『君のためを思って』と五年間尽くした婚約者に捨てられたので、『自分のため』に生きることにしました
「エリーゼ。君との婚約は、今日をもって破棄する」
夜会の広間に、ジークフリートの声が響いた。
侯爵家嫡男にふさわしい朗々とした声。よく通る。社交界の華と呼ばれるだけのことはある。
ただ、その声が今、数百人の貴族の面前で婚約破棄を宣言しているという点を除けば、だが。
広間がざわめく。扇の陰からひそひそと囁く貴婦人たち。同情と好奇心の入り混じった視線が、一斉に私へ注がれた。
「理由を、お聞きしてもよろしいですか」
私は背筋を伸ばしたまま、静かに問うた。声は震えていない。
五年間の婚約期間を経て、夜会の舞台で唐突に切り捨てられるという状況。普通なら泣くか怒るか、あるいは取り乱すのが正解なのだろう。
けれど、私の心は驚くほど凪いでいた。
「……君は、冷たすぎるんだ」
ジークフリートは芝居がかった仕草で首を振る。
「五年の婚約期間で、君は一度も俺に笑顔を見せなかった。俺が話しかけても帳簿と睨めっこ。夜会でも社交の輪に加わらず、隅で数字を追っている。侯爵家の嫁として、それではあまりにも愛想がない」
その隣で、義妹のルイーゼが申し訳なさそうに俯いている。
――いや、あの唇の端のわずかな弧を、私は見逃さない。あれは前世の職場でもよく見た顔だ。手柄を横取りした同僚が、形だけの同情を装うときの顔。
「ルイーゼは素直で明るい。笑顔が美しい。侯爵家にふさわしいのは、君ではなく彼女だ」
なるほど。
つまり、義妹との婚約者交換ということか。
(……帳簿と睨めっこ、ね。あの帳簿がなかったら、あなたの実家は三年前に破産していましたけど)
もちろん口にはしない。
前世で学んだ最大の教訓がある。
――退職するときは、笑顔で。引き継ぎ書類は、渡さない。
私の前世は、鈴木亜希子。
都内の中堅企業で経理部に七年間勤務し、月の残業時間は百二十時間を超え、最後は自分のデスクで意識を失ってそのまま死んだ。三十一歳だった。
目が覚めたらヴァルトシュタイン伯爵家の赤子になっていて、十歳で前世の記憶が蘇った。
以来、前世の経理スキルをフル活用して伯爵家の財務を立て直してきた。複式簿記という、この世界にはまだ存在しない会計手法を密かに導入し、領地の税収を三倍に伸ばし、赤字だった侯爵家の帳簿まで整理した。
すべて、婚約者であるジークフリートの「ために」。
――つもりだった。
「承知いたしました」
私はにっこりと微笑んだ。
五年間で初めて見せた笑顔だったらしい。ジークフリートが目を見開き、周囲の貴族たちが息を呑んだ。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。ジークフリート様とルイーゼの幸せを、心よりお祈り申し上げますわ」
深く、優雅に一礼。
泣かない。怒鳴らない。取り乱さない。
ブラック企業で七年間働いて過労死した経理部員は、この程度の理不尽では心が折れない。
(上司に手柄を横取りされるのも、同期に仕事を押しつけられるのも、全部経験済み。むしろ今回は退職金がないだけマシかな)
踵を返した瞬間、父の声が背後から飛んできた。
「待ちなさい、エリーゼ」
ヴァルトシュタイン伯爵――私の父は、継母の手前もあってか、ここ数年は私よりルイーゼを可愛がっている。嫌な予感がした。
「お前にはヴァルトシュタイン家の娘としての自覚が足りない。ルイーゼの方がよほどふさわしい振る舞いをしている。本日より、ルイーゼを伯爵家の正式な後継とする。お前は別邸で謹慎しなさい」
継母が満足そうに頷いている。ルイーゼは継母の連れ子だ。血の繋がりはない。
婚約者に捨てられ、家族にも捨てられる。ダブルの裏切り。
(退職+実家追放。つまり……完全な自由ってことですよね?)
