十五話「土曜日の夜」
「もしもし」
その微かな声は耳から全身へと駆け回り、綾との幸せな日々が走馬灯のように蘇った。どれも忘れてはいけない特別な記憶だ。
僕はどれくらいの間、沈黙していただろう? しばらく経ってから、「バイト中だったんだ」と慌てて弁解した。
「そっか」と綾は囁いた。
「たくさん電話をかけて、ごめんなさい」
先ほどは興奮で気がつかなかったが、彼女の声は無機質だった。まるで音声読み上げソフトのように。
「構わないよ」と僕が答えると、無音の時間が訪れた。
僕は彼女の言葉を待った。公園の木々は淋しく葉が散り、小鳥も寝床には選ばなさそうだ。
「会いたい」と綾は突然言った。とてもストレートな言い方だった。自分の心臓がドクンと鳴る音が耳で聞こえる。
「うん。い、いつにしようか」
僕はどぎまぎした。
「今から」
「今から?」と僕は訊き返した。
「九時を過ぎてるけど、大丈夫?」
「今から会いたいの」
「わかったよ」
僕は彼女に圧倒された。
「どこで会おうか」
綾は少しの間、口ごもった。
「わたしの家でもいい?」
わたしの家――それはつまり綾の家、女の子の家、好きな人の家。
「構わないよ」と僕は平気を装って答えた。
「わがまま言って、ごめんなさい」と綾は言った。
「それじゃあ、住所を送るね」
こうして、初めての通話は瞬く間に終わった。僕は勢いよく自転車をこぎ、最寄り駅に向かう。さっきの黒猫は路地裏を優雅に歩いていた。
通行人は肩をすくめ、暖かい場所へと早足で移動している。そんな中、僕だけは寒さを感じなかった。
はっきり言って、僕は今、男としてやましい気持ちが湧いている。好きな女の子の家に行くのだから、仕方ないことだ。
一方で、綾の冷たい声を聞いた瞬間、胸が締めつけられたのも事実だ。そんな風に、僕の中で純と不純の動機が同時に存在していた。
毎日利用する駅なのに、なぜか今日だけは明るく感じられる。構内アナウンスやベルの音は僕を歓迎した。次の電車まで十五分ある。自動販売機でホットレモンを買い、ベンチに座って味わった。
土曜日の夜遅くで、ホームには飲み会終わりの人で溢れている。代わり映えしない風景の中で、僕だけがいつも通りではない。僕が人生最大の冒険をしているなんて、誰も知らないのだ。僕はそんなことを考えながら、電車に足を踏み入れた。
僕は隅の座席に腰を下ろした。冬のシートはとても温かい。あまりの緊張に、電車での過ごし方がわからなくなった。とりあえず、周りの乗客にならってスマホを触ろう。
何気なくインスタグラムを開く。両親の猫カフェが写真を投稿していた。毎日見る店だが、その中にいた黒猫〈あずき〉が僕の目にとまった。
昔から僕は、黒猫やカラスのように真っ黒な動物を見ると、闇に引きずり込まれる感覚になる。彼らはきっと、僕たちの中にある邪気を引きはがしてくれるのだ。
続けて画面をスクロールする。
アメリカンショートヘアの猫が、ルンバに乗って移動する面白映像が流れてきた。その異様な光景に、思わずクスッと声を出して笑った。僕はひどく恥ずかしくなったが、心配には及ばないようだ。近くに乗客はいない。
そのルンバは、一緒に飼っているサモエドの毛を片付けるために買ったらしい。それが皮肉にも、犬たちの遊び道具になってしまった。犬はルンバをひっくり返しておきながら、サモエドスマイルを披露して、飼い主は怒るに怒れないようだ。
僕はこのアカウントのプロフィール画面に移動した。若い夫婦らしい。男と女、猫と犬――そこに僕と綾を重ねずにはいられなかった。僕も綾と結婚すれば、この夫婦みたいになれるのだろうか。
そもそも、人はなぜ結婚するのだろう?
一緒に暮らすのは、結婚しなくてもできることだ。
他には節税や資産の相続、家事や育児など面倒なことの押し付け、性的な関係の確保――僕は首を振った。こんな歪んだ考え方だから、友達も恋人もできないのだ。
僕はため息をついた。
恋人といえば、綾には彼氏がいるじゃないか。それなのに、今さら彼女と会うことに何の意味があるのだ?
僕はこのままどこか遠くへ行ってしまおうか、あるいは折り返して家に帰ろうかと考えた。しかし、どちらの勇気もなかった。