十二話「それぞれの船出」
大学が始まるまで一か月あるが、必要なもの――通学定期、リュック、スーツなど――を買ってもらうと、他にすることはなくなった。
暇になると綾のことを考えてしまうので、僕は運動をして気を紛らわせた。公園や家の猫を愛でることも欠かさない。
四月になり、桜が早めのピークを過ぎた頃、大学生活が始まった。一年生は臨床心理学や一般教養、英語や社会福祉学など、おおよそ決められた講義を受けるらしい。
『社会福祉』
綾は今頃どうしているだろう?
きっとあの子は、大学でも同級生から周りを囲まれ、『みんなのアイドル』をしていることだろう。そんな姿は容易に想像できる。
ある日、児童心理学の講義にて。五十代くらいの女性教授が、こんなことを言っていた。
「赤ん坊は白紙の状態ですので、何色にも染まってしまいます。よって、子どもの頃に受けた心の傷というのは、大人になってもなかなか癒えないのです」
僕や綾のことだと思った。我々は大学で勉強するまでもなく、身を持ってそれを知っていたのだ。僕たちの傷は癒えているだろうか?
講義室には百人ほどの大学生がいる。皆それぞれ、新しい生活に胸を躍らせているように見えた。
しかし、この中にも、色のない世界で生きている人がいるかもしれない。高校のクラスに僕と綾がいたのだから、百人の講義室にもっといても不思議ではない。
『日本人はおよそ五人に一人が、生涯のうちに精神疾患を発症する』と精神医学の講義でも言っていた。自分が苦しいからこそ、理由が知りたくて心理学を選んだ人もいるだろう。僕もその一人だ。
大学に入ってからも、僕と綾はたまに連絡を交わした。内容は学校のことや近所の公園など、他愛もない話題である。僕は猫の写真を送ったりした。
正直なところ、『綾とメッセージのやり取りなんてしたくない』と思う自分もいる。地獄で暗い天井を見上げるような虚しさを感じるからだ。まったく、心というのは厄介だ。だからこそ勉強しがいがあるけれど。
綾は塾講師のアルバイトを始めたらしい。美人で優しい、一番人気の先生になっていることだろう。
僕の方は、近所のスーパーでアルバイトを始めた。いつ潰れてもおかしくない寂れた店なので、暇な時間は多いが、僕にはちょうどいい。たまに母が冷やかしも兼ねて買い物に来た。
それから、家の猫カフェも手伝っている。父が給料だと言って小遣いを渡そうとするが、僕は断った。
「学費も出してもらってるんだから、給料はいらないよ」
「一丁前なことを言うようになったな」と父は嬉しそうに言って、拳で僕の肩を軽く叩いた。
父は物腰が柔らかく、人に好かれるタイプだ。無地のTシャツを着て、ジーンズとスニーカーを履くというシンプルな服装を好んでいる。
「でも、保護猫カフェって、あまり儲からないんじゃない?」と僕は申し訳なく言った。
「それなのに、奨学金なしで大学にまで行かせてもらって」
「確かに、店の売り上げだけでは、そこまでの利益にはならないね」
父は猫用のブラシを、手でくるくると回した。
「郊外のしがない猫カフェな上に、里親探しもやってるから、営業時間を短縮してるし。まあでも、副業をやってるから大丈夫だ」
「何をやってるの?」と僕は訊いた。
「よくわからん」
「え?」
「そっちは絵里香さん……いや母さんがやってるからな」
父は店の奥に顔を向けた。そこでは、母がオフィスチェアーに姿勢よく腰かけていた。モモという名前のキジトラ猫をひざに乗せ、ノートパソコンで作業している。
「何をやってるの?」と僕は母の近くに行って尋ねた。
「動画編集よ」
母は手を休め、気持ちよさそうに伸びをした。
「それが副業なの?」
「そうよ。うちの猫カフェの様子を、YouTubeに上げるの」
「YouTubeって、趣味で動画を投稿するサイトでしょう? あんなのでお金が稼げるの?」と僕は言った。
「確かに、そういうイメージがあったけど、頑張れば仕事にできるのよ。広告収益とか、商品紹介のアフィリエイトとかね」
「そうなんだ」と僕は相槌を打ったが、あまり理解できなかった。父の気持ちがよくわかった。
「そうだ。ちょうど今、オーガニックキャットフードの企業案件が来てるから、暇なら撮影を手伝ってちょうだいよ」
僕はとりあえず了承した。
撮影の手伝いと言っても、僕の役目は映像を見張るだけだった。全世界に流れる動画で顔を出せる両親はすごいと思う。彼らにとっては、店で顔を出すのと同じという認識らしい。
僕はネットを信用できずに心配しているが、母は「これからはYouTubeとSNSの時代よ」と自信ありげに言っていた。僕はとりあえずチャンネル登録をした。
うちは裕福な家庭ではないが、両親が大切にしているのは『愛』『心の豊かさ』『信念』のような目には見えない価値であり、お金はそのための手段に過ぎないようだ。僕もその考えには納得できる。
僕と綾は新生活に慣れると話題もなくなり、メッセージの頻度が減っていった。大学は二か月も夏休みがあり、僕は暇を持て余した。
ある日、久しぶりに綾からメッセージが届いた。
綾『元気にしてるかしら?』
『元気だよ。君は?』
綾『わたしも元気よ』
『そっか、それはよかった』
綾『あのさ』
『どうしたの?』
綾『実はね、彼氏ができたの』