聖人君子の仮面を被った男③
明らかに動揺している。真希の反応を見て、畳み込むように森は、「これを見てください」と純平が真希のアパートへと向かう防犯カメラの映像を印刷したものを机の上に広げた。
真希の顔色が変わった。
「林氏があなたのアパートに向かう様子が、こうしてあなたの家の近所の防犯カメラの映像に残っていました。もう一度、お尋ねします。林氏のことをご存じですよね? それもかなり親しい間柄だったはずです」
防犯カメラの映像は、純平が真希のアパートの近所を歩いていたことを証明しているだけで、純平が真希のアパートを訪ねた証拠にはなり得ない。だが、真希はそこまで頭が回らなかったようだ。
「はい・・・」と小さな声で純平との関係を認めた。
「事件の日、林純平氏が殺害された日ですが、あなたは、風邪を引いたという理由で会社を休んでおられます」
「はい・・・」
猫にいたぶられる鼠の状態だ。
「風邪でしたので、ご自宅で寝ていらっしゃった。そうですね?」
「はい・・・」
「変ですね~」森は言葉を切ると、もう一枚、防犯カメラの映像を引き伸ばした写真を机の上に並べて言った。「これはあなたの自宅近所の、先ほどと同じ場所にある防犯カメラの映像です。林さんが殺害された日のものです。これに移っているのはあなたですよね?」
防犯カメラの映像には、自宅へ急ぐ真希の姿がはっきりと映っていた。
森の言葉に顔を上げた真希は、泣き出しそうな表情だった。
「実は・・・」と真希の告白が始まった。
真希の証言によれば、純平とはフィットネス・クラブで知り合い、知り合った時、妻帯者であることを知らなかったと言う。ジム器具の使い方が分からずに困っている時に、隣にいた純平が教えてくれたそうで、それから会うと話をするようになった。
男女の関係となってから、真希は純平が妻帯者であることを知った。
「私を騙したのね!」と涙ながらに純平の不実を詰ったが、後の祭りだ。純平に傾いて行く心を止めようがなかった。
やがて真希の告白は期待を越えて、事件の核心を抉りだして行く。真希は堰を切ったように、問われもしないことまで話し始めた。「私、不倫関係に疲れてしまって、純平さんに、私たち、もう終わりにしましょうと別れ話を切り出しました」
真希に別れ話を切り出された純平は、「妻とは別れるつもりだ。もう少し待ってくれ」と、ありきたりの台詞の代わりに、「妻を事故に見せかけて殺してしまいたい。手伝ってくれないか?」と、とんでもない要求を突き付けてきた。そして、「君も貧乏はしたくないだろう。今、妻が死ねば遺産は僕のものだし、僕は将来、リンケン・グループの社長になる身だ。君は社長夫人だよ」と真希を口説いた。
「あの時、私、どうかしていたんです」
真希は純平の悪魔の囁きに魅入られてしまった。
計画は至ってシンプルなものだった。
純平の妻、恵美は毎週、木曜日の午後に料理教室に通っている。
恵美が外出した後、純平が一旦、自宅に戻って来るので、その手引きで、林家に侵入し、二階にある花瓶置台の下に潜む。防犯システムは更新中で動いていないと言う。
恵美が帰って来て、二階の寝室で着替えた後、出て来たところを階段から突き落とすというものだ。
「それならば出来そうだと思ってしまったのです」
そして、犯行当日、風邪を理由に休みを取った真希は、自宅に戻った純平の手引きで林家へと侵入した。純平に案内され、真希は二階の廊下の花瓶置台の陰に隠れた。
「頼んだぞ!」
純平はそう言い残して、林家を後に会社に戻った。簡素な住宅街の静寂の中で、真希は押しつぶされそうなプレッシャーと戦いながら、恵美が帰宅するのをじっと待ち続けた。
――これから人を殺さなければならない。
と言う緊張感の中、真希は時間が経つのを忘れていた。純平より、「四時前後に恵美は帰宅するはずだ」と聞かされていたが、時計の針はとうに四時を回っていた。真希は恵美の帰宅時間が過ぎていることにも気が付いていなかった。
春の日暮れは早い。陽が傾いたかと思うと、あっという間に辺りは真っ暗になる。カーテンを閉め切った林家は、日暮れよりも早く、暗闇に沈みつつあった。
真希は猛烈な乾きを感じて、我に返った。
(何時だろう?)
部屋の中は既に薄暗くなって来ている。恵美はまだ戻って来ていない。真希はごそごそと花瓶置台の下から這い出すと、辺りを見回して耳を澄ませた。何の物音もしない。
真希は喉の渇きを潤わせたくて、足音を忍ばせながら階段を降りて行った。純平に家の中に招き入れられた時、キッチンを通って二階に登って来た。キッチンで水を一杯飲みたい。日頃、水道水は口にしない。ミネラル・ウォーターがあれば、それを飲みたいと思った。
キッチンにウォーター・サーバーが置いてあった。真希はウォーター・サーバーの水を飲もうと、コップを探した。食器乾燥機の中にあったコップを取り出して、ウォーター・サーバーから水を一杯、二杯と立て続けに飲んだ。
喉が異様に乾いていた。
やっと喉の渇きを潤すことが出来たので、指紋が残らないようにはめていた手袋を脱いで、コップを綺麗に洗った。コップを食器乾燥機に戻した後、再び手袋をはめた時に、玄関から物音がした。
(彼女が戻って来た!)
恵美が帰宅したようだ。キッチンへとやって来る足音が聞こえた。
真希は水を飲みに降りて来たことを後悔した。今から、恵美に見とがめられることなく、二階に駆け上がることは不可能だった。
咄嗟にキッチンの陰に蹲って隠れた時、真希の目に包丁が飛び込んで来た。
(あの人を殺さなければ・・・)
恵美は憑かれたように包丁に手を伸ばした。部屋の中に、暗闇が押し寄せて来ていた。
「それから何が起こったか、よく覚えていないのです」
真希の記憶では、次に記憶があるのが、地下鉄の中だったと言う。地下鉄のドア付近に立っていた真希は、乗り降りする乗客の邪魔になっていたようで、男の乗客に激しく肩をぶつけられて我に返った。
真希は慌てて地下鉄を降りた。自宅に戻るには見当違いの電車に乗っていた。
「あなたが林純平氏をキッチンにあった包丁で刺し殺したのですね?」
森が真希に詰め寄ったが、苦しげに表情を歪めただけで、「分かりません」と言って、わっと机の上に泣き伏した。
尋問を続けるには、真希の気持ちが落ち着くのを待つしかなかった。