疑わしきは罰せず①
新たな容疑者の登場に、県警は騒然となった。
真希が林純平殺害の犯人として緊急逮捕され、尋問が続けられることになった。だが、真希の取り調べは遅々として進まなかった。真希が犯行を否認していたからではなく、犯行を覚えていなかったからだ。
「御免なさい。よく覚えていません」
極度の緊張からか、或いは人を殺した罪悪感からか、真希は自らの犯行の記憶を頭から締め出しているようだった。肝心の犯行時のことになると、「覚えていない」と言う証言を繰り返すだけだった。
「一度、専門家に診てもらった方が良いかもしれませんね」
森も頑なに「覚えていない」を繰り返す、真希にお手上げの様子だった。
恵美より先に自宅に戻った純平を、恵美が戻って来たと勘違いした真希が包丁で刺した。そして真希は林家より逃亡、その後、帰宅した恵美が純平を発見した。
そう考えれば辻褄が合う。
森が抱いた最初の疑問、
――何故、純平は帰宅してから自宅の電気を点けなかったのか?
は謎が解けた。計画通りなら、恵美は階段の下で死んでいるはずだった。もし恵美が生きていれば、純平は止めを刺さなければならなかった。そうなると、純平は帰宅時間を誤魔化す必要が生じる。だから、帰宅が周囲にばれないように電気を点けずに部屋に入り、恵美の死を確かめようとしたのだろう。
となると、林家に灯りが灯った六時四十分に、恵美が戻って来たと考えるのが妥当だろう。
真希に刺された後、恵美が帰宅するまで、純平は一人だった。純平は背中を刺されながら救急車を呼んだ。暗闇の中でいきなり襲われた純平は、誰に刺されたのか分からなかった。いや、例え真希に刺されたと分かったとしても、救急隊員に真希の名前を告げる訳には行かなかった。真希の名前を出してしまうと、恵美殺害計画が明るみに出てしまう。
「妻に刺された」としか、純平には言いようがなかった。
何故、恵美の帰宅が遅れたのかという疑惑が残るが、恵美が純平を殺害したのではなさそうだ。後は真希の容疑を固めるだけだった。
「いやあ、すっかりお世話になりました。石川さんたちのお陰です」とタカギーズが揃ってやって来た。
「そんなことないよ。僕らは、たまたま運が良かっただけだよ」と石川が謙遜すると、「運も実力のうちですからね」と隣から森が余計なこと言う。
「取り調べは任せるよ」
最後はタカギーズに花を持たせてやってくれと係長に言われた。野田真希の取り調べはタカギーズが引き継ぐことになった。
ところが、タカギーズが取り調べに当たった途端、真希が当然、「思い出した」と言い出した。唐突に事件の記憶が蘇ったと言うのだ。
――私は純平さんを殺害していない!
真希は犯行を否認した。
「事件のことを思い出したのですね?」
「事件の全てを思い出した訳ではありません。昨晩、悪夢を見てうなされて、夜中に飛び起きました。その時、突然、あの日の光景が脳裏に蘇って来たのです」
真希が思い出したのは、暗闇の中をごそごそと蠢く、人の姿だと言う。林家のリビングは既に暗闇の中に沈んでいたが、たまたま林家の近くの道路を通り過ぎた自動車のヘッドライトがリビングを一瞬、明るく照らした。
真希は床の上を這いまわる男の姿を発見した。
「私は恵美さんと間違えて、純平さんを包丁で刺してしまった。そして、床の上を這いまわる純平さんを見て、その衝撃から、記憶を無くしてしまったのです」
広瀬たち刑事が想像した通りだ。
「やはり、あなたが林さんを刺したのですね?」
高木が念を押すと、真希が答えた。「私が純平さんを刺したことは間違いありません。でも、私が家を出る時、純平さんは生きていました。床を這いまわる姿と共に、純平さんが痛みに耐えて漏らす呻き声がずっと聞こえていました。私が林家を飛び出すまで、純平さんのうめき声がずっと聞こえていたのです。純平さんのうめき声が耳について離れない・・・」
真希は両耳を覆って、激しく顔を振った。
真希が林家を離れた時、純平は生きていたと言う。何を今更だが、真希の証言通り、背中を刺された純平は携帯電話で救急車を呼んでいる。真希が林家を離れた時に、純平が生きていたであろうことは容易に想像できた。
「純平さんを刺しましたが、命を落とす程の傷では無かったはずです」
真希は純平を刺したことは認めたが、殺人に関しては否定した。純平を殺したと言うことを認めたくないという心理が、真希に純平を刺したが、軽傷であったはずだと言う妄想を抱かせたのかもしれない。