八話「頬に触れる瞬間」
「虚無主義」と綾は呟いた。
「倫理の授業で、そんな思想が出てきたのを覚えてる?」
「覚えてるよ」
「絶対的な価値が無くなる。絶対的な目的が無くなる。絶対的な意味が無くなる」
綾は宙に思い浮かべた教科書を指さした。
「それについて、どう思った?」
「僕と同じ考えだと思ったよ」
「わたしも」
綾は嬉しそうに笑った。
「それで次の休み時間にね、あなたは虚無主義のページを食い入るように見ていたわ」
確かに、その授業は印象的だった。『僕みたいな人は昔にもいたのか』と興味が湧いたからだ。
「勝手に見てごめんなさい。やっぱり、ストーカーみたいで気持ち悪いわね」
綾は大きくため息をついた。そんな脆い一面が見えるたびに、ますます彼女が愛おしく感じられる。
「人は不完全だからこそ美しい」と僕は言ってみた。
綾は不思議そうに僕の顔を見た。
「それも倫理の教科書に載ってたの?」
「いや、多分ないと思う」
「そうなんだ」
綾は青空を見上げた。
「あなた、その言葉が好きなのね」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく。あなたの目がそう言ってたから」
不意に、川魚が水中から飛び跳ね、僕たちは驚いて川の方を向いた。岸にいたカルガモたちも同じ反応をしている。それを見て、僕たちは目を合わせて笑い合った。
「ねえ」
綾は川沿いのベンチを指さした。
「少し休憩しない?」
「そうしよう。ちょうど歩き疲れてたんだ」
僕たちは自動販売機で水を買い、日陰のベンチに座る。一羽の真っ白なサギが優雅に羽ばたいていた。
「鳥になりたいと思ったことある?」と綾は空を見つめて言った。
「うーん。少なくとも今は思わないかな」
「どうして? 空を飛ぶのって、気持ちよさそうじゃない」
「でもさ、鳥になったら、そんなこと考えていられるのかな?」と僕は言った。
「野生なら襲われるのが怖いし、人に飼われたら窮屈だし」
綾はからかうようにクスクス笑っていた。僕はなぜ笑われたのか分からなかった。
「あなたのそういうところ好きよ」
綾はそう言って――――僕の頬に口づけした。
今、何が起きたのだろうか?
『綾が僕に「好き」と言って、頬にキスした』という認識で合っているのか? さすがの僕でも、ここまでリアルな妄想はしないだろう。おそらくあれは現実だったのだ。
白黒の小鳥が飛び回り、虫を捕まえようと奮闘している。僕は何を考えるでもなく、その追いかけっこを眺めた。
「こうしてぼんやりとベンチに座ってると、まるで放課後の公園みたいだわ」と綾は何事もなかったかのように話し始めた。横目で見た彼女の顔は赤らんでいた。
「そういえば、君は同級生から遊びに誘われないの?」と僕は平静を装って尋ねた。
「はじめは誘われたけどね」
綾は髪を解き、黒のヘアゴムを右手首に巻いた。自由になった髪は嬉しそうに揺れている。
「男も女もわたしの虜だから、適当に理由をつければ信じるのよ」と綾は言った。
「そうやって、『綾ちゃんは忙しい人だ』ってみんなに刷り込んだから、いつの間にか誘われなくなったの。わたしって、人の心を読んで操るのが得意なのよ」
綾は唇に手を当て、「あ、でも、さっきのは――」と言って途中で言葉を止めた。
「さっきのは?」と僕は思わず訊き返した。綾は顔を背けてしまい、髪が表情を隠した。彼女は大きく息を吐き出し、力が抜けたように肩を落とした。今日はよくため息をつく。
「最低な女だと思ったでしょう?」
綾は横目で僕の顔を確認した。
「なんというか、そういうのも人間らしさだと思うんだ」と僕は言った。
あのキスについてはもう考えないことにしよう。その記憶が心に残っていればいい――そう自分に言い聞かせた。
「あなたの前では、本音を話してしまうのよ。あんな腹黒いことを考えてるなんて、他の人には絶対言えないわ」と綾は言った。
「ねえ、わたしのこと嫌いになったでしょう?」
「なってないよ」
「あんな最低なことを言ったのに?」
「そうだね。確かに君は最低なことを言った」と僕は言った。
「ただ、本当に最低な人なら『自分は最低だ』って言わないと思うから」
モンシロチョウがベンチの手すりに止まり、すぐに飛んでいった。綾は両足を伸ばし、レザーサンダルの先を見つめている。
「みんな生まれた時は純粋で、それから色んなものを手に入れたり、捨てたりするんだ」と僕は言った。
「真っ白なまま大人になることはできない」
綾はしばらく黙って考えた。
「あなたらしいわね」
太陽と僕らの間を雲が横切り、また太陽が顔を出した。
「あの……さっき言った『人を操る』とかそういうの、あなたにはしてないわ……というか、できないの」
綾は不安そうな表情を浮かべた。
「お願い、信じて?」
「うん、大丈夫だよ」
綾は肩を落とし、息を吐き出す。それからペットボトルの水を一気に飲み干した。