九話「不完全な関係」
「世界が不完全だと知ってから、わたしは何にも心が動かなくなった。そして、一度も泣かなかったわ」
「あの日の放課後までは」
彼女は頷き、こちらを振り向く。艶やかな黒髪も動いた。
「あのときは本当に悪かった」
「もう謝らなくていいのよ。この前も言ったでしょう?」と綾は子どもを諭すように優しく言った。
「なんというか……あの日から、君は変わってしまった気がするんだ」と僕は言った。
「何か、君の大事なものを奪ってしまったような」
「真逆よ」
綾はゆっくり首を振った。
「あなたは、わたしの大事なものを取り戻してくれたの」
その言葉の意味は、わかりそうでわからなかった。彼女はよく曖昧な話し方をするが、それも人の心を掴む要因なのだろう。
「ねえ。放課後の教室でわたしが泣いたとき、どう思った?」
僕はそのときの様子を頭の中で再現した。綾は左隣の席で、顔を抑えながら震え、僕は何もできずにうろたえていた。
「こんなに素敵な人を泣かせてはいけない。僕が守らなければ、と思ったよ」
気がつくと、そんなことを言っていた。
「ほら、あなたも優しい心を持っているのよ」
綾は頬を赤くして、優しく微笑んでいた。それは照れなのか、チークの色なのか。
「わたしも、あなたの絶望を聞いて、『この人を守らなきゃ』と思ったから涙が出たのよ」
綾は川を見つめ、何かを考えている。僕は無意識に口づけされた頬を触ってしまい、すぐに手を離した。
「そろそろ行きましょう?」
綾は茶色のバッグを肩にかける。そして一緒に歩き始めると、僕たちは当たり前のように手を恋人繋ぎにした。今思えば、これは世界が反転するくらいの大事件じゃないか。
川沿いのウォーキングロードを進むと、二十代くらいの男女が正面から歩いてきた。彼らも仲睦まじく手をつないでいる。すれ違った直後、僕と綾は視線を合わせ、すぐにそらした。綾の頬は紅葉のように赤らんでいる。
そもそも、僕たちの関係は何と分類されるのだろうか? そんな疑問が浮かんだ。
『男女が自然と恋人つなぎをして、女は男に「好き」と言い、頬に口づけした』
しかし、『付き合おう』と正式には言ってないから、カップルではないのか?
『友達以上、恋人未満』だろうか?
僕がいま告白すれば、どうなるだろうか?
そんなことを考えていると、よく知っている大通りが現れた。
「ここに繋がっていたのね」と綾は感心したように言った。
「見慣れた川なのに、気づかなかったわ」
僕らは立ち止まり、辺りを見渡す。信号が規則的に色を変える。車が止まったり、動いたりする。そこはいつも通りの世界だった。
「バス停もあるし、わたしはここで帰るね」
綾は不意に手を離した。
「えっと、バス停まで送るよ」と僕は言った。
「いいの、すぐそこだから」
綾は穏やかな笑みを浮かべた。
「今日は楽しかったわ。本当にありがとう」
もう少し一緒にいたい。
それから、『付き合って』と言わなければ。おそらく、こんな日は二度と訪れないのだから。
「また月曜日、学校で会いましょう」
綾はバス停の方に体を半分向ける。
「帰り道、気をつけて」と僕は言った。
そんなくだらないセリフしか出てこなかった。自分の顔を殴りたい。
綾は小さく手を振ると、僕に背を向けて歩き始めた。彼女の一歩一歩に合わせて、美しい後ろ髪が揺らめく。レザーサンダルの足音が小さくなり、綾の後ろ姿も豆粒サイズになった。
僕は顔を背け、大きくため息をついた。それからフラフラと歩き、今日という一日を振り返った。老舗の喫茶店、彼女の独白、恋人繋ぎで歩いた川沿いの道、頬への口づけ。そして、繋いだ手がすり抜け、突然の別れ――
我が家は一階が保護猫カフェなので、裏口から帰宅するようにしている。僕は極度の疲労で、全身に力が入らなかった。階段を上ることもできず、豪快に転んでしまった。
店にいた母が慌てて駆け寄る。
「ちょっと、あなた大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫。ちょっと具合が悪いから、部屋で休むよ」
「そうなの?」と母は心配そうに言った。
「冷蔵庫に栄養ドリンクが入ってるから、飲んでおきなさいね」
僕はベッドに倒れ込む。布団に潜ると、そのまま二十時間眠った。そういえば、昨晩は一睡もしていなかったのだ。
◇ ◇ ◇
月曜日。教室へ入ると、すぐに綾と目が合ってしまい、僕らは同時に視線をそらした。席に座って英単語帳を開いたが、何も見えてはいない。僕は周りに動揺を悟られないよう祈った。
授業は一つも頭に入らない。綾にキスされた左の頬と、繋いだ左手を触っているうちに一日が終わった。
それからの日々は、綾と廊下で会っても、ひとこと挨拶するだけだった。時間が経つにつれて、僕の心はいつも通りに戻っていく。
僕には友達がいない。予備校にも通っていないので、夏休みには時間が有り余った。
『綾は今ごろ何をしてるだろう?』
そう考える時間が増えた。連絡しようかとスマホを開き、すぐベッドに投げる――それを何度も繰り返した。
僕は以前のように、近所の公園へ行った。ベンチから世界を眺め、野良猫を撫でたりして過ごす。ちゅ〜るは家から盗まず、スーパーで買うようになった。
野良猫の匂いを付けて帰ると、たいがをはじめとする十一匹の猫たちに怒られた。うちの保護猫カフェでは、動物愛護団体から引き取った猫スタッフ――店ではそう呼んでいる――が働きながら里親を探すので、譲渡の具合によって数が変動するのだ。
まだ暑さが残る九月、新学期が始まった。
ある日の放課後。いつも通り、グラウンド横の自販機で缶コーヒーを買っていると、綾とばったり鉢合わせた。彼女に対してどんな顔をするべきかわからない。
「なんだか久しぶりだね」と僕は気まずさを破るために言った。
「そうね」
綾は下手な作り笑いをした。
「元気にしてた?」
「うん、変わりないよ。君は?」
「わたしも変わらずよ」
デート(?)の日は心の内をさらけ出せたのに。なぜか今は、会話をするだけで妙な緊張が走る。お互いに噛み合わず、何度も目を合わせては逸らした。
関係がリセットされた感じではない。強いて言うなら、倦怠期のカップルに近いだろうか? まあ、付き合った経験がないので知らないが。
「もしよかったら、一緒に帰らない?」と僕は言ってみた。
「そうしましょう」
学校を出て歩き始めたが、やはりぎこちない雰囲気。僕たちは必要以上に周りの景色を眺めた。たまに、夏休みをどう過ごしたかなど他愛もない話をした。会話は全然続かず、瞬く間にバス停に着いた。
「また明日」
綾はバスに乗り込んだ。何とも言えない微笑を浮かべている。彼女は一番うしろの座席から軽く会釈すると、すぐに下を向いてスマホを触った。僕はバスが発車する前に立ち去った。
こうして、僕には日常が戻ってきた。学校近くにある例の――知らぬ間に綾と過ごしていた――公園には寄らなくなっていた。彼女のことを考える日もあったが、その頻度も次第に減っていった。