宵の風
ふっと、風が吹いた。
二つに結った髪の隙間を、スルスルと風が通り抜けていく。
カタン。
小さな音とともに、力が抜けた。手に持っていたフォークが、趣味の良い綺麗な食器の上に落ちていく。あたしの好みに合わせられていて、栄養バランスも考え抜かれ、なおかつシェフの自慢の腕が思う存分ふるわれた料理。夕食だけは個別がいいと懇願して、特別に作られた食堂にはないメニュー。
美味しくない。
あの子がいなければ、食事なんてぜんぜん楽しくない。食事だけじゃなく、学校も授業も、毎日が楽しくない。暁、今どこにいるの。今、なにしてるの。そんなことばかり考えているから、ここにきてもう体重が増えない。身長だけ伸びて、体重は減る一方になってしまった。
ああ、もうどうしよう。
頭がいっぱいになって、涙が溢れそうになる。あわてて顔を上げると、開けっ放しになっていた窓が視界の端に写った。
「あれ、いつ開けたっけ」
窓辺に近づいてみれば、怪しい人影。
ぴたりと、動作が止まった。こういう場合、お嬢様は悲鳴を上げるものなんだろうか?あたしだったら、迷わずこの人影に跳びかかるけれど。でも、あたしは普通のお嬢様じゃないから・・・。
「やあ」
バタン!!
とっさの行動だった。思わず、窓を勢いよく閉めてしまった。それも、お嬢様にはあるまじき勢いのよさで。
ガンガンッ。
たたかれ、揺らされる窓。ここは一階だから、大人が立てば余裕で届く高さ。だからこそ、何をされるかわからない恐怖が、じわじわと足の裏から這い上がってくる。
「何もしないから!開けて!!」
くぐもって聞こえる、男の人の声。どこかで聞いたような気がしないでもないが、どう反応したらいいのだろう。こんなとき世間のお嬢様はどう反応するのだろうか。
しばし迷ったあと、思い切って窓を開けた。これが誰なのか知りたいし、もうお嬢様がどうだとか考えるのに疲れてしまった。
カタンという小気味いい音とともに、ぶわっと開く窓。外には、
「やあ、宵ちゃん!」
「想太さん!!」
馴染みの大学生、想太さんがいた。
「え?どうしてここに」
想太さんは、近くの本屋でアルバイトをしている。何かと話しやすくて親しみやすい、あたしでも一緒にいて楽しいと思える数少ない人の一人だ。
「宵ちゃん、暇してると思って」
「だからって」
こんなところにまでこなくても、とは言えなかった。一人きりだったらボロボロ泣いてしまっていたのは確実だし、だれか親しい人がいることで孤独を少しの間忘れることもできるから。暁の隙間を埋めてくれるのは暁だけなんだけれど。
「宵ちゃん」
「はい」
「結婚しよう」
「は?」
こんな風にわけのわからない軽口をたたき合うのも、たまにはいいかもしれないと思えた。