第八話:瞳の色の宝石
「妃殿下、ありがとうございました!」
「また剣の練習に来てくださいね!」
ユーディドは王宮の門前でヴァレリーと別れると、ルイスと共に訓練場へ向かい、近衛騎士たちに菓子を渡して、挨拶を済ませた。
ユーディドが剣の練習をしていることは、近衛騎士たちに知られているようで、彼らの多くは歓迎してくれた。
一部の騎士たちは、冷めた目をこちらに向けてくるが、ユーディドは王妃として、まだなにも国の役に立てていない。よく思われないのも当然だ。
早速剣を持ち、騎士たちに混じって訓練をするというルイスを残し、自室へ戻る。
「ただいま」
居間の扉を開けるが、中には誰もいなかった。サナはどこへ行ったのだろうか。
――寝室かしら……。
「サナ?」
寝室へ入ると、はたして、サナはそこにいた。ぼんやりとした様子で、鏡台の前に立っている。鏡でも見ているのだろうか、と思ったものの、それなら、すぐ傍に姿見がある。
鏡台の上にあるのは、化粧品と宝石箱だけだ。
――化粧品を、補充してくれたのかもしれないわね。
「サナ、いつもありがとう」
声をかけると、サナは跳び上がらんばかりに肩を揺らした。どうやら、ユーディドが入室したことに気づいていなかったようだ。
「お、お帰りなさいませ……」
「びっくりさせてしまったようね。ごめんなさい」
凝視するのも悪い気がして、宝石箱に視線を落とす。
繊細な金細工の施されたそれを眺めているうちに、ヴァレリーがたくさんのドレスと共に、アクアマリンのブローチを贈ってくれたことを思い出した。
今日のことで、自分の贈り物を相手が喜んでくれるというのは、とても嬉しいものなのだと今更ながらに悟ったのだ。
――今まで考えたこともなかったけれど、ヴァンも、自分の瞳と同じ色の宝石をプレゼントしてくれたのかもしれないわね。
ユーディドはサナの隣に歩み寄ると、宝石箱を開けた。赤い布張りの箱の中には、なにも入っていない。
――おかしいわね。確かにあったはず……。
どこかに転がってしまったのだろうか。
ユーディドは膝をつき、屈んで絨毯の上を改め始めた。壁と家具の隙間。猫足の家具の下。腰が痛くなるまで探しても、ブローチはどこにもない。
「なにをしておいでですか」
サナが冷えた声で尋ねてくる。
「陛下からもらったブローチがないのよ。アクアマリンが嵌まっているんだけれど、サナ、なにか知らない?」
「存じ上げません。どこか、外出先で落とされたのではないですか」
「そんなはずはないわ。まだ、宝石箱から出したこともないのよ」
ユーディドは夫婦の寝室と居間に範囲を広げ、日が沈むまでブローチを探し続けた。
その夜、ユーディドは王族専用の食堂にいた。王宮には、大勢の者が一堂に会せる豪奢な食堂もあるものの、ヴァレリーとはいつも、四人掛けの小さなテーブルで食事を摂っている。
普段、二人きりの食卓には、ちゃっかりとルイスの姿もあった。
「俺も王族ですから。これからは一緒に食事させてもらいますからね!」
ルイスは意気揚々として話す。
ヴァレリーに視線をやれば、彼の襟元に、エメラルドのピンが燭台の光を反射して、輝いている。
「早速着けてくれたのね。嬉しいわ」
ヴァレリーは、ユーディドを見ると淡く笑んだ。
「たまにはユディちゃんも、アクセサリーを身に着けてくれたら嬉しいな」
「そう思ったんだけれど……。ごめんなさい、ヴァン。わたし、アクアマリンのブローチを、失くしてしまったみたいなの」
ヴァレリーは気にしたふうもなく、鷹揚に首を縦に振った。
「構わないよ、また贈るから。……それにしても、侍女はなにをしていたのかな。主の宝飾品の管理は、侍女の務めのはずなんだけれどね」
壁に控えるサナは、身動きひとつしない。ヴァレリーは言い放った。
「もういい。侍女を替えよう」
