エピローグ
世の中を騒がせた事件だったが、既に世間の口の端に登らなくなっていた。
すっかり体調が回復した恵美は、久しぶりに外出することにした。事件は未解決のままで、恵美の嫌疑が晴れた訳ではないが、ここ一月、自宅周辺に警察が張り込んでいる様子は見られなかった。
ずっと小太りの容姿が気になっていたが、絶食により、ほっそりとした体形を手に入れることができた。不幸中の幸いだった。
最近、都内に出来て話題になっている複合商業施設へ足を伸ばして見ることにした。久しぶりに洋服を買って、美味しい物でも食べて、羽を伸ばそうと思った。
まだ地下鉄に乗る元気が無かったので、自宅にハイヤーを呼んだ。帰りも地下鉄に乗るのが嫌だったので、ハイヤーを待たせておくことにした。常連なので、電話一本で飛んできてくれる。
「あんなろくでなしを結婚相手に選んでしまったのは、私の責任だ。今度はもっとお前に相応しい男を婿として選んでやる。だから、今はゆっくり休むと良い」
事件後、リンケン・グループの総帥であり、娘に甘い父親である賢尚が恵美に言った。娘の贅沢を知れば、父親は返って喜ぶことだろう。
巨大な商業施設に着き、一件目の洋服屋を出たところで、恵美は眩暈を感じて店先にあったベンチに腰を降ろした。まだ十分に体力が回復していない。このまま家に戻った方が良いのだろうが、雑誌で見た商業施設内にオープンした喫茶店で若い女性に大人気だと言うパンケーキを食べてから家に戻りたかった。
少し休めば大丈夫。そう思った。
恵美がベンチに腰を降ろすと、大きなサングラスをかけた女性が歩いて来た。そして、恵美の隣に腰を降ろした。平日の午前中だ。他に空いているベンチはいくらでもあった。恵美が隣の女性を横目でこっそりと盗み見ると、女性は小さな声で、「こんにちは、林恵美さん」と声をかけて来た。
「野田真希さんね」
恵美は顔を伏せて口の動きを見られないように小声で答えた。
「ええ。御免なさい。サングラスをかけたままで良いかしら。知り合いと顔を会すと嫌なの」
「殺人犯として逮捕されたことを知っているからね、大変ね。会社もクビになったって聞いた。でも、『人の噂も七十五日』って言うわ。その内、事件のことを覚えている人なんていなくなる」
「だと良いんだけどね」
真希はくすりと笑った。
「これ、お約束のものよ」
恵美は買ったばかりの洋服の入った紙袋を隣に置く振りをしながら、見えないように分厚い封筒を真希へと手渡した。
「ありがとう、助かる。貯金がそろそろ底を尽きかけていたの――」
分厚い紙袋の中味は現金のようだ。
「いいのよ、あなたは私の命の恩人なのだから。あなたが教えてくれなければ・・・もし、あの日、お料理教室から真っ直ぐ家に戻っていたら、私は純平に殺されていた。あっ! いや、あなたに殺されていたのかしら?」
恵美が俯いたまま「くっくっ」と笑った。
「そんなことしないわよ」
「ねえ、何故、私に純平の計画を教えてくれたの? うまく行けば、あなたは純平と一緒になれたかもしれないのに・・・」
「純平と一緒になれた? とんでもない、あの男はもう次の相手を見つけていたのよ。私はあなたを殺害した犯人として、警察に捕まって、使い捨てにされる運命だった。それに――」サングラスをかけて、姿勢良く真っ直ぐ前を向いた真希は口の端を歪めて言った。「美栄は私の親友だった。高岡という男性にフラれて自殺したことは知っていたけど、それが純平だなんて思いもしなかった。純平の旧姓が高岡だって知った時、美栄の元カレだって知った時、心臓が止まるほど驚いた。でも、正直、美栄のことはもう良いかって思った。仲が良かったけど、仇を取るような、そこまでの関係じゃなかったから。でも、美栄と同じように捨てられるって分かった時、初めて殺意が湧いた」
純平の携帯電話を盗み見た時、チャットで、ある女性と頻繁に連絡を取っていることに気がついた。会社の人間のようで、どうやら純平以外の役員の秘書を勤めている女性のようだった。純平は彼女を盛んに口説いていて、中に「もう少し経ったら、堂々と会うことができるようになる」、「身辺整理が終わるまで、待ってくれ」と言う文句があった。
そして極め付けは、
――妻との関係が精算できれば、君と一緒になることができる。
と言う一文だった。
真希は純平に利用されているだけだということを知った。
次に携帯電話を盗み見した時に、女性とのやり取りは残っておらず、慎重な純平はチャット・ソフトごと、削除してしまっていた。
「我が夫とは言え、酷いやつね」
「そうね。ねえ、私も一つ、聞いても良いかしら?」
「何?」と恵美が僅かに顔を向けた。
「何故、ハンストなんかしたの?」
「ああ、何故でしょうね。純平に裏切られて、しかも殺されようとして、私、生きて行くのが嫌になってしまっていたのだと思う。もう、何もかもがどうでも良くて、このまま死んでしまいたいって、そう思っていたような気がするの」
「へえ、あの人のこと、愛していたのね?」
「それはね・・・」
恵美が今度はしおらしく囁いた。
「じゃあ、何故、殺したの?」
「私ね。あなたみたいな美人じゃない。そのことは、自分でもよく分かっている。うちが金持ちじゃなければ、男なんて寄って来ない。それくらい自覚している。だからね。純平が浮気しても、そんなにショックじゃなかった。最後には、私のもとに戻って来てくれれば良いって考えていた。でもね、黙って殺されるのはゴメンだわ。それに、どうしても許せなかったのが、あなたと二人で旅行に行った話。旅行先で、あなたのこと、妻だって紹介していたみたいね。それだけは、私のプライドが許せなかった。純平の妻は世界中で私だけだから」
「何だか、悪いことをしちゃったみたい」
「もう良いのよ。全て終わったことだわ」
「そう? でも、偶然とは言え、何だか上手く行き過ぎて、ちょっと怖い・・・」
「本当に・・・もう少しだけ辛抱してね。ほとぼりが冷めたら、パパに言って、あなたの就職先を世話してもらうから。大丈夫よ、パパは私の言うことなら、何でも聞いてくれるの。特に今は、我儘言い放題なの」
「本当、ありがとう、助かる」
「気にしないで。私たち、一蓮托生なんだから。また連絡する」
恵美が会話を打ち切り、ベンチを立とうとした時、隣で真希が「あっ!」と小さな悲鳴を上げた。恵美が真希を見ると、真希が「あの人」と二人の前から歩いて来る男を指差した。
恵美が真希の指差す方を見ると、恵美をここに乗せて来てくれたハイヤーの運転手がゆっくりと歩いて来るのが見えた。
「大丈夫、私をここに乗せて来てくれたハイヤーの運転手さんよ」
恵美が真希に告げる。ところが真希は動揺が納まらない様子で言った。
「違うのよ! 盗聴器。何処かに盗聴器があるはず。あの男、刑事よ。取り調べで会っていないの? 確か、石川と言う名前の刑事のはずだわ」
了