第七話:再会
「姉上!」
医療の塔を見学した翌日、懐かしい声が響いたのは、王妃の部屋で、ノイの授業を受けているときのことだった。時刻は昼下がり、昼食を済ませたばかりだ。
相変わらず、ユーディドに入出の許可を仰ぐこともなく、サナが扉を開ける。喜色をいっぱいに浮かべて部屋に入ってきた黒髪黒瞳の人物を見て、ユーディドは瞠目した。
「ルイス……? あなた、どうしてここにいるの!」
「俺、ランベルクに留学することにしたんです。姉上、お会いできて嬉しいです」
ユーディドの弟ルイスは、ためらいも見せずに抱きついてきた。背が高くなり、体つきもがっしりしているのに、子どものようだ。
「まったく、あなたはもう十九歳なのに、甘えん坊ね。まるでヴァンみたいだわ」
「姉上、あいつはそんな生易しい男じゃ――、いや、なんでもないです。陛下にはもう挨拶を済ませたので、一緒にいてもいいですか」
「ごめんなさい、今は勉強中なの。しばらく待ってもらえる?」
すると、ソファに座ってやり取りを見守っていたノイが、立ち上がった。
「いいえ、今日はここまでにしましょう。私が容赦なく指導申し上げたせいで、先日は妃殿下に無理をさせてしまいましたし、せっかくの弟君との再会なのですから」
ノイが顔を綻ばせる。ユーディドは未だ自分に抱き着いたままの弟の背を、ぽんぽんと叩いた。
「ほら、いつまでくっついているの。よく顔を見せて」
ゆっくりと体を離したルイスは、漆黒の瞳でユーディドを見つめる。
くるくるとしたくせ毛が特徴の彼は、端正な顔立ちをしているが、ユーディドとは似ていない。
彼はレアン王家の子女のうち、ひとりだけ母親が違うからだ。レアン王族の特徴である金の髪も、彼は受け継がなかった。
ほとんどレアンの宮殿で暮らしたことのないユーディドは、ルイスの事情を詳しく知らない。それでも、身分の低い側妃から生まれた彼が、家族から遠巻きにされてきたことは察している。
寂しさゆえか、ルイスは幼い頃から離宮に入り浸り、ユーディドに懐いて多くの時間を共に過ごした。
ユーディドが結婚するときに、最後まで強硬に反対したのも彼だ。
「これからは、俺が姉上を守ります。腹黒野郎になんか、負けませんから!」
「腹黒って……、誰のことかしら。それに、留学したのなら、どこかの学校に通うのではないの?」
「姉上は、まだあいつの正体に気づいていないんですね。それはそうと、俺はこの王宮に滞在して、近衛騎士団に混ざり、剣の腕を磨く予定なんです。ランベルクの騎士団は屈強だと有名ですから」
なるほど、とユーディドは頷いた。ぱっといい案が浮かんで、彼に提案する。
「ねえ、ルイス。ソルレの町に行きたいのだけれど、付き添ってもらえるかしら」
ルイスは破顔した。すかさず扉を示す。
「いいですね! 今行きましょう、早く行きましょう」
「後日でいいわ。王宮に到着したばかりで、疲れているでしょう」
「まさか。俺はこれくらいで、ばてたりしませんよ。姉上のお供ができるなんて、嬉しいです」
出掛けていいかノイに確認すると、彼は「いつも陛下がくっついていたら、息苦しいでしょうから」と快諾してくれた。
軽やかな黄色のワンピースに着替え、ルイスと共に馬車へ乗り込む。医療の塔へ行ったときと同じく、王宮の建つ丘を下ると、ソルレの町並みが見えてきた。
橙の三角屋根で統一された家々は可愛らしく、馬車の通れる大通りに出ると、たくさんの人々が道を行き交っている。
ルイスに手伝われて馬車を下りると、人の多さに息を呑んだ。
「姉上は小柄だから、すぐに人ごみに紛れて迷子になってしまいそうです。俺から離れないでくださいね」
手を差し出されて、ユーディドは苦笑した。
「これでは、どちらが年上なのか分からないわね。あのね、今日はヴァンへのプレゼントを買いたいの」
「ええっ、あいつにですか。姉上をお嫁さんにもらったんだから、他になにもやる必要はないと思いますけど」
ルイスはいかにも嫌そうに顔をしかめるが、ユーディドは知っている。ルイスとヴァレリーは、とても仲がいいのだ。
「ヴァンに日頃のお礼を伝えたいのよ。さあ、付き合ってちょうだい」
ルイスの手を引っ張り、ソルレの目抜き通りを歩きながら、店舗の陳列窓を眺める。
菓子屋、仕立て屋、宝石店。
ユーディドは宝石店の窓に釘付けになった。そこには、ジャケットの襟に着ける男性用のピンが飾られていた。
