表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

波を振り切れない

作者: クエン
掲載日:2025/11/21

夢の話し


 到着したのは昼過ぎだった。ホテルのロビーは、光だけが漂っているように白かった。天井のファンがゆっくりと回り、外の熱をなだめるように空気をかき混ぜている。受付で妻が名前を告げている間、私はカメラバッグを足元に置いたまま、ただ壁にかかる海の絵を見ていた。そこには波がなかった。静まり返った青が、どこまでも続いていた。


 撮影の付き添い――その名目だけは頭に残っていた。誰が企画したのかも、何の映像なのかも知らない。ただ、妻が「行く」と言ったから来た。彼女がなぜヌードになるのかも、聞きそびれたままだった。問いかけようとした瞬間、いつも別の話題が差し込まれて消えた。


 現場の部屋は想像よりも狭く、人の数だけ熱がこもっていた。二十人ほどのスタッフと俳優がいた。カメラマン、照明、モニターの前に並ぶ誰か。みんな動いていた。誰も私を見なかった。私はただ立っていた。妻は少し離れたところで、衣服を整えていた。彼女の指先が小さく震えているのを見た気がした。


 そのあと、記憶がところどころ抜けている。気づけば撮影の話はどこかへ消えていた。誰かが「次はホテルで」と言い、私は荷物をまとめてついて行った。妻も隣にいたはずだった。だが、ホテルの部屋に入ったとき、彼女はいなかった。


 代わりに、一人の少女がいた。制服姿の、あどけない顔をした女の子だった。立っているのに、なぜか机と椅子の匂いがした。私は教師で、彼女は生徒――そんな感覚が一瞬で体に入り込んできた。夢の中に落ちたようだった。彼女は何かを話しかけようとして、唇だけを動かした。声は出なかった。


 現実がゆっくりと歪み始めた。

 天井のファンが逆回転をはじめ、光の向きが変わった。部屋の外で波の音がした。

 私は動けず、ただ立ち尽くしていた。


 目が覚めたのは、夕暮れの光が部屋の奥まで伸びてきた時だった。

 カーテンの隙間から射す橙色が床をなぞり、南国の湿った風が頬を撫でた。クーラーの音は止まっていた。代わりに、波のような低い音が遠くから届いていた。


 隣に誰もいなかった。

 シーツは乱れておらず、枕も冷たいままだった。

 妻の姿はどこにもなかった。


 窓の外には、バリ島のリゾートのような庭が広がっていた。椰子の木が夕陽を受けて黒い影を落とし、プールの水面だけが淡く光っている。

 昼寝をしたつもりはなかったが、時計はすでに五時を回っていた。胸の奥に、説明のつかないざわつきが残っていた。何かを見落とした気がしてならなかった。


 ドアの外に出ると、通路は無人だった。フロントへ続く階段を下りると、薄い音で波が聞こえた。だが潮の匂いはしない。かわりに、土のような湿気のある風が吹いていた。

 遠くで川の流れる音がした。見下ろすと、河川敷の向こうを一隻のクルーズ船がゆっくりと登っていくのが見えた。エンジンの唸りが重く、川の流れを逆らうように、全力で。まるでどこかへ逃げているようだった。


 その光景を見ているうちに、心がひび割れるような感覚がした。

 何かが終わりに向かって動き始めている。

 それが妻の不在と関係しているのか、自分の夢の続きなのかもわからない。


 風が止まり、音だけが残った。

 波、川、遠くのモーター。

 それらがゆっくりと混じり合い、ひとつのうねりになって部屋の方へ戻ってきた。


 私は再びドアを閉め、鍵を回した。

 静かな崩壊は、その音から始まった。


 夜になる前に、風が変わった。

 南からの熱を含んだ空気が止み、代わりに重く湿った層が町を包み込んだ。部屋の外では蝉の声も消え、波の音だけが遠くで続いていた。けれど、潮の匂いはなかった。塩気のない波音は、まるで何か別のものが水面を叩いているように聞こえた。


 廊下に出ると、照明がところどころ消えていた。誰もいない。ホテルのスタッフも客も姿を見せない。フロントへ向かう通路の先に、薄暗いロビーがあった。床には水の跡が点々と残っている。靴底が吸いつくような音を立てる。


 受付カウンターには書類が散らばっていた。電話は受話器が外れたまま、かすかな雑音を漏らしている。非常口のランプだけが緑に光っていた。私は声を出してみたが、誰も返事をしなかった。


