二十話「新たな一歩」
「わたしは人生で二度目の喪失に心を砕かれて、家にこもった。どうせ単位を取れないから、今さら行っても意味ないじゃない? だから、そのままサボったわ。もう昔の〈綾〉ではいられないの。わたしは悪い子よ」
彼女は僕を見た。とても儚い笑顔だった。いっそのこと、壊してしまいたいと思うほど。
「同窓会には、無理して来たの?」と僕は訊いた。
彼女は頷き、カフェオレを飲み干した。
「あなたに会えるかもしれない、と思ったから」
「僕もそうだよ」
「ジャックはこんなわたしに寄り添ってくれた」と綾が言うと、ジャックの耳がピクッと反応した。
「ただ甘えたかっただけなのか、慰めてくれたのかは分からないけどねー?」
綾は指でくすぐるように、ジャックの顎を掻く。僕はこの美しい景色を心のフィルムに焼き付けた。
「あなたに会いたかった」と綾は言った。
僕たちはそっと肩を寄せて、足元を見た。お互い堪えきれず、子どもみたいにわんわん泣いた。通行人は見て見ぬふりをしていたが、当然だ。ジャックは慰めるように、僕たちの足にくっついてくれた。
落ち着いた頃、僕は自動販売機で水を買い、綾に手渡した。彼女は赤く腫れた目にしわを寄せて笑い、「ありがとう」と言って受け取った。そして男子学生のように勢いよく水を流し込んでいた。
「もう、そんなに見られたら恥ずかしいじゃない」
綾は僕の頬をつついた。
「そろそろ行きましょう?」と綾が言うと、ジャックも立ち上がった。この子はよく人の言葉を理解している。
帰りは僕もリードを持たせてもらったが、ジャックはすぐに慣れてくれた。僕はジャックの揺れる尻尾に目をやりながら歩く。
「たかが失恋したくらいで留年なんて、ほんと馬鹿みたいだわ」と綾は自虐的に言った。
「心を軽んじる必要はないよ」と僕は言った。
「君の感情は、君にしかない特別なものなんだ。きっと『たかが失恋したくらい』だけじゃない苦しみがあったんでしょう? そんな辛い思いをした自分を大切にしてほしい」
「自分を、大切に」と綾は繰り返した。
それから僕たちは、何を話すでもなく微笑み合った。途中で小さな公園を通りかかり、咲き始めた椿を眺めた。ジャックは楽しそうに公園の匂いを嗅いで回った。
綾の家に帰ると、交代でシャワーを浴びた。先に済ませた彼女は朝食を準備してくれていた。トースト、ウインナーとスクランブルエッグ、コーヒー。お手本のようなワンプレート。
ジャックにも水とドッグフードをあげて、僕たちは仲良く食事をいただいた。その後、一時間かけて綾の荒れた部屋を片付けた。さらに一時間かけて洗濯、掃除機までかけた。
ジャックは散歩と朝食に満足したらしい。犬小屋で寝そべって、こちらを眺めている。掃除は労力を要したが、綾の力になれて嬉しかった。そのおかげで、心地よい疲労に包まれた。
僕たちはソファでテレビをつけ、コーヒーを飲んだ。今は競馬の番組が放送されている。綾は横目で僕の表情をうかがっていた。
「ねえ」
綾は僕の肩にもたれた。
「競馬は好き?」
「どうだろう? 馬の気持ち次第かな」
綾は嬉しそうに笑い、肩に揺れが伝わった。
「あなたのそういうところ、本当に素敵よ」と言って彼女は僕に口づけした。信じられないほど柔らかい唇だった。
「あなたは感情を取り戻してくれた。わたしの世界に色をつけてくれた。でもね、希望を持ってしまったからこそ、再び絶望することになった。何もかも、あなたのせいよ。そうでしょう?」と綾は冷淡に言った。
僕は目を見開き、ゆっくりと彼女の方を向いた。
「だから、責任取って。わたしを幸せにしてよ」
僕は頷き、綾の体を抱き寄せた。羽毛布団のように柔らかく、温かかった。僕たちは愛を与え合い、飽きるほど口づけした。
『この瞬間に人生が終わってもいい』とすら思った。
こうして僕は、正式に綾と交際することになる。本当に長い道のりだった。二十歳で初めて彼女ができたわけだが、恥ずかしいという感情はない。なぜなら、僕が付き合っているのは世界一素敵な女性だからだ。
◇ ◇ ◇
三月下旬に春が訪れた。ツバメは家族を養うために飛び回っている。僕は大学三年生になり、綾は二度目の二年生をやることになった。
ある週末の夜。僕たちはいつも通り、一緒にジャックの散歩をした。その頃には、すっかりリードの持ち方にも慣れていた。
「ねえ、リハビリを手伝ってよ」と綾は突然言った。
「構わないよ」と僕は答えたが、リハビリの意味は分からなかった。
彼女の不思議な発言について、僕はあえて訊かず、想像の余地を楽しむことにしている。
散歩の帰り道、綾はコンビニへ寄った。僕は外で待ちながら、ジャックと触れ合う。彼が僕に対してもお手やお座りをしてくれるのは嬉しかった。
綾は五分ほどで戻ってきた。袋には酒とお菓子。それから僕たちは家に帰り、仲良く一緒にシャワーを浴びた。アニメを観ながら夕食を済ませると、綾はコンビニの袋を持って、僕を外に連れ出した。