二話「ふたりきりの放課後」
昼休みには、人間の話し声が耳を突き刺す。まるで工事現場のドリル音だ。僕は席を立ち、図書室に向かう。いつものルーティンである。
突然、「あっ!」という女子の無邪気な声が聞こえ、僕は思わず顔を上げた。そこには美しい少女――綾が立っていた。彼女は温かく微笑み、こちらに小さく手を振った。
「さっきはありがとう」
その声は僕の心を優しく解きほぐした。彼女の輝きは、周りの景色まで彩っている。
「いや、構わないよ」
僕は目を逸らした。『さっきは驚かせてごめん』という言葉は口から出なかった。
「あのさ」と綾は小声で言った。
「数学を教えてくれない?」
僕はしばらくその場に立ち尽くした。
「ダメ……かな?」
綾は自信なさげに首をかしげている。
「あ、うん。僕――で、よければ」と変なリズムで返事をした。
戸惑う僕を見て、綾はクスッと微笑した。
「今日の放課後でもいいかしら?」
「構わないよ」
「じゃあ、放課後に教室で!」
綾は機嫌よく手を振り、教室へ向かった。
「楽しみにしてるね」
すれ違う瞬間、花のような香りがした。香水かシャンプーか――あるいは、『綾の内から出るフェロモン』と言われても納得できる。こんなことを考えるのは気持ち悪いだろうか?
綾の艷やかな黒髪が揺れ、僕はその後ろ姿に見惚れた。そういえば、先ほど綾は『楽しみにしてるね』と言ったのだろうか? まあ、聞き間違いだろう。
もちろん、その後の授業も頭に入らない。五限の国語も、六限の生物も、僕は無視して数学の復習をした。初めての内職だ。ワクワクはじきに薄れ、嫌われたくないというプレッシャーに塗り替えられた。
体は熱を上げ、汗を出している。緊張を感じたことで、ノルアドレナリンが分泌され、交感神経が優位になっている。ちょうど生物で習ったから知っているのだ。
いつまで経っても、心の準備はできなかった。そんな僕のことはお構いなしに、時は進む。六時間目、掃除、すぐにホームルームが終わってしまった。まるで時計を手で回されているようだ。
いよいよ長針が12を指し、短針が5を指した時――
キーンコーンカーンコーン
放課のチャイムが規則正しく鳴り響いた。クラスメイトは、ぞろぞろと教室を出ていく。こうして僕たちの放課後が幕を開けた。
教室から人の気配がなくなった頃、恐る恐る斜め後ろを振り返った。綾は僕に気づき、小さく手を振った。目にしわを寄せて、無邪気に微笑んでいる。
彼女は席を立つと、半袖の白いブラウスと黒のスカートを整え、首元でワインレッドのリボンを調整した。そして勉強道具を大事そうに抱え、僕の前にやって来た。セミロングの黒髪が揺れている。
「となり、座ってもいいかしら?」
「あ、うん。どうぞ」
綾は机同士をくっつけて、流れるように僕のとなりへ腰を下ろした。彼女の右手の甲にあるホクロまではっきり見える。
七月中旬の猛暑日で、外ではセミが活動を始めていた。
「暑いね……」
綾は横目でちらりと僕の顔を見た。彼女が下敷きで首元を仰ぐと、また花の香りが運ばれた。僕は『今すぐ彼女を抱きしめたい』という欲望に苛まれた。
「もう、そんなに見られたら恥ずかしいじゃない」
綾は赤面していた。僕は慌てて顔を背けて謝罪する。女の子をじろじろ見るなんて最低だ。今度こそ嫌われてしまった。
ところが、綾は意外にも上機嫌で、クスクス笑っていた。普段から、男に見られることに慣れているのだろうか。
「実はね、数学のテストを返された時に、あなたの点数が見えて……」と綾は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。盗み見るつもりはなかったのよ」
「大丈夫だよ、気にしてないから」
綾は丁寧にまとめたノートを広げ、教科書をめくった。僕は勇気を振り絞って、その横顔に声をかけてみる。
「君には苦手なものなんてないと思ってたよ」
「そんなことないわ」
綾は上品に笑った。
「わたしって暗記は得意だけど、数学とかは苦手なのよ」
彼女にも不完全な部分はあるらしい。
「あとは、朝起きることとか、虫とか、お化け屋敷も苦手よ」と彼女は続けた。そういうところも含めて、やはり綾は完璧すぎる女の子だと思う。不完全な部分も含めて完全なのだ。
「君は先生からもよく褒められてるから、勉強は何でもできると思ってたよ」
「まあ、定期テストなら問題ないけどね。それに――」
綾は手のひらを見つめた。
「わたしって顔が可愛いでしょう? それにスタイルも良くて、真面目で、優しくて。だからさ、それっぽく振舞っておけば、みんな騙されるのよ。わたしのことなんて何も知らないくせにさ。人間なんて大嫌い。消えちゃえばいいのよ」
――――僕は呼吸が止まりそうになった。あの天真爛漫な綾がそんなことを言うなんて、思いもしなかったからだ。いつもの彼女が天使なだけに、今の形相は悪魔のようだった。
彼女はようやく自分の発言に気づいたらしく、絵に描いたように慌て始めた。
「あ、あの、えっと……ごめんなさい」
綾は目を泳がせて、唇をしきりに触っている。
「い、今のは、その……聞かなかったことに……してくれない?」
綾は両手で顔を抑え、深くため息をついた。ひとりごとを言っているが、内容はわからない。僕は彼女を刺激しないように、冷静な態度を心がけた。
「大丈夫だよ、何も聞いてないから」
「本当にごめんなさい……」
綾はまた大きく息を吐き出した。その姿はとても人間らしく、不思議と今までより魅力的に思えた。『今すぐ綾を抱きしめたい』という衝動が再び湧き上がった。唇を奪いたいとも思った。
塞ぎ込んだ教室とは不釣り合いに、野球部の活発なかけ声が学校中に響いた。
「えっと……勉強は、どうしようか?」と僕は言った。空気の読めない発言だが、沈黙に耐えきれなかったのだ。
「そうだったわ!」と綾は無理に明るく答えると、水を飲んで髪を整えた。
「そろそろ始めましょう?」
こうして、僕の個別指導が始まった。