十九話「不完全な心」
僕たちは十分ほど川岸を歩いた後、緑に囲まれた中央公園に入った。他にも犬の散歩をする人が何組かいて、僕らもその風景の一部だった。
「あっ……」
綾は挙動不審に周りを見た。
「どうしよう……」
彼女は正面から歩いてくる同級生の女子に気づいたらしい。およそ二十メートルの距離。女の子は綾に気づき、手を振りながらやってきた。スーパーの帰りだろうか。綾は咄嗟に僕の手を離した。仕方ないとはいえ、とても寂しかった。
「綾ちゃん、元気?」
同級生は綾の腕に優しく触れた。ほんわかした雰囲気で、人に好かれそうな女の子だ。
「学校に来ないから、みんな心配してたよ」
「あっ、うん。ごめんね」
綾は苦笑して、ちらりと僕の顔色をうかがった。
女の子はすれ違いざまに、僕の顔を確認した。まるで品定めでもするように。僕はとりあえず軽く会釈した。
「大学を休んでたんだね」と僕が言うと、綾は気まずそうに頷いた。
沈黙の間を埋めるように、ヒヨドリが高い鳴き声を公園に響かせた。
「座って何か飲まない?」
綾は自動販売機を指さした。高校時代のデートを思い出す、懐かしいシチュエーションだ。
僕は缶のホットコーヒーを、綾はカフェオレを購入し、近くのベンチに腰を下ろす。彼女はリードを手すりに結び、ジャックを膝に抱えてコートで包みこんだ。綾の犬になりたい。
「愛想笑いも下手になった」と綾は呟いた。
「昔はもっと上手に〈綾〉を演じられたのに」
彼女は小鳥が飛び交う枯れ木を見上げていた。
「僕たちは自己認識が強すぎる」と僕は言った。
「だから人の目を気にして、生きづらくなるんだ」
綾は澄んだ瞳で僕を見つめていた。
「でもさ、愛想笑いが下手になったのは、自分の心と向き合えたからかもしれないね」と僕は言った。
「愛想笑いをする必要がなくなったのかも」
綾はゆっくりと何度か頷いた。
「確かに、あの男の前では心から笑えてた気がするわ」
綾が『あの男』なんて言い方をするのは、聞いていて不愉快だった。しかし、それほど彼女は傷ついたのだろう。
「ねえ、元カレとの別れ話なんて聞きたくないわよね」
「いや、構わないよ」と僕はすぐに答えた。
本当は元カレの話なんて一文字も聞きたくない。けれど、綾との関係を維持するためには聞くべきだと思った。結局は自分のためだ。
綾はカフェオレを飲み、深呼吸してから話し始めた。
「放課後の教室で、わたしが泣いたのを覚えてる?」
「覚えてるよ」
「わたしはあの時、あなたのおかげで感情を取り戻したのよ」と綾は言った。
「だから泣いたの。そうして何年も止まっていた感情が動き出したから、わたしの体は耐えられなかったのよ。39℃の熱を出して、生まれて初めて学校を休んだわ」
綾はカフェオレを一口飲み、ジャックの毛並みをなぞった。
「ずっと前から、あなたと一緒になりたいと思ってた。でも、人を好きになるのが初めてだから、わたしは混乱していたし、自分の気持ちを人に話したことなんて無かったから。もっと早く想いを伝えればよかった、と今では後悔してるわ」
それは僕も同じだった。何度も綾に『好きだ』と伝えようとした。しかし、僕の喉は少しも震えなかったのだ。僕はそっと綾の手を握った。氷のように冷えきった掌でも、重ねれば心が温かくなった。
「大学に入ると、わたしの感情は体に馴染んでいった」と綾は続けた。
「新しい環境で、色んなものに触れた。世界はそこまで悪くないと思い始めたの。そうして、空っぽだったわたしの心に、段々と色がついてきた」
綾は繋いだ手を強く握りなおした。
「わたしは、大学の先輩と付き合い始めたの」と綾は無感情に言った。
「彼は同じ福祉科の人でね、優しい人だったわ。ハンサムで、知的で、わたしによく尽くしてくれた。わたしも彼に尽くした。これが幸せというものだと思ったわ」
綾は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
「数か月が経って、ふたりの関係も落ち着いた頃、わたしは彼に同棲を提案してみた。いつもはハッキリと答える彼が、その時だけは言葉を濁したの。不安になったけど、追求はしなかった。わたしはいい子だから。
付き合って一年が経った頃、わたしが夜の大学で校舎を歩いてると、通りかかった教室から彼の声が聞こえたの。なにげなく廊下から教室を覗いてみると、そこで、彼と先輩の女がキ――」
綾は唇に手の甲を当てると、慌てて僕から顔を背けた。僕はコーヒーを飲んで動揺をごまかす。ジャックは綾の膝から降りて、ベンチの周りを探索し始めた。
「わたしは絶望した」
綾は公園で遊ぶ家族を見つめた。
「簡単に言うと、彼には本命の女が別にいて、わたしは遊び相手だったのよ。体目当てってわけ」
綾は皮肉っぽく笑った。
「人間が醜い生き物だってことくらい、十年前から知ってたのに。きっと、恋がわたしを盲目にさせたんだわ。はじめから人に心を開かなければ、傷つかずに済んだのにね」綾はまたニヒルに笑った。
「涙は出なかった。わたしは家に帰ると、彼にメッセージを送って別れを告げた。彼から返事はなかった。わたしも彼に復讐しようとかは考えなかった。だって、はじめから世界とはこういうものだから。腹を立てる必要はないわ。
だいいち、人間が幸せを追い求めるのは自然なことでしょう? わたしは彼という一人の男を求めたけれど、彼は多くの女を求めた。それだけの違い。誰も悪いことなんてしてないじゃないのよ」
僕は黙って綾の話を聞いた。今の彼女には、話すことで頭を整理する時間が必要なのだ。