六話「狐のような女性」
喫茶店に入ると、ドアの鈴がカランコロンと涼しい音を立てた。渋いコーヒー豆の香りが心地よい。店員のおばあさんは僕たちに気づくと、柔らかく微笑んだ。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
店内は茶色を基調としたデザインで、レトロな喫茶店という印象を受けた。僕らはソファ席に腰を下ろし、店内をぐるりと見回した。奥の席では、中年の男性客がノートパソコンで作業している。
「雰囲気のいいお店ね」と綾はしみじみ言った。
「表も裏も知ってるって感じがするわ」
彼女はまた謎めいた発言をしたが、僕はあえて尋ねないことにした。
メニュー表を綾と一緒に見ていると、頭がぶつかりそうになり、胸が高鳴った。またホワイトムスクの香りがした。
「うーん」
綾は首をかしげた。
「どっちにしようかしら」
「何と何で悩んでるの?」
「オムライスか、シーフードパスタか」
「どっちも頼んだら?」
「そんなに食べれないわよ」
綾はフフフと笑った。
「それに太っちゃうじゃない」
彼女は写真を交互に見比べ、顔を上げた。
「両方とも頼んで、ふたりで分けっこするのはダメかな?」
「構わないよ」
この喫茶店は夫婦で経営しているのだろう。注文を受けたおばあさんがメニューを伝えると、おじいさんが調理を始めた。僕の両親もそうだが、夫婦で自営業するというのは、どんな感じなのだろう?
「あなたは料理とかするの?」
綾は厨房から僕に視線を移した。
「たまにね。両親が忙しい時なんかは」
「そうなんだ」と彼女は感心したように言って、水を飲んだ。
「男の子なのに珍しいわね」
「まあ、暇だからね。君は料理するの?」
「うん、気が向いたときはね」
「そっか。君は料理しそうだと思ってたよ」
「まあ、暇だからね」と綾が僕のまねをすると、一緒に目を合わせて笑い合った。この幸せな瞬間は、永久保存版として僕の魂に刻まれた。
「最近になって気づいたんだけどさ、あなたってよく笑うのね」
僕がよく笑う?
世界に絶望してから、笑った記憶なんてなかった。でも、確かに今は自然と笑っていた気がする。僕は自分の笑う姿を想像してみたが、いまいちピンとこなかった。
おじいさんが作った料理を、おばあさんが運んだ。ひとまず僕の前にオムライス、綾の前にパスタが置かれた。僕が取り皿をひとつ頼むと、綾は不思議そうに僕の顔を見た。
「取り皿は一つでいいの?」
「オムライスを半分にして、取り皿に乗せる。その空いたスペースに、パスタを乗せるんだ」
「あなたの皿は、味が混ざるんじゃない?」
「混ざるかもね」と僕は答えた。
「でも、洗い物を減らせるから」
「優しいのね」
綾はにっこりと笑った。
「あなたのそういうところ好きよ」
――――心臓が止まりかけた。
今、綾は僕に『好き』と言ったのだろうか? その言葉について考えると、呼吸が乱れていく。からかうように笑う彼女の顔が、視界の端に映った。
「白い服を着てくるんじゃなかったわ。気をつけて食べないと……」と綾は何事もなかったかのように呟いた。服なんてどうでもいいから、『好き』の意味を教えてくれないだろうか。
取り皿がテーブルに届き、僕の作戦通りに料理を取り分けた。綾は右手に巻いていた黒のブレスレットを外し、髪を後ろで一つ結びにした。それはヘアゴムだったのか、と僕は感心した。
彼女が髪を束ねる仕草はあまりにセクシーで、僕はまるで着替えを覗いてしまったような気分になった。
「髪が……いい感じだね」と僕は勇気を振り絞って声をかけた。
綾は一瞬目を丸くしたあと、「ありがとう」と言って微笑んだ。僕にサービスするように、結んだ後ろ髪を持ち上げてふわふわさせてくれた。ついでに化粧も褒めようとしたが、気持ち悪いと思われるのが怖くてやめた。
これは自分でもよくわからないのだが、綾と分け合ったものを食べていると、なぜか恥ずかしくなった。別に間接キスをしているわけでもないのに、それ以上にいけないことをしている気分になった。
僕は首を振り、冷たい水を飲んで気を紛らわせる。店内BGMでは穏やかなジャズが流れていた。
それにしても、綾は幸せそうにご飯を食べる。一般的な喫茶店の料理だが、まるで三つ星レストランのフルコースに見えた。
「もう、そんなに見られたら恥ずかしいじゃない」
綾は可愛らしく僕を睨んだ。
「ご、ごめん」
この指摘を受けたのは何度目だろう? 僕は心の中でため息をついた。
「ねえ、わたしってそんなに可愛い?」
綾は自分を指さした。僕は何も言えず、ただ頷いた。
「ありがとう」
綾はにっこり笑い、両手でグラスの水を飲んだ。
「ほら、食べましょう?」
オムライスとシーフードパスタは、どちらも庶民的で美味しかった。一見ありふれた料理だが、独特な味つけが癖になる。
食後に僕はアイスコーヒーを、綾はカフェオレを頼んだ。
壁に目をやると、綾の横には菜の花畑の絵画が飾られていた。まるで彼女のために描かれたように思える。僕は絵の花を観察し、時々ガラス越しに外を眺め、コーヒーを楽しんだ。
「あなた、いつもブラックなのね」と綾はストローから口を離して言った。
「いつも?」と僕は訊き返した。
「そういえば、この前も言ってたような」
綾は僕の目を見て頷き、カフェオレを飲んだ。
「ねえ、わたしのこと嫌いにならない?」
「ならないよ」と僕は即答した。どうしてそんなことを聞くのだろう? 君を嫌いになれる人間なんていないのに。
BGMはジャズから男性の一人喋りになっていた。
「あなた、放課後はいつも、あの自動販売機に寄ってるでしょう?」
「知ってたの?」
綾は申し訳なさそうに頷いた。
「わたしも偶然、そうしてたのよ。いつも見えるのは、あなたの背中だった」
「なるほど」
「その後にね、わたしは学校近くの公園に行くの。雑草しかない、可哀想な公園よ。そこの古い木のベンチに座ってね、空を眺めるの。風を感じて、世界の音を聞いて、自然の一部になるのよ」
なんとそれは、僕も毎日寄っている公園だったのだ。
「僕と、同じだ」
綾は頷き、髪を整えた。
「そこにあなたがいたの。わたしと同じように、世界を見捨てたような表情のあなたが」と綾は言った。
「でもね、野良猫と接するときだけは違って見えた。哀しい顔ではあるけれど、目には人の心が宿っている気がした。その時に思ったのよ、あなたは優しい人だって」
僕はグラスを見つめながら、放課後のことを振り返った。
「でもさ、どうして内緒だったの?」
「だってストーカーみたいじゃない。陰から一方的に見てるなんて」
綾は顔を赤くしてカフェオレを飲んだ。
「ていうか、ひどいじゃない? こんな美少女が近くにいたのに、気づかないなんてさ」と綾は自虐的に言った。
「それも、一年生の時からずっとなのよ?」
再び驚愕した。僕は自ら世界を切り離していたらしい。
ここには夢か現実かわからない時間が流れている。三十代くらいの男女が来店し、慣れた様子でケーキセットを頼んでいた。
「そろそろ行きましょう?」と綾は言った。
僕たちは喫茶店を出て、外のリアルな空気を吸い込んだ。一緒に大きく伸びをした後、自然と駅の反対側に歩き始めた。




