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四話「思いがけない失敗」

 翌日の休み時間。ぼんやりあやを眺めていると、不意に視線が合ってしまった。彼女は静かに笑い、周りを気にして小さく手を振った。

 僕は()()()()()()をしている気持ちになり、軽く会釈えしゃくして前を向く。それを反省するうちに、気がつけば放課後になっていた。

 彼女はまた僕の左隣に机を寄せて座り、二日目の個別指導が始まる。


 相変わらず、綾の妖艶ようえんな香りが僕に届いた。そのたびに鼓動は速まり、彼女を抱きしめたくなった。


 勉強を始めて十五分ほど経った頃。同級生の女の子二人が廊下から僕たちに気づくと、ひそひそと話し始めた。内容は聞き取れないが、明らかに僕と綾の話だ。

『僕は今、学校一の美女とふたりきりで過ごしている』

 この事実を学校中に広めてほしいとすら思った。僕はそれくらい自惚れている。




 ひと段落すると、綾はペットボトルの緑茶を美味しそうに飲んでいた。まるでCMの女優みたいだ。


「もう、そんなに見られたら恥ずかしいじゃない」

 綾は小さくほおを膨らませる。僕はすぐに謝り、顔を背けた。人はなぜ同じ過ちを繰り返すのだろう?


「ねえ」

 綾はニヤリと笑い、横から僕の顔を覗き込んだ。

「わたしって、そんなに可愛い?」


 僕は何の声も出せず、ただ小さくうなずいた。今こそ想いを伝えるチャンスなのに。


 綾は満足そうに笑っていた。

「やっぱり、あなたって優しい人ね」


「そういえば昨日も言ってたけど、()()()()ってどういうことなの?」


「うーん」

 綾はしなやかな手の爪を順番に触った。

「いいわ。勉強のお礼に教えてあげる」


 彼女は髪型と制服を整えた。

「でもね、あなたに嫌われると思ったから、躊躇ためらっていたのよ」


 僕はとりあえず「大丈夫だよ」と答えた。君を嫌いになれる人間なんていないのだから。

 彼女はゆっくりと深呼吸して、真剣な眼差しを僕に向けた。

「あなたは世界が好き?」


 質問の意図はわからないが、とりあえず頭に浮かんだことを言葉にしてみよう。


「世界なんて、好きでも嫌いでもないよ。まあでも、小さい頃は好きだったかもしれない。あまりにも無知だったからね。その時の感情は上手く思い出せないけど、生きていて楽しいと感じてた気がする。いや正確には、幸せなのが当たり前だから、そんなことすら考えてなかったかもね。

 そして、僕は十歳のときに動物の……まあ、色々あって、世界を嫌いになった。もしかしたら()()()嫌いになったのかもしれない。そんな感情すらもじきに薄れて、僕は完全に世界から心を閉ざした。もしも今、この瞬間に命の終わりが来ても、僕は黙ってそれを受け入れるだろうね。こうして楽しく過ごす時間も、やがて消えてなくなってしまう。すべては無意味なんだ」


 僕は長いこと一人で話し続けたので息切れした。そこでようやく自分の失態に気づいた。嫌なことを言ってしまったのだ。慌てて横を向くと――綾は両手で顔を抑え、静かに震えながら泣いていた。

 押しつぶされそうな空気に、僕は身動きが取れなくなった。彼女が()()()()()()()音とセミの鳴き声が、放課後の空虚な教室に響き渡った。

 本当に、ごめんなさい。


 先ほどの女子二人組が、今度は反対側から廊下を通りかかった。彼女らは僕の隣で泣く綾に気づくと、「えっ!?」と驚きの声を漏らした。僕と綾を交互に見つめる視線には疑念が混じっている。

 二人は顔を寄せ、小声で何かをささやく。さっきの軽い井戸端会議とは違い、今僕に向けられているのは蔑視べっしだった。

 学校一のマドンナを泣かせた僕は大罪人だ――そう言われている気がした。このことは誰にも言わないで。


 さらに最低なことなのだが、僕は綾の泣き顔を見て「可愛い」と本気で思ってしまった。女の子を泣かせて、ときめいてまでいる自分が腹立たしかった。早くこの場から去ってしまいたい。




「ごめん」と僕は数分後にようやく声を出した。

「君を傷つけるつもりはなかったんだ」


 綾はゆっくりと首を振った。


「傷ついたんじゃないの」と彼女は鼻声で答え、ハンカチで涙を拭った。

「嬉しかったのよ」


 その言葉の意味はわからなかった。しかし、心の奥に刺さっていた罪悪感は、少しだけ和らいだ。


「えっと……」

 綾は無理に笑顔を作った。

「わたしから誘ったのに申し訳ないけど、今日は勉強をやめにしてもいいかな?」

 綾の目は赤くれていた。僕の胸は締めつけられ、やはり自分を責めずにはいられなかった。

「本当にごめん」


「もう謝らなくていいのよ」

 綾はそう言って――僕の頬をつついた。その瞬間、頭が真っ白になった。頬に残るしなやかな指の感触が僕の心を温めた。

 綾の手が、僕に、触れた。




 僕たちは今日も並んで綾のバス停に向かう。彼女は意外にも清々しい表情をしている。それも、無理につくろっているようには見えない。綾の潤った瞳は輝き、以前にも増して魅力的だった。


「ねえ」

 綾は一瞬だけ僕の目を見た。

「今週の土曜日、一緒に出かけない?」


 全身の血流が顔に集まった。これは『デートに誘われた』と解釈していいのだろうか? 僕は何度も自問自答した。彼女の表情は横髪で隠れたが、笑みがこぼれているようにも見える。


「構わないよ」と僕は平気を装って答えた。心拍数がグンと上がった。


「ありがとう」と綾はささやいた。

「前から気になってた喫茶店があるんだけど、ひとりでは入りづらくて」


「他の友達とじゃなくていいの?」


「いいの、それに友達は――」

 その後は聞き取れなかった。そうして、答えを知れないままバス停に着いた。


「今日もありがとう。また明日ね」

 綾は微笑んだ。


「うん、また明日」と僕は言った。

「さっきは本当にごめん」


「だから、もう謝らなくていいって言ったでしょう?」

 綾はまた僕の頬をつつく。その瞬間、心臓の波打つ音がはっきりと耳で聞こえた。


 綾はバスに乗り込むと、一番うしろの席に腰を下ろし、小さく手を振った。やはり以前よりも素敵な笑顔だった。僕もぎこちなく手を振り返し、彼女を見送った。

 この二日間は僕の人生で最も色濃い時間だった。そして家に帰ると、喜びと同時に激しい疲労が訪れた。

 次の日、綾は学校を休んだ。




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