「そんな、わたし、サナがいいわ。彼女はなにも悪くないもの」
ユーディドは訴えた。王妃の担当を外されたとあっては、サナの経歴に傷がつくだろう。
「そうは言うけれど、これは侍女の不手際なんだよ。万一、そこの侍女が故意になにかをしたのだとしたら、家族もろとも罰を受けてもらう」
ヴァンの声が、一段低くなった。なんだか、室温が下がったように感じる。
まあまあ、とルイスが間を取り持つ。
「姉上が今の侍女を希望するなら、そのままでいいじゃないですか。陛下のプレゼントなんかにこだわる必要なんてありませんよ」
「ルイス、そんなことを言わないで。わたし、今まで贅沢をしてはいけないと考えてきたけれど、ヴァンの贈り物だけは身に着けてみようと思えたのよ」
「ユディちゃん……!」
ヴァレリーが感極まったかのように目を瞬かせた。また泣きだすのではないかと、ユーディドは、はらはらしたが、彼に涙の気配はない。
「ブローチは、もう一度探してみるわ。それでは、いただきます」
スプーンで掬って、スープを口にする。野菜のポタージュのようだ。ポタージュからは、甘く優しい味がした。
他にも、食卓には柔らかい白パンや、サラダ、バターで焼いた魚が並んでいる。さすが海辺の国だけあって、ランベルクは魚介料理がおいしい。
食事を終え、自室に戻ったユーディドは、サナの様子がおかしいことに気付いた。途方に暮れたように立ち尽くし、その顔は蒼白だ。
「サナ、どうしたの? 具合が悪いのかしら。もう休んでちょうだい」
すると、彼女はばっと床に両膝をつき、額を床に擦り付けた。
「妃殿下、お許しください。ブローチは私が……」
そうして彼女は懐に手をやると、なにかを取り出した。ユーディドに差し出す手のひらの上には、アクアマリンのブローチがきらめいている。
ユーディドは屈み込んで、サナを見つめた。
「顔を上げてちょうだい。なにか事情があるのね?」
「私には、幼い弟と母がおります。父は亡くなりました。家は貧しく、病気がちな弟の世話をするために、母は働きに出ることができません。私の収入だけが頼りなのですが、とても足りず……。私はどうなっても構いません。どうか、家族だけはお助けください!」
ユーディドはブローチを受け取ると、寝室へ向かった。アクアマリンは宝石箱に戻し、故郷から持参した荷物をごそごそと漁る。
鞄の奥底に、大事にしまってあった小箱を取り出すと、サナの元へ戻った。
「陛下から贈られた物はあげられないけれど、これをあなたに。宝石商に売って、家計の足しにしてちょうだい」
箱の中にあるのは、小ぶりなオルゴールだ。今にも踊り出しそうな、ドレスを身にまとった貴婦人をかたどった陶器の飾りに、丸い台座を取り囲む大粒の宝石の数々。
ユーディドがたったひとつ受け継いだ、レアン王国王妃だった母親の形見だ。
「こんなに立派なものを……。本当によろしいのですか」
「もちろんよ。陛下には、アクアマリンは部屋に落ちていたと伝えておくわ。このことは秘密よ?」
はい、と返事をすると、サナは深々と頭を下げた。
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ヴァレリーは、夫婦の寝室でユーディドにお休みの挨拶を済ませると、自室に戻り、急いで廊下へ出た。退出したばかりのユーディドの侍女を追いかける。
「待て」
侍女はびくりと体を揺らし、振り返った。
「陛下……。いかがされましたか」
「お前の懐に入っているものを出せ。今すぐにだ」
「なんのことでしょう。私はなにも……」
ヴァレリーは侍女を睨み据えた。
「他の者に知られてもいいというのなら、俺付きの侍女を呼び、お前の衣服を改めさせる。さあ、どうする?」
ヴァレリーの言葉に、侍女が震える手で懐からなにかを取り出す。
差し出されたものを見て、ヴァレリーは内心、驚いた。