定時退社どころか、永久退社だ。
前世の私は、辞めたくても辞められずに死んだ。
今世では、向こうから辞めさせてくれるらしい。
(ありがたい。本当に、ありがたい)
「……かしこまりました、お父様」
広間を出る。
背筋は真っ直ぐ。足取りは軽い。
扇の陰からこぼれる同情の囁きが聞こえたが、気にならなかった。前世で毎朝浴びていた満員電車の殺伐とした視線に比べれば、貴族の社交辞令など微風にすら届かない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
広間を抜け、月明かりの差し込む回廊に出た瞬間、一つの人影が壁にもたれていた。
「……終わったのか」
低く、落ち着いた声。
月光に照らされたその横顔を見て、私は足を止めた。
レオンハルト・アーレンス公爵。
この国で最も権力を持つ公爵家の当主にして、王の右腕と称される男。年は二十七。長身、銀灰色の髪、鋼のような瞳。社交界では「氷の公爵」と呼ばれ、女性からの求婚を悉く断ってきたことで有名だ。
ジークフリートの侯爵家など、足元にも及ばない。文字通りの最高位貴族。
「公爵閣下。立ち聞きとは、お行儀がよろしくありませんわ」
「立ち聞きではない。ここで君を待っていた」
公爵閣下は壁から背を離し、私の方へ静かに歩み寄ってきた。
近くで見ると、いっそう整った顔立ちだ。ジークフリートが「社交界の華」なら、この人は「社交界の刃」とでも呼ぶべき鋭さがある。
「三年前のことだ」
唐突に、公爵閣下は語り始めた。
「王宮の財務調査で、ヴァルトシュタイン伯爵家の帳簿を確認する機会があった。目を疑った。この国にはまだ存在しないはずの会計手法――借方と貸方を対照させ、すべての取引を二面的に記録する精緻な仕組み。しかもその帳簿には、一つの誤りもなかった」
――複式簿記。
私が前世の知識を密かに導入した、この世界にはない技術。
「それを書いたのが、当時十五歳の伯爵令嬢だと知ったとき、私は確信した。この国に必要な人材がいる、と」
公爵閣下の灰色の瞳が、月光の中でわずかに揺れた。
「それから三年間、ずっと見ていた」
その言葉に込められた重さに、一瞬、息が止まった。
「伯爵家の領地収益が三倍になったのも。侯爵家の赤字が解消されたのも。王宮に提出された財務報告書の質が劇的に向上したのも。すべて、君の仕事だった」
「……お気づきでしたか」
「気づかない方がおかしい。あれほどの仕事を、たった一人で、しかも誰にも知られずに続けていた」
公爵閣下の声に、静かな怒りが滲んでいた。それは私に向けられたものではなく、私の仕事を見ようともしなかった人々に向けられた怒りだった。
「なぜ黙っていた。なぜ手柄を主張しなかった」
(だって、前世でもそうだったから)
経理部の仕事は地味だ。誰にも褒められない。数字が合っていて当然。一円でもずれたら怒鳴られる。七年間、一度も「ありがとう」と言われなかった。
それが当たり前だと思っていた。前世でも、今世でも。
「縁の下の力持ちが、性に合っているだけですわ」
そう答えると、公爵閣下は眉間に深い皺を刻んだ。
「それは違う。君の価値を正当に評価しない環境が間違っている」
強い言葉だった。
前世で一度も言われなかった言葉だった。
「エリーゼ・ヴァルトシュタイン。我がアーレンス公爵家の主席財務顧問として、私のもとに来る気はないか」
(え。主席財務顧問? つまり……転職?)
家を追い出された直後に、この国最高の名門からスカウト。
しかも公爵家。福利厚生は間違いなく最上級。
「条件を、お聞きしても?」
「屋敷の一室を執務室兼居室として提供する。食事は三食。休日は週に二日。報酬は侯爵家の三倍を保証する。なお、日没後の労働は禁止だ」
(ホワイト企業だ……)
前世で七年間、終電すら逃し続けた私の目に、涙が滲みそうになった。
感動の涙だった。
「喜んでお受けいたします」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アーレンス公爵邸に移って、一ヶ月が経った。
初日に案内された執務室を見て、私は声を失った。
窓が大きい。陽光がたっぷりと差し込む。机は広く、椅子は柔らかく、棚には整然と書類が並んでいる。
前世のオフィスは窓のないフロアの隅で、椅子はギシギシ鳴るパイプ椅子だった。伯爵家の執務室も似たようなもので、暗い地下室の一角を間借りしていた。
それがこの待遇。
(窓がある……窓があるだけで泣けてくる……)
隣の部屋は寝室で、ふかふかのベッドに清潔なシーツ、花が飾られた窓辺。
前世では布団の中でスマホの目覚ましに叩き起こされる毎日だった。今は朝日で自然に目が覚める。
公爵家の帳簿を整理し始めてすぐ、あることに気づいた。
ここの財務は最初からきちんと管理されている。帳簿は正確で、不正もない。少し効率化の余地はあるが、わざわざ「主席財務顧問」を雇うほどの問題は存在しなかった。
(この人、ただ私を引き取りたかっただけでは……?)