 外に出ると、風景が鈍く変形していた。

 空はまだ明るいのに、太陽の位置が分からなかった。建物の輪郭が柔らかく溶け、遠くの水平線がかすかに膨らんで見えた。波ではなく、地面そのものが呼吸しているような動きだった。


 私は無意識にカメラバッグを握りしめた。中には何も入っていない。それでも、手放す気にはなれなかった。


 あの川を登っていったクルーズ船の姿を思い出す。

 あれは逃げていたのだ。何かから、必死に。

 ようやくその意味を理解した気がした。


 世界が静かすぎた。音がひとつずつ消えていく。

 波の前兆は、耳ではなく、胸の奥で聞こえていた。


 部屋に戻る途中で、床に冷たい水が触れた。最初は雨かと思った。だが、窓の外には雲ひとつなかった。ロビーの床を薄く覆う水面が、光を反射していた。


 私はカメラバッグを肩にかけ、部屋へ戻った。

 妻の荷物はすでになかった。ベッドの上には、充電コードが一本だけ残されていた。

 その先に、iPadがあった。

 まだ画面がついている。指紋認証を通すと、カメラアプリが開いた。映っていたのは、波のない海と、誰かの影。妻のものかどうかはわからなかった。


 不安より先に、時間を確認した。

 午後三時五十八分。

 光が赤みを帯びている。外で何かが崩れるような音がした。


 私は小さなバッグを引き寄せ、iPadを中に入れた。財布とスマホはそのまま机の上。取りに戻るか迷ったが、体が勝手に出口へ向かっていた。


 ロビーを抜け、外へ出ると、通路を伝って水が流れていた。

 最初の波は、くるぶしほどの深さだった。音も立てずに、ただ地面を撫でるように広がってくる。

 海の方を見た。水平線が崩れていた。波が一列ではなく、幾重にも重なり、ゆっくりと持ち上がっている。


 走り出した。

 足音が水を弾き、砂の上で途切れた。後ろで、建物が軋む音がした。

 振り返ると、プールが消えていた。水面ごと、どこかへ吸い込まれていた。


 最初の波はまだ低かった。

 だが、その奥で次の波が立ち上がるのが見えた。

 空が動き、光が反転した。


 水平線が、崩れ落ちていった。



 足の裏が焼けるほど熱い。舗装された道の上を走りながら、息が切れていくのを感じた。

 振り返ると、白い壁のホテルが半分水に沈み、波がその上を滑るように越えていく。最初の波は浅かったはずだ。けれど、後ろから押し寄せる音の層が厚くなっていく。


 私はバッグを胸に抱え直した。中にはiPadだけ。重くはない。だが、それが唯一の現実のように思えた。財布もスマホも、もうどうでもよかった。


 道の先には小高い丘が見えた。そこへ向かう途中で、数人の人影が動いていた。

 一人は白髪の男。肩に子どもを抱いている。もう一人は旅行者らしい若い女。足を取られて転び、泥に手をついていた。私は立ち止まることができなかった。助けようとする意志と、逃げろという声が、同時に頭を叩いた。


 丘のふもとまで来た時、また波の音が変わった。低く、地を這うような唸り。

 振り返ると、第二波が町を飲み込んでいた。建物の屋根がひとつ浮かび、すぐに沈んだ。空の色が灰に近づいていく。


 息を整えながら、私は近くのガードレールを越えた。丘の斜面はぬかるんで滑りやすい。手で土を掴みながら登ると、指先が震えた。指の間に冷たい水が入り込んできた。


 上まで登ると、わずかに高台の集落があった。人が五、六人。みな黙って海の方を見ていた。誰も泣かず、誰も話さない。全員が、これが終わりではないことを知っている顔をしていた。


