最終話「猫をなでる日々」
当日の朝。僕と両親は張り切って会場設営をした。父は料理を担当。僕と母で店のレイアウトをパーティ仕様にした。猫が不安そうにしたら、そのたびに慰めた。
綾の家族が来たのは十二時前だった。ハイエースから実家の犬三頭と、ジャックが降りてきた。店に入ると、たくさんのお友だちを前に大興奮している。綾は姿勢を正して、僕の両親に挨拶した。
「えっと、お久しぶりです……と言っても、小さい頃、お店に来ていましたので。可愛がっていただき、ありがとうございました。あ、でも、昔のことなので、覚えていらっしゃらなくても仕方ないのですが。あ、長くなってすみません!」
綾は呼吸を整えた。
「息子さんと、お付き合いしております」
かなり動揺していたが、聞きやすい声だった。頭は斜め45度に下げていた。
「大きくなったわね」
母はにっこり笑った。父も深く頷いていた。
「えっ!?」
綾は目を見開いた。
「さあ、とにかく座って座って」
続けて入ってきた綾の母親を見て、僕も目を見開いた。
「お手伝いのお姉さん……ですよね?」
綾は大きく笑い、からかうように母親の肩を叩いた。
「お姉さんだってさ」
「久しぶりね」
綾の母は頬を赤らめていた。お手伝いのお姉さんに関しては、後ほど説明しよう。
父は料理を順番に運んだ。犬用、猫用、人間用、それぞれを手作りで用意していた。メニューはどちらも煮物が中心である。犬用の具材は、にんじん、かぼちゃ、ささみ。パリパリに焼いたジャーキーもあった。猫の方は、にんじん、かぼちゃ、白身魚で、ささみはジャーキーにしていた。人間用の食事も同じ具材を使い、味付けや硬さだけを変えていた。我が家は父がシェフなのだ。
犬と猫にご飯をあげると、みんな嬉しそうに食べている。作った父も幸せそうだ。僕たち人間も、綾の家族が買ってきてくれたビールを注ぎ、乾杯した。父は台所を拠点にして、コース料理を提供した。
「綾ちゃん、きれいになったわね」と僕の母が口火を切った。
綾は顔を赤くして俯き、もごもごしていた。
「でも、わたしが来てたのって、十年も前ですよ」
「そうねえ」と母は懐かしむように言った。
「何から話そうかしら。まずはお手伝いのお姉さんのことかな?」
「もう」と綾の母親は可愛く怒った。綾に似ている。
「私は動物愛護団体でボランティアをしてるんだけど、保護した猫をこちらのお店に譲渡しているのよ。あとは、無料で遊ばせてもらう代わりに、検査の手伝いなんかをしているの。あなたとは、小さい頃によく遊んだわね」と言ってこちら見た。
はい、と僕は返事をして会釈した。
「だからね、あなたたちが同じ高校に入ったと知って驚いたのよ。それで母親同士、運動会に行って、遠くから綾を見せたの」
「なるほど……」と綾は言った。
「あっ、でも、その。十歳の時からこのお店に来なくなって。それは、ただ、勉強とかが色々と忙しくて時間がなくなったというか……」
綾の母は、髪を整えてあげるように頭を撫でた。
「なにか、心の変化があったんでしょう?」
「えっ」と言って綾は顔を上げた。
「どうしてそれを……」
「親っていうのは、子どもの変化に気づくものよ。あなたたちが思ってる以上にね」
四人の親は深く頷く。綾の父親はいつの間にか、たくさんビールを飲んでいた。犬と猫たちも、それぞれのペースで食事していた。
「あれ? そういえば」と僕の母が言った。
「あなたたち、子どもの頃に会ってたのに、覚えてないの?」
僕と綾は顔を見合わせた。
「猫カフェを始めた時から、綾ちゃんのお母さんと仲良くなったから、家族同士でお付き合いしてたのよ」と母は言った。
「正月には、ご家族でワンちゃんを連れて来てくれたこともあってね。その時に、あなたたちは何度か会ってるのよ」
「覚えてない……な」と僕は言った。
「ごめんね」
綾は手を振った。
「いやいや、わたしも覚えてなかったから……」
「同い年だから一緒に遊びなさいって俺らが言っても、あんたたちは恥ずかしがって、動物とばかり触れ合ってたんだよ」と綾の父が冷やかすように言った。彼は酔いで顔を赤くしていた。
なんだか、卒業式のようにノスタルジックな気分になった。僕と綾は一緒に席を立ち、隅にいた猫と触れ合うことにした。話したいことが多すぎて、頭が整理できない。でも、言葉はいらない気がした。僕たちは親に隠れて、こっそり手を握った。今すぐ彼女を抱きしめたいと思った。
綾は緊張が解けて、スッキリしたのだろう。勢いよく酒を飲み、悪酔いしていた。彼女は店の中を優雅に歩き、両手を広げて、「わたしたちもいつか、こんな風に素敵な保護猫カフェを開くの」と言った。
みんな優しく笑っていた。それから綾は僕の手を引いて、親たちの前に行くと、
「 わたしたち、結婚します 」
そう宣言して――僕に激しく口づけした。
危うく気を失いかけた。僕は慌てて否定しようとしたが、一年後に結婚する約束は事実なので、何も言えなかった。親は唖然としていたが、その後、みんな揃って温かく拍手した。
「付き合おうって言うのも、結婚しようって言うのも、全部女のわたしから言ったのよ」と綾は聴衆へ語りかけた。
「ねえ、どう思う?」
「まあ、いいんじゃないか。君たちらしくて」綾の父は笑った。
綾はふわふわした様子で、ソファに倒れ込んだ。僕が顔を覗き込んだ時には、もうスヤスヤと寝息を立てていた。
僕は「まったく……」と言って肩を落とす。親たちはそれを見て、クスクス笑った。犬と猫も綾に寄り添い、眠り始める。これは僕にとって、一生忘れられない光景になった。
綾は結婚の挨拶の場で泥酔し、ソファに足を乗っけてグースカ眠っている。本来は失礼極まりないことだろう。しかし、彼女のそんな姿を見て、思い出したことがある。
『人は不完全だからこそ美しい』
どこかで聞いた言葉。僕は綾と出会い、ようやくその意味を知ることができた。この部屋には穏やかな時間が流れている。優しいものしか存在しない。すべてが愛に満ちている。
僕はいついかなる時も、猫を撫でるように、この温かい世界を守り抜くとここに誓う。
(完)
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