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十七話「女の子」

 あやは丸いふちのメガネをかけている。その姿を見るのは初めてだが、この僕がメガネの有無だけで彼女の顔を判別できなくなるだろうか?

 いや、これはおそらく、綾の『輝き』が失われたせいだろう。自慢の大きな目はうつろで、やつれた表情。華奢きゃしゃな体にシワのついた白いトレーナーを着て、黒のスウェットを履いている。


「散らかってるけど、入って」と綾はささやき、ふらふらと廊下を進んでいった。


『散らかってるけど』は日本人的な謙遜だと思ったが、部屋は()()()散らかっていた。台所には溜まった食器や酒の缶。ゴミ袋にはカップ麺の容器やスナック菓子の袋ばかり。僕は思わず目をそらした。これが綾の部屋だという現実からも目を背けた。


 リビングの床には物が散乱している。足の踏み場がない。部屋の隅には、同窓会で着ていたドレス、ネックレス、バッグが放置されている。まるで用済みと言わんばかりに。

 僕はいつの間にか、『女の子の家に入っている』という()()()()を忘れていた。今あるのは、不快感と綾への同情だ。


 不意に、奥の部屋から「ガサガサ」という音が聞こえた。僕は反射的に音の方を振り向いた。奥から出てきたのは、一頭の柴犬だった。素朴な顔で、ふさふさの赤毛で、立ち耳で――――いや、よく見ると、これは柴犬ではない。まず、尻尾が垂れている。それに不自然なほど耳が大きく、体も細い。『ウサギの耳がついたキツネ』という印象を受けた。

 その犬的な動物は僕に警戒しながら、眠そうに綾の足へ寄りかかった。


「ごめんなさい、起こしちゃったわね」と綾は優しく語りかけ、胸に抱き上げた。


「犬を飼ってたんだね」と僕は犬の可能性に賭けて言った。


「そういえば、あなたに言ってなかったわね」と綾は言った。

「この子は元野良犬の雑種で、名前はジャック。初めて見た時に、ジャッカルみたいだと思ったからよ」

 綾はジャックの鋭角な耳を、指でピンと弾いた。


「どうりで、知らない犬種だと思ったんだ」と僕は言った。


「母の動物保護団体から引き取ったのよ。高齢で里親が見つからなかったらしくてね。わたしは一人暮らしでペットを飼うのに反対だったんだけど、母と話し合って。狭いケージの中で最期を迎えるよりは、いいと思ったから」


 綾はソファの衣類を押しのけて床に落とすと、ジャックをひざに抱えて座った。

「ほら、あなたも座って」


 僕に猫の匂いが付いているのだろうか。ジャックはやたらと僕の匂いを嗅ぎ、また綾の腕に戻って休んだ。


「ねえ、ビールでも飲む?」と綾は思い出したように言った。


「じゃあ、いただこうかな」


 綾はジャックを僕の膝に乗せると、ゆっくりと立ち上がって台所に向かった。ジャックは驚いたが、少しずつ警戒を解き始めたようだ。

 彼女は冷蔵庫から缶ビールを2缶持ってくると、1つを僕に手渡し、ジャックと交換した。


「あ、乾杯しなきゃね」

 綾は作り笑いした。その表情を見るたびに胸が潰れそうなる。

 缶ビールのフタを開けると、プシュッという音と匂いに反応したジャックが、綾の腕から身を乗り出し、くんくんと鼻を近づけた。


「こらこら」

 綾はジャックを抱えたまま立ち上がり、奥の部屋に運ぶ。灰色の犬小屋に寝かせ、穏やかな表情でブランケットをかけた。

「そろそろ寝る時間よ」


 綾は脱走防止のゲートを閉め、「お待たせ」と言いながら隣に戻ってきた。そして僕らは乾杯した。彼女は勢いよくビールを流し込む。それから缶をテーブルに置くと、大きくため息をついた。

「わたしに幻滅したでしょう?」


「そんなことないよ」と僕は言った。それは嘘じゃない。僕が抱いたのは、幻滅ではなく心配だ。


「彼とは別れたの」

 やけに清々しい言い方だが、それはつくろった明るさだろう。


「そうなんだ」


 重い沈黙。となりの部屋で眠るジャックの寝息が聞こえるほどだった。


「大学はどう?」と綾は僕にいた。


「まあ、普通かな」


「心理学部って、女子の方が多いの?」


「うん。僕の学科では、八割くらいが女の子だね」と僕は言った。

「肩身は狭いけど、もう慣れてきたよ」


「ふーん。そうなんだ」と綾は少し不満そうに言った。

「あなたと同じ大学に行けばよかったわ」


 綾は髪を両手で払い、肩の後ろにやった。風に乗ってくるベリーの香り。


「その……彼女はいるの?」

 それは男に余計な期待をさせる、不器用な言い方だった。


「いないよ」

 僕は綾の顔を横目で見た。


 今、僕が何かを言えば、関係が進展するのだろうか? そんなことを()()()()考えていた矢先――綾はそっと手を重ねてきた。

 僕は彼女の小さな手を温めるように、優しく握り返した。綾のほおは微かに赤らんでいる。それが酒のせいなのか、照れなのかは分からない。


「こうしていると、あの日を思い出すわね」と綾はしみじみ言った。


 確かに、綾と手を繋ぐという行為は、高校のデートの日と同じだ。しかし、僕の心境は丸っきり違っていた。

 綾は力が抜けたように、頭を僕の肩にもたれた。酔いが回ってきたようだ。


『僕は今、好きな女の子と、部屋にふたりきりで密着している』

 その幸せを頭に強く焼きつけた。


 綾は仮に酔っていなくても、こういうスキンシップをしてくれたのだろうか? 酒で判断能力が鈍り、寂しさを埋めるために、僕で妥協しただけだろうか?


 そんなことを考えていると、綾の柔らかい温もりが二の腕に伝った。それは、紛れもない女性の体だった。いつの間にか、綾への心配なんて()()()()()()()は僕の頭から吹き飛んでいた。


 このまま、綾と――――





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