 私は地面に座り込み、バッグの中を開いた。iPadは濡れていなかった。

 画面をつけると、カメラのままになっている。レンズ越しに映るのは、黒い波の群れだった。

 録画ボタンが押されたままになっていた。いつから撮っていたのかもわからない。


 空気の匂いが変わる。潮と鉄と、焦げたような甘い匂いが混ざっていた。

 誰かが小声で言った。「まだ来る」


 私は立ち上がった。

 次の波が引くまでの間に、さらに高い場所を探さなければならなかった。

 それを考えることでしか、心が動かなくなっていた。


 夜が近づくにつれ、空は黒くも青くもない色に沈んだ。

 丘を越えて北へ歩くと、広い幹線道路に出た。道の端には街灯がいくつか倒れ、電線が垂れている。

 遠くで車のアラームが鳴っていたが、誰もいない。


 その先に、橋があった。

 川をまたぐ大きなコンクリートの橋。水面はもう見えない。黒い塊のような波が流れを埋め尽くしている。

 私は手すりに掴まり、足を止めた。橋の下から吹き上がる風が熱い。波が下から橋桁を叩いていた。


 動けなかった。

 前へ進む道も、戻る道も、水に沈み始めていた。

 ただ、音だけが激しくなっていく。


 バッグを抱えたまま、私は橋の中央まで進んだ。

 下を覗くと、車道の一部がすでに波に浸かっている。水面に街灯の光が滲み、まるで空を逆さにしたようだった。


 突然、橋全体が軋んだ。

 最大の波が来た。

 川から立ち上がった水の壁が、橋の片側をなめるように覆った。手すりにしがみついたが、足が浮く。視界の端で街が崩れるのが見えた。建物の屋根が水に溶け、光がひとつずつ消えていく。


 私は橋の脇にあった歩道橋の鉄の綱に腕を回した。

 身体を絡め、息を止めた。

 水が一瞬で腰まできた。次の瞬間、足元が消えた。

 レインボーブリッジの上を渡っているような錯覚の中で、私はただその綱を握っていた。


 水が足のすぐ下を通り過ぎていく。

 歩道橋は完全に飲み込まれ、波は幹線道路の一段下、普通の車道の高さまで押し寄せていた。

 お台場の夜景のように、光がゆらめいて見えた。だが、それは街ではなく、水に反射する炎だった。


 手がしびれ、体の感覚が消えかけた。

 風がやみ、音が遠ざかる。

 波の息が途切れた瞬間、私は綱を離し、崩れた歩道橋の上に身体を投げ出した。


 生きているのかどうか、判断がつかなかった。

 けれど、水の匂いと金属の冷たさだけは確かにあった。

 空を見上げると、雲が裂けて、一筋の星が滲んでいた。



 夜が明ける前に、風が変わった。

 橋の上から見下ろすと、水が少しずつ引き始めていた。街は輪郭を失い、灰色の湖のように広がっていた。私はケーブルを降り、崩れた歩道橋を伝って陸地の方へ向かった。


 足元はぬかるみ、空気は重かった。波のあとに残った匂いは、塩よりも鉄に近かった。どこへ進めばいいのかもわからないまま、わずかに高い方へ向かって歩いた。


 やがて、湿った木々が密集する森に入った。

 倒れた鉄のパイプラインが川をまたいでいた。苔がびっしりと張りつき、陽の光が届かない。

 私は迷った。苔の生えた小屋に入るか、それとも管の上を渡ってさらに高いところへ登るか。どちらを選んでも、もう戻れない気がした。


 その時、背後から声がした。

 老夫婦だった。どこから来たのか分からない。二人とも裸足で、泥にまみれていた。

 「今日の食卓は何が並ぶのかね?」

 女の方が訊いた。

 私は首を振り、言葉を探しながら答えた。

 「つながらないけど……陸地の実家へ戻ってるところです」

 すると、女は小さく笑い、そして言った。

 「じゃあ、あんたはまだ身内を失ってないんだね」


 その言葉に、胸の奥で何かが切れた。

 「そんな言い方、やめてくれ。妻とあのホテルにいたのはいた。途中でどこかへ行って……わからない! 他にもいろいろなくして、ここまできたんだ!」

 声が震えた。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からなかった。


 老夫婦は少し沈黙したあと、小さくうなずいた。

 「悪かった、ごめんよ。……波が全部持っていった」

 その声は、波の音に溶けるように消えた。


 遠くでまた海の音がした。

 次の波が来るのかもしれない。私は空を見上げ、鉄管の上へ登った。

 苔が滑り、手が冷たかった。それでも上へ。


 頂に立つと、森の向こうで朝が始まっていた。

 光の帯が木々を貫き、霧の向こうで海がかすかに光っている。

 その中に、消えた妻の笑い声が一瞬だけ重なった気がした。


 私は立ち尽くし、波の音を聞いた。

 それが世界の終わりか、始まりか、もう区別はつかなかった。

以上

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