十六話「人間のエゴ」
僕は例の犬猫アカウントをフォローするつもりだったが、結果的にはブロックという真逆の行動に至った。幼稚な八つ当たり。僕は幸せな男女を祝福できるほど大人ではないのだ。
スマホを閉じて路線図を見に行った。あと五駅で、ようやく綾の最寄りに着くらしい。
ドアの横で、大きな競馬の広告が僕の足を止めた。ジョッキーが馬にまたがる写真の上に、『夢を乗せて、駆け抜けろ』と書かれていた。
はたして、競走馬は夢のために走っているのだろうか? それとも、単純に走るのが楽しいからか。はたまた、ムチで叩かれて痛いからか。結局は、何もかも人間のエゴで――僕は首を振った。今日は、とことん考えごとに向かない。
僕は座席に戻り、外の真っ暗な景色を見つめた。ガラスに映った自分は哀しそうな顔をしている。
殺処分の被害者は、言うまでもなく動物たちだ。にも関わらず、僕はまるで自分が被害者かのように、ただ現状を嘆くだけじゃないか。何か行動を起こしたのか? 人間である以上、僕も動物への加害者なのに。
僕はインスタグラムを開き、両親の猫カフェのアカウントに移動した。
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当店の猫スタッフは、働きながら新しい家族を探しています!
私たちは『殺処分ゼロ』を本気で目指しています。そのために、力を貸してください。ご来店していただくだけでも、その売上が彼らの命を救うことに繋がります。
寄付や譲渡の希望など、詳しくはホームページをご覧ください。
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何度もこの文章を読んできたのに、見て見ぬふりをしていた。それはきっと、殺処分のことを考えると僕が辛いからだろう。そうして僕は猫たちを見捨てたんだ。
僕はリンクから動物愛護団体のホームページに飛び、そのまま毎月千円の寄付を登録した。
振り返ってみると、今寄付をした僕の心には『動物を助けたい』という純粋な思いと、『自尊心を満たしたい』という汚れた欲求があった。僕がやったのは動物愛護ではなく、自己愛護なのだろうか。
こんな醜い僕のことを、綾は受け入れてくれるだろうか? いや、きっと僕は嫌われる。それでも、僕の心は今この瞬間、彼女の胸に抱かれたいと渇望した。
そう考えるうちに、一度は止まった涙が流れ始めた。まるで雨漏りのように。僕はハンカチで目を押さえ、ゆっくりと深呼吸した。それは家の猫カフェで販売しているハンカチだ。白い布の隅に、小さな黒猫が座っている。
女性の車掌が次の停車駅をアナウンスした。声優の沢城みゆきかと思うほど、エレガントな話し方だった。綾の家まで、あと二駅。
『彼女はどんな風に僕を待っているのだろう?』と想像してみた。部屋は清楚なレイアウトで、素敵な香りがするのだろうか――
いや待て。綾の家に入る前提だったが、そうとは限らないじゃないか。家で待ち合わせて、どこかに移動するのかもしれない。彼女と二人きりの部屋で過ごせるなんて、思い上がりもいいところだ。
ついに、綾の最寄り駅に着いた。僕は電車を降りて、ホームのアスファルトに足をつける。冷たい風が僕の頭を覚ます。
周りを見渡すと、僕と同じ年くらいの青年も一緒に電車を降りている。いわゆる陽キャだろう。この駅で降りるということは、あいつも綾と同じ大学なのだろうか。もしかして、綾の彼氏かもしれない。僕は余計な想像をして、勝手に彼を妬んだ。
その好青年は改札を出ると、だるそうに歩いて駅の南口に向かった。そちらは大学生のために作られたような施設が並び、夜の街を彩っている。一方で、反対の北口にはバス停すらない。あるのは住宅街や寂れた商店街だけだ。僕は地図アプリで綾の家を調べ、北口から駅を出た。
駅を背にして歩いていくと、田んぼが視界に入った。暗くてよく見えないが、収穫後の冬なので淋しい風景だろう。
この町で綾と散歩する様子を想像してみた。僕が思い描く彼女は、どこか遠くを見つめている。完璧なようで、今にも崩れてしまいそうな美しい笑顔だった。
三階建てのアパート。ここが目的地らしい。オフホワイトの外壁で、足元には雑草が放置されている。僕は覚悟を決めて、階段に足を踏み入れた。『一段登るたび、綾に近づく』という事実に興奮を覚えた。
綾に言われた303号室。僕は高ぶった気持ちを落ち着けるため、ドアに背を向けて外の世界を眺めた。夜の高速道路では、大型トラックが快適そうに走り抜けている。
僕は振り返り、震える手でインターホンのボタンを押した。優しい足音が近づき、ドアが解錠された。中からドアロック越しに覗く顔が見えたとき、僕は「あっ!」と声を上げた。なんと、そこにいたのは知らない女性だったのだ。僕は間違いを詫びようとしたが、その前にドアは閉められた。『不審者が来た』と警察を呼ばれるかもしれない。
ドアロックが外され、今度は完全にドアが開いた。僕が謝ろうとした瞬間、目の前の女性は「急にごめんなさい」と小声で呟いた。それはさっき電話で聞いた、あの無感情な声。僕が知らない人だと勘違いしたこの女性は、綾だったのだ。