二十一話「心のリハビリ」
連れて来られたのは、綾の大学だった。山のふもとに建てられているので、長い坂を登らないと校舎に行けないらしい。通学するだけで、運動不足は解消されそうだ。
夜の九時過ぎで、校内には人の気配がない。国道で車が走る音が聞こえるだけだ。
「なんだか、肝試しみたいだね」と僕は言った。
綾はにっこり笑って頷いた。彼女は自慢するように大学を案内してくれた。食堂、学内カフェ、福祉棟、本館など。
中央の広場で、教授らしき中年男性とすれ違った。仏頂面で、こちらには目もくれず歩いている。大学教授も大変だな、と僕は勝手に同情した。さらに進むと、大学と山の境がわからなくなった。今にもイノシシや熊が出てきそうな雑木林が目の前にある。
「ここよ」
綾が指さすところには、古い木のテーブルとベンチがあった。周囲は雑草に覆われている。
「わたしのお気に入りスポットなの」
綾はベンチの上を手で払い、ふわりと腰を下ろした。
「ほら、座って」
僕はズボンの汚れを気にしつつ、となりに腰かけた。ひんやりしているが、悪くない座り心地だ。綾はコンビニの袋から缶ビール、ポテトチップス、割り箸を取り出し、テーブルに置いた。僕たちは背徳感と共にお酒を味わった。
「夜の学校でお酒を飲むなんて、まあいけない子」と綾は上品に言った。
「ただの優等生は卒業したから」
「そして、大学を留年したんだね」
「もう、余計なこと言わないの」
綾は僕の頬をつついた。
山の方から、ガサガサという音が聞こえた。驚いて振り向くと、一匹の野良猫が木陰から顔を出していた。白い毛で、茶色の斑点がいくつかあった。素人目の僕には健康そうに見えた。
「久しぶりね」と綾は言った。
「カプチーノみたいな模様が印象的だったのよ。元気にしてたかしら?」
猫は返事するように、優しい鳴き声を上げた。ゆっくり足元に来ると、軽快にジャンプしてベンチに飛び乗った。綾は穏やかな微笑を浮かべ、猫を撫でる。まるで月光みたいな笑顔だと思った。彼女がコンビニの袋からちゅ~るを取り出すと、猫は勢いよく舐め始めた。
「野良猫にエサをやることについて、どう思う?」綾は僕の顔を見た。
「まあ、程度の問題だと思うよ。健康を害したり、近隣の迷惑になるなら考えた方がいいし。逆に、苦しむ野良猫を放っておくのも可哀想だよね。ルールの範囲内なら、各々の価値観に委ねられるところじゃないかな。いずれにせよ、そこには少なからず人間のエゴが――。ごめん、こういう言い方は良くないよね」
綾はゆっくり首を振った。
「わたしは好きよ、そういう話」
ここには不思議な時間が流れていた。綾がいて、僕がいて、その間に猫がいる。まるでこの一角だけが、世界から切り離されたようだ。
「ねえ、三年後に結婚しましょうよ」
綾は当たり前のように言った。とても落ち着いた話し方で。僕は息が止まるほど驚いたが、すぐに頷いた。 少しも不安はなかった。
「でも、大学を出てすぐって早いかしら?」
「まあ、一般的にはね」と僕は言った。
「ただ、それは自分たちで決めればいいことだよ。僕たちはきっと、十年前から心で繋がっていたんだ」
綾はおしとやかに笑った。
「あなたって、意外とロマンチストなのね」
彼女は僕の頬に口づけした。僕らは手をつないで指を絡め、猫の温かい背中の上に乗せた。
「三年後」と綾は改めて呟いた。
「そっか。僕は二年後に卒業だけど、綾は留年してるから、三年後なのか」と僕はわざと説明した。
「もう」
綾は目を細め、肩をぶつけた。猫は不思議そうに僕たちの顔を見上げている。
しばらくの間、ここが大学の中であることを忘れていた。それくらい幻想的な空間だったのだ。そして僕たちは帰宅すると、心ゆくまで愛し合った。
◇ ◇ ◇
四月に入ると、綾は再び大学に通い始めた。彼女は色んな経験をして、〈大人の女性〉になっていた。月日は軽やかに流れていく。まるでカモメの群れみたいに。
僕は過不足なく大学三年、四年を終えて、卒業した。就職先は障害者支援をしているNPO法人に決まった。そういう仕事に就こうと思ったのは、目の前の困っている人――特に子どもが、昔の自分と重なるからだ。彼らを助けることで、過去の自分を抱きしめられそうな気がする。
綾の方は、大学やアルバイトをそこそこ頑張っていた。
「人生を楽しむコツは、75点を目指すことよ」
綾はこれをモットーにしたらしく、口ぐせのようによく言った。
ある日曜の朝。僕たちはジャックの散歩を終えて、朝食にミートソースパスタを食べていた。
「そうだ、就職祝いをしてあげるわ」と綾は言った。
「それも、とびっきり豪華なのを」
「ありがとう。楽しみにしておくよ」
「場所は、あなたの実家でいいかしら?」と綾は言った。
「ご両親に、十年ぶりの挨拶もしたいし」
「僕の実家? まあ、定休日なら問題ないと思うよ」
綾の話し方からすると、半分はうちの猫カフェで遊びたいだけのようだ。しかしまあ、そんな子どもっぽい部分も愛おしい。
両親にこのことを話すと、日曜を臨時休業にしてくれた。そもそもガールフレンドがいること自体を初めて話したが、両親は『知ってるよ』とでも言いたげなリアクションだった。
仕事を始めて一ヶ月。僕は苦労しながらも、支援員の仕事にやりがいを感じていた。そうして、入社祝い(という名の家族交流会)がやってきた。