疑念が確信に変わったのは、着任三日目のことだった。
昼食の時間に、使用人がワゴンを押してきた。温かいスープ、焼きたてのパン、季節の果物。
前世の昼食はコンビニのおにぎりを机の上で食べるだけだった。伯爵家でも、帳簿作業に追われて食事を抜くことが多かった。
「公爵閣下からの言づけです。『食事は必ず取るように。書類は逃げない』とのことです」
使用人の言葉に、不覚にも目頭が熱くなった。
書類は逃げない。
前世の上司は「書類は逃げないけどお前の評価は下がるぞ」と言っていた。天と地の差だ。
そんな日々が続いたある夕方のことだった。
「エリーゼ。今日は日が傾いてきた。切り上げなさい」
執務室の扉が開き、公爵閣下が自ら声をかけてくる。国政の要である公爵が、一介の財務顧問の終業時間を気にかけるなど、普通はありえない。
「まだ第三四半期の予算案が途中ですが」
「明日でいい。目を酷使しすぎると頭痛が起きる」
(なぜ私が目を酷使すると頭痛が起きることを知っているんですか)
「先月の茶会で、こめかみを押さえていただろう。あれは長時間細かい字を読んだ後の癖だ」
(観察力が怖い)
この一ヶ月で分かったことがある。
レオンハルト様は、本当に三年間見ていたのだ。
茶会での私の癖。紅茶に入れる砂糖の数。書類を読むときに左手で髪を耳にかける仕草。全部、覚えている。
書類を片づけていると、机の端に温かい紅茶のカップが置かれていた。
「砂糖は二つだったな」
「……覚えていらっしゃるんですね」
「当然だ」
(前世の上司は、七年間一緒に働いて私の名前すら間違えていたのに)
鈴木さんではなく「鈴村さん」と呼ばれ続けた七年間。
それに比べて、この人は――。
「レオンハルト様」
「何だ」
「正直にお聞きします。財務顧問という肩書は、本当に財務のためですか」
長い沈黙が落ちた。
公爵閣下は窓辺に立ち、庭園の薔薇を眺めながら口を開いた。
「……三年前、帳簿を見たとき、書いた人間に会いたいと思った。数字の一つ一つに、几帳面さと誠実さと、それから――少しの寂しさが滲んでいたから」
寂しさ。
帳簿の数字から、そんなものが読み取れるのだろうか。
けれど、否定はできなかった。あの帳簿は私が一人きりで、誰に褒められることもなく、ただ黙々と書き続けたものだから。
「会ってみたら、想像よりずっと聡明で、ずっと美しかった。それから三年、君のことばかり考えていた」
心臓がうるさい。
前世でも今世でも、こんなことを言われたのは初めてだった。
「だが君には婚約者がいた。だから手を出さなかった。ただ待った。いつかあの男が君の価値に気づかずに手放す日が来ると確信していた。そのときは迷わず迎えに行くと決めていた」
「……確信、していたのですか」
「ああ。あの男の目は節穴だからな」
淡々と、しかし確固たる口調で断言する公爵閣下。
ジークフリートを「あの男」と呼ぶその声に、隠しきれない嫉妬が混じっていたことに、私は気づかないふりをした。
「エリーゼ。財務顧問ではなく、妻として隣にいてほしい」
え。
「返事は急がない。だがこれだけは約束する」
公爵閣下が振り返った。鋼の瞳に、初めて見る柔らかな光が宿っていた。
「君の仕事を、俺は正当に評価する。二度と、誰にも奪わせない」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私がヴァルトシュタイン伯爵家を去ってから三ヶ月。
伯爵家は静かに、しかし確実に崩壊しつつあった。
最初に破綻したのは領地の税収管理だった。
私が構築した複式簿記のシステムは、この世界に前例のない独自のものだ。運用できるのは私だけ。ルイーゼは「数字を見ると頭が痛くなる」と三日で投げ出した。継母は「帳簿なんて使用人にやらせなさい」と言い放ったが、使用人の誰一人として借方と貸方の概念を理解できなかった。
一ヶ月目。
領地の徴税額に不整合が生じた。私が組んでいた自動検算の仕組みが機能しなくなり、二重課税と徴収漏れが同時に発生した。領民からの苦情が殺到した。
二ヶ月目。
侯爵家から「納品された特産品の品質管理報告書が届かない」と苦情が来た。品質管理の記録フォーマットを設計したのも私だった。ルイーゼが作り直した報告書は項目が半分欠落しており、侯爵家の信用問題に発展した。
三ヶ月目。
致命的な事態が起きた。
ジークフリートが王宮に提出した半期財務報告書に、重大な誤りが見つかったのだ。
