リンケン・グループ①
「ウコンさん。例のリンケン事件の容疑者、ハンストをやっているらしいですよ」と森に言うと、「おやまあ~ハンストとは穏やかではありませんね」と馬鹿丁寧な口調で答えた。
神奈川県警刑事部捜査一課の刑事、森倫太郎は四十過ぎ、広い額と虫のように跳ね上がった細い眉が頭の良さと意思の強さを思わせた。そして、薄い唇が彼の持つ酷薄な一面を暗示していた。歩く時は、後ろ手に手を組んで、小柄な体をきびきびと動かしながら、バッキンガム宮殿の衛兵のように足を上げて歩く。
「ウコンさん」と石川は森のことを呼んでいる。ドラマに登場する名刑事、杉山右近に似ているからだ。「何故、ウコンなのか?」と聞かれた時、「ドラマに出て来る名刑事に似ているからですよ」と答えると、「私は名刑事などではありませんよ」と口では言っていたが、あだ名を気に入った様子だった。
以来、ウコンさんだ。
「あの奥さん、犯人ではないのでしょうか?」と石川が尋ねる。
相棒の石川肇は三十代、長身で、小柄な森と並ぶと子供を連れて歩いているように見えてしまう。分厚い胸板に、えらの張った小さな顔が乗っており、頭脳派よりも肉体派の刑事を印象させる。
森倫太郎に石川肇。刑事仲間から二人は文豪コンビと呼ばれている。文学好きの刑事が、森鴎外の本名が森林太郎で、石川啄木の本名が石川一であることを発見し、以来、そう呼ばれている。
偶然にしては出来過ぎなコンビだった。
「あれは高木君たちの仕事ですからね」と森は言う。
「ああ、タカギーズの事件でしたね」
タカギーズとは捜査一課に所属する高木裕也、高木夢人のコンビのことだ。捜査一課で文豪コンビとトップの座を争っている。検挙数では、あちらが上だが、森曰く、「うちは量より質です」だそうだ。
「奥さんが犯人として、動機は何なのでしょうか?」と森は言う。
リンケン事件発生当時、大手企業の創業家を襲った悲劇として世間の注目を浴びたが、犯人は既に逮捕されている。
リンケン・グループは林賢陶器が名を変えたワイズウッドを中核とした企業グループだ。陶磁器メーカーとしてスタートし、今では陶磁器よりも陶磁器を製造する際の絵付の印刷技術を活かした電子回路基板や映像表示、メッセージボードなどの材料メーカーとして有名だ。
リンケン・グループの常務取締役を勤めていた林純平が自宅で殺害された。
純平は次期社長を噂されるリンケン・グループの創業者一族の一人だ。現社長である林賢尚の一人娘、恵美の入り婿で、後継者として育成すべく、賢尚が自ら若手社員の中より選んだ麒麟児が純平であった。
旧姓を岡田と言った。賢尚に見いだされた純平は恵美と結婚し、林純平となった。二人は夫婦となったが、お互いのことをどう思っていたのか、当事者以外、誰も分からない。純平は大手都銀の役員の次男坊であり、口さがない者は、今時、時代遅れの政略結婚だと噂した。
二人は一戸建てを与えられ、新婚生活をスタートさせた。そして、結婚一周年を迎えた日に事件は起こった。
「助けて下さい。妻に刺されました。救急車を・・・至急、救急車をお願いします」
純平から百十番通報があった。
救急隊員が林家に駆け付けた。
通報者の純平は既に息絶えていた。恵美の腕の中で。駆けつけた救急隊員は、血塗れで、純平の傍らに茫然と座り込む恵美を目撃した。背後より包丁で背中を刺されており、死因は失血死だった。
通報で純平は、「妻に刺された」と言った。誰が純平を刺したか明白だった。駆けつけて来た警察官により、恵美は純平殺害容疑で緊急逮捕された。
逮捕後、恵美は黙秘を続けていた。
純平の命を奪った包丁は、林家で使用されていたものであり、柄にはくっきりと恵美の指紋が残されていた。現場に残されていた証拠は、恵美が犯人であると告げていた。黙秘を続けても、恵美が純平殺害容疑で起訴されるであろうことは明らかだった。




