだけで邪魔にしかならなかった。自分が無力であることを認めるのは、彼女にとって自分の存在を否定されることと同義だった。だから躍起になって自分の役割を求め、それは空回るばかりだった。今よりも幼かった自分は、今よりも愚かで、そして無力だった。
自分が何もできないことはわかっていた。もし何か役割を与えられたとしても、それを自分よりも遥に上手くこなすことができる人間がいるのだろう。それでは意味がない。自分にしかできないことをと、彼女は求めた。
自分にできることは待つことだけだ。
そのことに、結子は恐るべき早さで気づいた。
昔から上手くできたのはそれだけだった。
だが、それを恥じる必要はない。何を失敗しても彼は失望の表情を見せなかったし、落胆を無理に隠して微笑む無粋さも持ち合わせていなかった。ただ覚えているのは、彼を待っている結子の姿を見つけた時の笑顔だけだ。本当に嬉しそうな顔で、彼は結子の頭を撫でた。その笑顔のために生きようと思った。
だから大丈夫。また彼は戻ってくる。今度こそ、彼を待っていてあげよう。まるでそれが当然のことのように、当たり前の顔で彼を待とう。
誓いはどこまでも真摯で、見慣れた海の色をしていた。
3.
やがてひと月が経ち、結子はすべてを悟った。彼は帰ってこない。二度も奇跡を期待してはいけなかった。
結子は、自分の命がもう長くないことに気づいていた。動物的な勘には恵まれなかった彼女だが、最後の最後にその感覚を知ることとなった。
恐れや不安は不思議となかった。
ただ今までと同じように、自分の先で彼が待っていてくれるだけのことだ。いつか自分も逝くであろう場所に彼がいてくれる。それはこの上なく安心で幸福なことであり、すんなりと受け入れることができた。長い時間を共に歩み、別れの瞬間にまで立ち会ったのだから、これから待つ短い離れ離れの時間くらい耐えよう。
結子は彼の妻である女性に手綱を引かれて、線路沿いのあぜ道を歩いた。彼との散歩に慣れた彼女の歩調は心地よく、穏やかな追憶に耽ることができた。つい数日前までは嫉妬と羨望をぶつける相手だったというのに、今は彼女だけが自分の唯一の理解者であるように思えた。
遠く、海がある筈の方向を眺めながら、結子は低く長く吠えた。遠吠えの仕方など誰も教えてくれなかったが、初めてにしては上手くできたと思う。手綱を握っている人が、頭上で微笑む気配があった。
どこまで届くだろうか。彼に宛てたこの遠吠えは。
ただ彼が微笑んで耳を澄ましている姿を想像し、結子は静かに微笑んだ。