本来この報告書は私が作成していたものだった。ジークフリートは中身を確認もせず、ルイーゼに一任した。
ルイーゼは、数字を一桁間違えた。
たった一つのゼロ。
だがそのゼロは、侯爵家の納税額を実際より一桁少なく申告する結果となり、意図的な脱税を疑わせるに十分な誤差だった。
王宮の監査官が侯爵家に派遣された。
ジークフリートが真っ青な顔で伯爵家を訪ねてきたとき、父はようやく事態の深刻さを理解した。
だが、理解したところで手の打ちようがなかった。
帳簿のシステムそのものが、エリーゼの頭の中にしか存在しない。紙に書かれた数字はあっても、その数字がどういう論理で並んでいるのか、誰にも分からない。
「エリーゼを呼び戻せ。今すぐにだ」
父が命じたとき、従者は困惑の表情で首を横に振った。
「エリーゼ様は現在、アーレンス公爵邸にお住まいです」
「……公爵家だと?」
父の顔色が変わった。
ジークフリートに至っては、椅子から立ち上がりかけてそのまま固まった。
アーレンス公爵。王の右腕。侯爵家が逆立ちしても届かない、この国の最高権力者。
「俺が行く。エリーゼに直接頭を下げれば――」
「……無駄だと思うが」
父の声は小さかった。
三ヶ月前に自分が娘に何をしたか、ようやく理解し始めたのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アーレンス公爵邸、応接間。
「エリーゼ、頼む。戻ってきてくれ」
かつて婚約者だった男が、頭を下げていた。
三ヶ月前に「愛想のない女」と切り捨てた、あの朗々たる声は今、掠れて震えていた。
「帳簿が何一つ分からないんだ。ルイーゼでは到底務まらなかった。君がいないと、すべてが回らない。領地も、侯爵家も、もう……」
ああ、知っている。
だって、そうなるように設計したわけではないけれど、そうなることは分かっていた。
あのシステムは私のためのシステムだ。私の頭の中にしか設計図はない。引き継ぎ資料なんて、作るわけがない。
(前世の教訓その二。辞めるときは、引き継ぎをしない。そうすれば、自分の存在価値が証明される)
前世の私は、最後までその教訓を実行できなかった。責任感が強すぎて、倒れるまで引き継ぎ資料を書き続けた。それが過労死の直接の原因だった。
だから今世では、ちゃんと「辞めた」。
私の命よりも大切な帳簿なんてない。
「ジークフリート様」
私は穏やかに微笑んだ。
五年間、一度も見せなかったという笑顔を、今度は惜しみなく。
「五年間、お世話になりました。あなたのおかげで、自分の本当の価値に気づくことができましたわ」
「なら――」
「ですが、もう遅いのです」
ジークフリートの顔が凍りついた。
「あの帳簿を理解できるのは私だけ。そして私は今、アーレンス公爵家の人間です。伯爵家や侯爵家の財務に手を貸す立場にはございません」
「待ってくれ。愛想がないなんて撤回する。婚約破棄だって、考え直せば――」
「お断りいたします」
背後から、氷のように冷たい声。
レオンハルト様が応接間に入ってきた。その長身が放つ威圧感に、ジークフリートが一歩後退る。
「ハイデン侯爵家嫡男。エリーゼは既に私の婚約者だ」
「こ……婚約者!?」
「三年間見ていた。君が彼女の手柄を我が物顔で享受していたことも。夜会で一度も感謝の言葉をかけなかったことも。すべて知っている」
レオンハルト様が一歩前に出る。ジークフリートがさらに後退る。
「忠告しておく。財務報告書の数字の誤りについては、既に王宮に報告済みだ。正式な監査が始まっている。エリーゼが五年間構築した正確な会計記録がなければ、侯爵家の潔白を証明することは極めて困難だろう」
「そんな……」
「もう一つ。エリーゼが開発した帳簿システムの原本は、彼女個人の知的資産だ。伯爵家に所有権はない。無断使用が確認された場合、法的措置を取る」
ジークフリートの顔から、すべての色が消えた。
愛想がない。帳簿しか見ない。冷たい女。
そう言って切り捨てた令嬢が、実はすべての根幹を支えていた。
そのことに気づいたのが、取り返しがつかなくなってからでは――。
「もう、遅いのです」
私はもう一度、静かに微笑んだ。
ジークフリートが何かを言いかけ、しかし言葉にならず、崩れるように膝をついた。従者に支えられ、よろめきながら去っていくその背中を、私はただ見送った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「大丈夫か」