――そういえば、ヴァンはいつも仕立てのいい衣装を身にまとっているけれど、装飾品はつけていないわね。
しかも、ピンにはエメラルドが嵌まっている。自分の瞳と同じ色の宝石を贈るなんて、おこがましいだろうか。
悩んでいると、ひょいとピンに視線を移したルイスが、おそるおそる、といった様子で声を出した。
「まさか……。姉上、そのピンをあいつに贈ろうと思っているんですか。嫌です、それ、俺が欲しいです!」
「あら、身を飾ることにあまり興味のないルイスがそう言うのなら、ヴァンがもらっても喜ぶかもしれないわね」
「そんなあ……。あいつばっかり、ずるいです、姉上」
ルイスがしおしおと肩を落とす。ヴァレリーが子犬だとしたら、ルイスは人懐っこい大型犬のようだ。
ルイスは昔から「姉上を守る騎士になる」と言い張って、剣術に没頭してきた。今も、簡素な白いシャツに、ベージュのジャケットとズボンといういでたちだ。清潔感はあるが、とても王族の装いには見えない。
父王に持たされたなけなしの金で、宝石店に入ってピンを購入したユーディドは、先ほど通り過ぎた菓子屋に向かった。
「姉上、今度はなにを買うんですか」
「近衛騎士団に差し入れするお菓子よ。あなたがお世話になるんだもの、ご挨拶しないとね」
店内には甘い香りが漂っており、奥はカフェになっていた。
陳列棚には、ケーキやマカロン、クッキーに焼き菓子が並んでいる。
――ノイが、近衛騎士は三十人しかいない精鋭なのだと話していたわ。
王宮で働く者の役職を学ぶ中で、ノイから教えられたことを思い出す。
「ルイス、どれがいいと思う?」
「姉上からのプレゼントなら、なんだって嬉しいと思いますよ。でも、非番の騎士もいるだろうから、日持ちするものがいいんじゃないかな」
「確かにそうね。なににしようかしら」
陳列棚を眺めていると、女性店員が、味見にどうぞ、と小さく切った焼き菓子を差し出してきた。お礼を言って口にすると、甘さが控えめで、はちみつの香りがする。
「とてもおいしいわ。では、これを三十個、くださいな」
かしこまりました、と女性店員が菓子を箱に詰めるのを見ていると、隣でルイスが「げっ」とおかしな声を出した。
「どうしたの? あちらになにか?」
ルイスが見ているのは、目抜き通りに面した店の窓だ。
店の外から、窓に張り付くようにして、ひとりの人物がこちらを覗き込んでいる。
表情は逆光になっていて窺えないが、日に透けるような銀の髪に、すらりとした背の高い男性の姿は、どう見てもユーディドの夫のものだった。
「ヴァンだわ! なぜ、入ってこないのかしら」
手招きをすると、彼は扉を通って、長い足でユーディドの元へ歩いてくる。
「ユディちゃん、買い物の邪魔をしてごめんね。近くを通りかかったら、たまたま護衛の騎士たちを見かけたから、寄ってみたんだ」
外出するユーディドのために、ノイが二名の騎士をつけてくれたのだった。彼らは店の外で待機してくれている。
「そうなの。すごい偶然ね」
たまたまなわけないでしょ、とルイスが呟く。
「ルイス。なぜお前がユーディドの隣にいる」
「陛下、化けの皮が剥がれていますよ」
二人の声は低い。ぼそぼそとやり取りをするので、ユーディドにはよく聞き取れなかった。
「なんで、ルイスがユディちゃんと一緒なのかな? ユディちゃんは、僕の奥さんなんだけれど」
「姉上にお願いされたんです。俺は誰かさんと違って、姉上に信頼されていますから」
「へえ……。そうなんだ」
笑みを浮かべるヴァレリーの口の端が、引きつった。
なぜか不穏な空気を感じて、ユーディドは首をかたむける。
「なにかあったの? 二人は、仲がいいはずよね?」
離宮では、よく三人で遊んだものだった。二人の関係は、変化してしまったのだろうか。
不安に思っていると、ヴァレリーがルイスと肩を組んだ。
「やだなあ、ユディちゃんったら。当然、仲良しだよ。実の姉に執着して、輿入れ先まで追いかけてくるなんて、ルイスはすごいなあ」
ルイスも、ヴァレリーの肩に手を回す。
「俺も、陛下のことは大切な幼なじみだと思っていますよ。裏表が激しすぎて、いっそ見事だというほかありませんね」
二人の手が、お互いの肩に食い込んでいるように見える。
「そうよね、あなたたちは昔から親しいもの。変わらずにいてくれて、嬉しいわ」