この女が持っているのは間違いなくユーディドに贈ったアクアマリンだと思っていたのに、出てきたのは美しいオルゴールだった。
いくつもの宝石があしらわれたそれは、高価なものを見慣れたヴァレリーが見ても、素晴らしい品だった。
アクアマリンのブローチよりも、よほど豪華な品物である。
「これをどこで手に入れた」
「妃殿下が、アクアマリンの代わりにと、私にくださったのです」
「ユーディドが……?」
ヴァレリーは、そのオルゴールにどこか見覚えがあった。眉を寄せ、記憶を探る。
――そうだ、これはユーディドの、母親の形見だ。離宮で彼女と一緒に、オルゴールの音色に耳を澄ませた……。
「アクアマリンの代わり、ということは、やはりお前はブローチを盗んだのだな」
「妃殿下は、私を許してくださいました。どうか、ご慈悲を」
「ユーディドが庇うゆえ、見て見ぬふりをしてきたが、なぜお前は彼女に辛く当たる」
侍女はひくひくと喉を鳴らした。
「恨めしく思ったのでございます。豊かな国の王女として生を享け、嫁ぎ先では陛下の愛にくるまれ、山ほどのドレスに囲まれる妃殿下のことを……。私は、家族を養い、貧しさにあえいでいるというのに」
ハッとヴァレリーは吐き捨てた。
「愚かな。お前如きと、ユーディドを比べること自体が不敬だと分からぬか。家族が重荷ならば、お前の目の前から消してくれよう」
「そんな……。どうか、それだけは……」
そのとき、王妃の部屋の扉が開いた。侍女がオルゴールをスカートのひだに隠す。
古びた大判のストールを羽織ったユーディドが、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「あら、二人がお話しするなんて、珍しいわね。ヴァンったら、怖い顔をして、どうしたの?」
ユーディドは、レアンから持参したドレスを腕に抱えている。飾り気のないデザインだが、生地には光沢があり、絹が使われているのだろうことが分かる。
おそらく、ユーディドはそのドレスをも、この侍女に与えようとしているのだ。
ヴァレリーは侍女への怒りを抑え、努めて柔らかい声を出した。
「ユディちゃんこそ、寝台に入ったはずなのに、なにがあったの? 夜はちゃんと休まないとだめじゃない。また体調を崩さないか、僕、心配になっちゃうよ」
ユーディドは、さっとドレスを背後に回すと、微笑んだ。
「ちょっと、サナに用事があっただけよ。でも、また今度にするわ。ヴァン、サナも疲れているのだから、もう寮に帰してあげてちょうだい」
「うん、分かった! でも、ユディちゃんのことで、もう少しだけ聞きたいことがあるんだ。優しく質問するから、君は心配せずに、早く寝台に戻って」
「わたしのこと? なんだか恥ずかしいわ。変なことを尋ねないでね」
もちろんだよ、と請け負って、ヴァレリーはユーディドの部屋の扉を開ける。
ほらほら、と手招きし、ユーディドを部屋に戻すと、満面の笑みで彼女に手を振ってから、扉を閉めた。
たちまちヴァレリーは振り返り、冷徹な視線を侍女に向ける。
「ユーディドがお前に差し出したのは、母親の形見だ。彼女の母親であるレアンの王妃は、ユーディドが幼い頃に死んだ。そのオルゴールはユーディドの宝物で、母親を偲ぶ唯一の品だった」
「妃殿下は、そんなことは一言も……」
「お前に配慮したからに決まっているだろうが。……忌々しいが、お前の姿が見えなくなったり、落胆した姿を見たりすれば、ユーディドが悲しむ。よいか、次に彼女の品に手を付けることがあれば、お前の両腕を斬り落とす」
そう告げると、ヴァレリーは侍女の手からオルゴールをひったくった。
懐から金貨を取り出すと、侍女へ放って寄越す。
「自分がどれだけ浅はかな真似をしたのか、よく考えろ」
ヴァレリーはそう言い残すと、自分の部屋へ戻った。