七話「似た者同士」
十分ほど歩くと、木々に覆われた遊歩道が現れた。綾は幸せそうに微笑んでいる。
「こういう道って素敵よね。なんだか終わりがないみたいで」
確かに、ジブリにでも出てきそうな散歩道だ。
「わたしの母はね、動物愛護団体でボランティアをしてるの」
綾は道の先を見つめた。
「家では三匹の大型犬を飼ってるわ。みんなそこの保護犬よ。いたずらはするし、散歩も大変だけど、そんな苦労も幸せのうちね。
わたしは物心ついた頃から動物が大好きで、両親に色んな場所へ連れて行ってもらったの。中でも特に好きだったのが、十二匹の猫さんがいる保護猫カフェよ。ご夫婦で経営してるんだけど、わたしは娘のように可愛がってもらったわ。そのご夫婦には、わたしと同じ年の息子さんがいると話してた。それが――あなただった」
綾は僕の顔を見つめ、微かに口角を上げた。
「小学校でね、仕事について親にインタビューする宿題があったの。わたしは母に尋ねることにしたわ。母がやってるのはボランティアだから、厳密には違うけれど、そこまでは考えてなかった。
母は『たとえば、迷子の犬や猫を預かって、新しい飼い主さんを探す仕事よ』と答えた。けれど、その言葉がわたしの胸に引っ掛かった。
『どうして新しい飼い主なの? わたしがデパートで迷子になった時みたいに、すぐ飼い主さんが探しに来るでしょう?』と私は聞いた。
『も、もちろん来るんだけどね! 飼い主さんも色々あるから、お母さんたちが預かってお世話するっていうか……』
『そうなんだ』と、わたしはよく分からないまま返事した。
翌日、両親が留守の間に、わたしは母の部屋へ忍び込んだ。いけないことなのは分かってるけど、本当のことを知りたかったのよ。母の本棚には色んな本が行儀よく並んでた。わたしはつい、犬のアルバムを手に取ってしまったけれど、本来の目的を思い出して棚に戻した。
他の場所に目を向けてみると、母のデスクに置かれた一枚のチラシが目に入った。何てことのない広告かと思ったけど、それは母が参加してるボランティア団体のものだった。集合写真には笑顔の母が映ってた。
わたしは何気なくパンフレットを読み進めた。裏返してみると、見出しには大きな字でこう書かれていたわ――――
『昨年は、合わせて四十万匹の犬と猫が殺処分されてしまいました』
わたしは意味を理解できなかった。二回読んでも分からなかった。
一、十、百、千、万、十万……
四十万ってことは、わたしは三匹の犬を飼ってるから、割り算して、十万倍以上?
そもそも、殺処分って何?
窓際にあった柴犬の卓上カレンダーを見つめながら、しばらく考えた。何分か経って、それが現実の話だと理解した。その頃には、わたしは涙で滲んだパンフレットが破れるほど強く握りしめていた。
わたしは絶望した。
彼らはどうしてそんな目に遭わなければならないの? わたしは耐えられなくなった。布団に潜って一人で泣き、『これは現実じゃない』と自分に言い聞かせた。そうしないと、正気でいられないような気がしたのよ」
僕は泣いていた。
自分の過去、綾の天真爛漫な振る舞い、その裏に隠された苦しみ――湧き上がる感情が次々と胸を刺していく。
綾は僕にハンカチを手渡し、「ごめんね」と言って頭を撫でてくれた。彼女の目からも涙がこぼれている。
「この話をしたのは、あなたが初めてよ」
遊歩道の真ん中で立ち止まり、僕らは子どものように泣いた。犬の散歩をする通行人が、物珍しそうにこちらを見ながら通り過ぎた。
僕は涙を拭き、淡いピンクのハンカチを彼女に返した。
「ごめん」
「なんであなたが謝るのよ」
綾は僕の頬をつついた。いつも以上に素敵な笑顔だった。
「辛い思いをしたのは君の方なのに」
綾は目を閉じて、ゆっくりと首を振った。
「わたしのために泣いてくれたんでしょう? それより、一人で話しすぎたわ。ごめんなさい」
「君も謝らなくていいんだよ」
僕は勇気を出して、綾の頬をつついてみた。彼女は驚いて肩を上げ、それからクスクス笑った。
「こういう気持ちだったのね」
彼女の柔らかい頬に触れた指の感触が、いつまでも残っていた。
「実は僕も君と同じで、十歳の時に。それから、生きる気力を失ったんだ」
綾は僕の言葉を噛み締めるように、何度も頷いた。
「公園で猫を撫でるあなたを見たとき、わたしと近いものを感じたの。だから、勉強を口実に誘ってみたのよ」
少しずつパズルのピースが合わさる。僕は素晴らしい映画を見た後のような余韻に包まれた。
遊歩道を抜けると、大きな川にぶつかった。僕たちは自然と左に曲がり、川沿いを歩く。ふと横を見ると、綾は儚い笑みを浮かべている。
僕は思い切って――――綾の手を握った。彼女はひどく驚いたが、すぐに優しく握り返してくれた。その手は思ったよりも小さく、柔らかかい。僕は初めて女の子と手をつないだ。
「さっきの続きだけどね」と綾は言った。
「殺処分の現状を知ったその日、わたしは亀みたいにいつまでも布団に潜った。両親には言えなかったわ。夜中になっても眠れなかったから、わたしはリビングに行って、床に寝転んだ。そして、犬たちの寝顔を眺めた。
音を立てないようにしたけど、彼らは泣いてるわたしに気づいて寄り添ってくれた。わたしは犬たちを抱きしめながら『ごめんね』と何度も謝った。そうして泣き疲れると、もふもふに包まれて眠っていた。
わたしは心境を悟られないように、今まで以上にいい子であり続けたわ。天真爛漫で、みんなに優しい素敵な女の子。ディズニーランドのキャストさんをモデルにして、完璧に振舞った。
成績もよくて、両親の手伝いも頑張るし、困ってる人がいたら真っ先に手を差し伸べたわ。『生きる意味なんてない』と思いながらこんなことするのって、馬鹿みたいでしょう?」綾は皮肉っぽく笑った。
僕は首を振った。
「君は強い人だよ。でも、無理に明るく振る舞うのは、きっと辛かったよね?」
綾は小さく頷き、「やっぱりあなたは優しい人よ」と囁いた。彼女の大きな瞳が涙で潤んだ。
「遠くから世界を見送った。わたしはロボットのように、淡々と『綾』を全うした。人と理解し合える日なんて来ないと思ってた」と綾は言った。
「あなたと出会うまでは」
僕はその言葉に胸を打たれ、相槌を打つのも忘れていた。『綾とひとつになりたい』という想いが溢れ、思わず手を強く握りなおした。