もちろん、と二人は声を揃えた。
「ねえユディちゃん、奥のカフェでお茶をしない? 仕方がないから、おまけがついていても構わないよ」
「おまけはどっちでしょうね。元々、姉上のお供に選ばれたのは俺なので」
どうやら、いつもの調子が戻ってきたようだ。ヴァレリーとルイスは、喧嘩するほど仲がいいのである。
店員を見れば、三十個もの菓子の包装に、手間取っているようだった。ゆっくり準備してくださいね、と言い置いて、ユーディドは店の奥へと向かう。
カフェは、雰囲気のいい空間だった。木でできたテーブルが並び、ところどころに観葉植物が置いてある。いくつものランプが、薄暗い店内に柔らかな光を投げかけていた。
席の半分ほどは客で埋まり、その多くが女性である。
三人で空いている席に着くと、ユーディドはケーキと紅茶のセットを頼む。クリームで彩られたケーキは、陳列棚で見かけたときから、おいしそうだと思っていたものだ。
ヴァレリーとルイスも、ユーディドと同じものを注文する。
すぐに運ばれてきた紅茶からは、爽やかな風味がした。ちらりとヴァレリーを窺うと、彼は優雅な仕草でティーカップを傾けている。
ユーディドは懐に入れていた小箱を、おそるおそるヴァレリーに差し出した。
「ヴァン、これをもらってくれる……? あなたのしてくれたことに比べれば、お礼にもならないけれど、感謝を伝えたくて」
「ユディちゃんが、僕に……?」
ベルベッドの張られた小箱を開けたヴァレリーは、目を丸くした。
「綺麗だ……。石がエメラルドなのは、もしかしてユディちゃんの瞳の色だから……?」
「ええ。でも、そんな物を贈られても、困るわよね」
ヴァレリーの反応が気になるあまり、弱気になってしまう。手をぎゅっと握り合わせていると、ヴァレリーが突然叫んだ。
「そんなことない!」
「ヴァン……?」
「嬉しいよ。ユディちゃんが、自分の色を取り入れたプレゼントをくれるなんて……。嬉しすぎて、クッ……」
ヴァレリーが顔を逸らすのを見て、ユーディドはぎょっとした。彼の声は、震えている。
――まさか、泣いてる……?
ヴァレリーは顔をごしごしと手で拭って、再びユーディドに視線を合わせた。ぱっと笑みを浮かべる彼の目は、心なしか、潤んでいるようにも見える。
「姉上、いつか俺にも、緑色の物をくださいね」
ルイスの声は不満そうだ。
「そうね。ルイスが騎士団での訓練を頑張ったら、考えましょうか」
「やった! 俺、死に物狂いで修行しますから。約束ですよ」
「あまり無茶はしないでね……?」
それから、間を置かずにケーキが運ばれてきた。一口食べると、とろけるように甘い。
「とってもおいしいわ!」
見れば、二人もケーキを口にして、頬を綻ばせていた。
「確かに、美味だね。ユディちゃんが気に入ったのなら、今度取り寄せるよ」
「俺も、このケーキ好きです。運動したあとに甘いものを食べると、疲れが取れるんですよね」
しばらくお茶会を楽しんでいると、近くの席に座る女性たちの声が聞こえてきた。身なりがよく、貴族かもしれない。
「――それでね、王妃は魔性の女なんですって。国王陛下を手玉に取っているって噂よ」
「怖いわねえ。でも、わたくしたち準貴族は、陛下にも妃殿下にも、拝謁の機会がないわ。誰がそんなことを言ったの?」
「ロマーノ公爵令嬢が、色々なところでこの話を広めているらしいわ。なんでも、妃殿下主催のお茶会に招かれたとか」
嫌ねえ、と二人の女性は笑う。
「公爵家の方の仰ることなら、間違いはないわね」
「そのうち、魔性の女にこの国を乗っ取られてしまうのではなくて?」
がたん、と揃って立ち上がったヴァレリーとルイスの袖を引っ張って、無理やり座らせる。
「ちょっと二人とも、なにをするつもりなの」
小声で尋ねれば、ヴァレリーは唇を尖らせた。
「なにって……。あの女性たちに、ユディちゃんを貶めるとどうなるか、思い知らせてやろうと思って」
「そうですよ! 言われっぱなしだなんて、悔しいじゃないですか」
ルイスも、ヴァレリーに同調する。
ユーディドは、はあとため息をついた。
「噂話くらいで、怒ることはないわ。思ったことを自由に話せる国って、素敵だと思うもの」
「ユディちゃんがそう言うのなら……」
悔しそうに唇を噛むヴァレリーをなだめすかして、ユーディドはケーキを楽しむと、王宮へと戻った。