十話「未来の選択」
十一月には、ゆるやかに紅葉が始まった。通学路では踏まれた銀杏が異臭を放っている。この間まで香っていた金木犀が恋しくて堪らない。
ある日の朝、登校してすぐに廊下で綾とはち合わせた。僕は不意のできごとに驚き、石像のように固まる。
「おはよう」と綾は天真爛漫な笑顔で言った。
「今日の放課後、一緒に帰りましょう?」
「そうしようか」
僕は周りの目を気にしたが、この会話は誰にも聞かれていない。
綾と下校するのは、およそ二か月ぶりだ。僕は授業を受けながら、彼女に何の話をしようかと考えてみた。しかし、どれも頭の中で却下される。そして気がつけば放課後に。
学校のマドンナとふたりで歩いていると、もちろん同級生から冷やかされることがある。しかし、僕と綾はそんな面倒にも慣れて、当たり障りなく受け流す力を身につけていた。
校門を出てすぐに、ゴールデンレトリバーの散歩をするおばさんと遭遇した。
「可愛いですね!」
綾は目を輝かせ、気さくに声をかけた。
おばさんは「どうも」と言って上品に微笑み、会釈した。
すれ違う瞬間、僕たちは歩調を緩める。すると、ゴールデンレトリバーは突然こちらに興味を示し、勢いよく尻尾を振りながら、綾の足元に寄ってきた。
綾は喜んでしゃがみ、そっと手を差し出す。犬は鼻をヒクヒクさせて、彼女の手や制服の匂いを嗅ぎ始めた。僕は犬に嫉妬した。
「ちょっと、やめてったら!」と綾は満更でもなさそうに言った。
「わたしも家で犬を飼ってるので、その匂いが付いてたのかもしれませんね」
「あら、そうなの?」とおばさんは嬉しそうに言った。
「はい! みんな雑種の大型犬です!」
犬と別れて歩き始めると、綾は思い出したように僕の方を向いた。
「そういえばあなた、進路は決まったの?」
「まあ、一応ね」と僕は答えた。
「心理学部のある大学を目指すよ。二駅となりの」
「へぇ〜」と彼女は感心した。
「どうして心理学なの?」
「なんとなくだよ」
「心理学って、あなたらしいわね」と綾は言った。
「カウンセラーになるの?」
「まあ、それは先になってみないと分からないよ」
「そっか」
彼女は微笑み、足元を見た。
「わたしはね、大学で社会福祉を専攻しようと思うの」
「どうして社会福祉なの?」
「〝なんとなくよ〟」
「ケースワーカーとかになるの?」
「〝まあ、それは先になってみないと分からないわ〟」
からかうように綾が僕の真似をすると、目を合わせて一緒に笑った。その瞬間、淡いデートの記憶がよみがえり、胸が熱くなる。頬への口づけが一番に思い出され、僕は思わず彼女の唇を見た。
ふさぎ込んでいた僕も、綾と出会ってからは心を動かされてばかりだ。最近はもう、綾と男女の関係になりたいとは思わなくなってきた。いや、正確には、『なれないのだから仕方ない』と割り切ることを覚えた。いくじなしだから、そうするしかないのだ。
僕が目指す大学は二つとなりの駅なので、実家から通学する。綾の方は十二個離れているので、そちらに住む予定らしい。
「一人暮らしなら、色々と気をつけてね」と僕は言った。
「ありがとう。でも、受かったらの話よ」
綾は小さく笑った。
「わたしのことを心配してくれてるのね」
「まあ、それはね」
「ありがとう」と綾は言って、僕の頬をつついた。こんなやり取りも、なんだか懐かしい。
「でも、わたしに何かあったら、あなたが助けに来てくれるんでしょう?」
綾はいたずらっぽく笑い、僕の顔を覗き込んだ。彼女はまたそんなことを言って、諦めかけた僕の心を揺さぶるのだ。
「それは、もちろん……助けに行くよ」
自分で言って顔が熱くなった。
「十二個も離れた駅だから、少し時間はかかるけど」
「そんな細かいところはいいのよ」
綾はクスッと笑った。
僕たちは受験の対策に集中し、一緒に帰ることはなくなった。彼女と廊下で会った時には、お互いの進捗について語り合った。情けないことに、僕は心から綾を応援することはできない。ふたりの目標が叶えば、離れ離れになるからだ。
◇ ◇ ◇
雪がちらほらと降る二月。僕は学校で言われた通りの対策はしてきたし、あとは本番を迎えるだけだ。
受験の前日、綾からメッセージが届いた。
『明日はお互い頑張ろうね』
それは実に七ヶ月ぶりのメッセージで、前回はデートの前日だった。僕はその日のことを思い出したが、受験の前日なので振り払った。
『頑張ろう。君ならきっと大丈夫だよ』と返信して、僕はスマホを閉じた。
受験当日、二つとなりの駅にある大学へ行き、試験会場の講義室に入った。さすがに緊張したが、綾とのデートに比べれば微々たるものだ。
心理学部なので、試験内容は道徳的な小論文のみ。僕は人の気持ちに共感できないが、正しいことを淡々と書き連ねた。
試験時間が終わり、教授が答案用紙を回収すると解散になった。帰りに大学のキャンパスを見渡していると、中庭の陰にある石のベンチで、一匹の野良猫が退屈そうに座っている。僕はその光景を見て、なぜか綾のことを思い出した。
試験の後は、僕も綾もメッセージを送らなかった。僕らは既に卒業しているので、高校に行く必要はない。僕は家の猫カフェを手伝いながら二週間を過ごした。
合格発表の日。十一時に大学のホームページで結果が出される。両親はその一時間前から、店のノートパソコンを開いて待機した。
我が家の猫カフェはすでに営業中だ。両親は大変失礼ながら、上の空で仕事をしている。両親の様子を見ていると、こっちにも緊張が移ってしまう。僕は気を紛らわせるため、たくさん猫をなでた。
いよいよ発表の時間。母は祈るように手を合わせた。そして父が合格発表のページを開くと――――結果は合格だった。
両親は抱き合い、当の本人である僕よりも喜んだ。母の潤んだ瞳は、まるでガラス玉のように輝いていた。騒ぐ両親を見た客は驚き、事情を理解すると祝ってくれた。店の猫たちも両親に驚き、そわそわと歩き回っている。
「あなたが笑ってるのを久しぶりに見たわ」
母は僕の頬をつついた。この癖は綾との共通点だ。
それにしても、僕は久しぶりに笑っていたらしい。
ひとしきり合格を称えられると、僕は結果を報告するため、母校へ向かった。