来客が去った後、レオンハルト様が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ええ。大丈夫です」
不思議なほど、胸は痛まなかった。
前世の私は、会社を辞められなかった。辞めたら迷惑がかかる、自分がやらなきゃ誰もやらない、そう思い込んで、結局死んだ。
今世の私は、ちゃんと辞められた。
辞めた後に困るのは、私の価値を認めなかった人たちだ。
それだけで十分だった。
「レオンハルト様」
「何だ」
「先ほど、婚約者だとおっしゃいましたが」
「……ああ。先走った。まだ正式には申し込んでいないのに、つい」
氷の公爵の耳が、わずかに赤くなっていた。
「お受けいたします」
「……は?」
「三年間も待ってくださった方を、これ以上お待たせするのは忍びありませんから」
レオンハルト様が目を見開いた。あの冷静な公爵閣下が、珍しく言葉を失っている。
「ただし、条件が一つだけ」
「……何でも言え」
「定時退社は、絶対に守ってくださいね。前世で、それを守れなかったせいで死にましたから」
「……前世?」
「あ。何でもありません。独り言です」
レオンハルト様が首を傾げたが、すぐに口元を緩めた。
社交界で「氷の公爵」と恐れられる男の、声を出しての笑い。
低くて温かい、静かな笑い声。
「約束する。俺の隣で、二度と無理はさせない。定時には必ず帰す」
大きな手が、私の手をそっと包んだ。温かかった。
前世では知らなかった温もりだった。
デスクの上で一人きりで冷たくなっていった指先が、今はこんなにも温かい場所にある。
「……ありがとうございます」
今度の「ありがとう」は、前世の退職挨拶とは違う。
心の底からの、本物の言葉だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
半年後。
ヴァルトシュタイン伯爵家は領地管理の重大な不備を理由に、爵位を一つ降格された。
ハイデン侯爵家は財務監査の結果、過去三年分の未申告税が発覚。ジークフリートは社交界から追放され、後継者の座も剥奪された。
ルイーゼは帳簿を任されたものの一週間で泣きながら放棄し、継母とともに田舎の実家へ逃げ帰った。
父は、手紙を寄越した。
『エリーゼ。すまなかった。お前がどれほど家のために尽くしていたか、今になってようやく分かった。戻ってきてくれないか』
その手紙を読んだ私は、丁寧な返事を書いた。
『お父様。お気持ちは有り難く存じます。ですが、私は既にアーレンス公爵家の人間です。どうかお体をお大事になさってくださいませ』
便箋を封筒に入れながら、ふと思った。
前世の私は、退職願を出す勇気がなかった。辞めたら周りが困る。自分がやらなきゃ誰もやらない。そう思い込んで、最後はデスクの上で冷たくなった。
でも、本当は逆だったのだ。
辞めてみて初めて、自分の価値は証明される。
もう、遅いのです。
一方、アーレンス公爵家はというと。
「エリーゼ、今日の決算報告、完璧だった」
「当然です。前世で七年間、一円も間違えなかった女ですから」
「……前世というのが何を指すのか、いずれ教えてもらえるのか?」
「いずれ、きっと。紅茶のおかわりをいただけますか? 砂糖は」
「二つだろう。知っている」
陽だまりの執務室。
窓から差し込む午後の光の中で、公爵閣下が自ら紅茶を淹れてくれる。
この国最高位の貴族が、一介の元伯爵令嬢のために茶を淹れる光景を、使用人たちは驚きつつも温かく見守っている。
前世では、デスクで一人きりで飲む百円の缶コーヒーが日常だった。
今は隣に、誰かがいる。
私の仕事を見て、認めて、褒めて、砂糖の数まで覚えている人が。
(ああ。転生して、よかった)
「エリーゼ」
「はい」
「今日も定時で上がるぞ」
「……はい」
大きな手が、そっと私の手に重ねられる。
もう冷たくない。
もう一人じゃない。
窓の外では、公爵家の庭園に遅咲きの薔薇が花開いていた。
前世では見る暇もなかった、穏やかな景色。
今世では、隣の人と一緒に眺められる景色。
これは、前世で過労死した社畜OLが、転生先でようやく見つけた、正当評価と定時退社と、少しばかりの溺愛の物語。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




