第六話:医療の塔
ひたすら手を動かすこと四日。もはや、休息など頭になく、ユーディドは一心不乱に針を進めていた。
子犬の全身ができあがったのは昼過ぎ。あとは鞠を残すのみだ。
作業にはいい加減うんざりしていたが、ユーディドは真剣に、刺繍に取り組んでいた。せっかくだから、ヴァレリーに可愛い子犬と鞠を見せてあげたい。
赤と青、二色の糸を贅沢に使って、今にも転がり出しそうな鞠の完成を目指す。
ところが、いつもユーディドの針は、予想外の方向へ向かってしまう。
「あら? あらあら?」
早速、下絵から糸が飛び出して、できあがったのはぎざぎざの鞠だ。なんだかトゲトゲして、鞠に針でも生えているかのようだ。
「いたっ!」
糸を始末しようとしたところで、指に針が刺さる。指先にぷつりと赤く血が盛り上がり、布をわずかに染めた。
もう、何度指を刺したか分からない。布のところどころには、ユーディドの血液の痕である赤黒い染みがある。なにやら禍々しいが、これも努力の結晶だと、ユーディドは気にしていなかった。
ヴァレリーは毎晩、ユーディドの傷を目ざとく発見し、消毒しては包帯を巻いてくれる。
最初はあれだけ、刺繍を完成させるようにとうるさかった彼は、二日前からは悲しそうな顔をして、もうやめてもいいんだよ、と話すようになった。
頑としてヴァレリーの言葉を聞き入れず、刺繍を続けた結果、夕方になってようやく、作品が出来上がったのだった。
――そうだわ、これ、ヴァンにプレゼントしよう。
ヴァレリーには、すっかり迷惑をかけてしまった。なにかお礼をしたかった。
ユーディドは最後に、彼のイニシャルを縫い付けた。喜んでくれるだろうか。
その夜、寝室に帰ってきたヴァレリーに、ユーディドは刺繍を手渡した。
「僕にくれるの? ユディちゃん、ありがとう!」
声を弾ませて布を受け取ったヴァレリーは、刺繍に視線を落とすと、ぱちぱちと目を瞬かせた。一瞬の沈黙ののち、満面の笑みを浮かべる。
「すごく上手だよ。なんてよくできているんだ」
「そう? ちなみに、なにに見える?」
ヴァレリーなら、きっと分かってくれる。鞠で遊ぶ犬だ、と即座に返答があると思っていたが、彼は急に真顔になり、なにかを一生懸命、考えているようだ。
「ええと、針山で拷問されている、全裸の人間、かな……? なんか、赤黒い斑点もあるし」
「違うわ! 犬と鞠よ。ヴァンのイニシャルも刺繍したのに……」
そんな、物騒な図案があるはずないではないか。ふくれていると、ヴァレリーがことさらに明るい声を出した。
「い、嫌だなあ、ユディちゃん。冗談だよ。もちろん、可愛い犬と、ころころした鞠だって、見てすぐに分かったよ。イニシャルまでつけてくれるなんて、僕はなんて幸せ者なんだ」
そう言って、彼は布を丁寧に畳むと、懐に入れた。
「これは、ハンカチにするね。一生大切にするから」
「いえ、それはやめて。他の人に見られたら、恥ずかしいわ」
自分なりに頑張ったつもりだが、刺繍が下手なことは自覚している。それから、とユーディドは付け足した。
「それ、一度洗ってね。赤い染みは、落ちると思うから……」
それは血なんです、とは伝えられずに、ユーディドは言葉を濁した。
その後、ヴァレリーと一緒に寝室で夕食を摂ると、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「今日で、過労のために処方した薬はやめるね。明日からは、普段通り過ごしていいよ」
「本当? 嬉しいわ。あのね、わたし、行ってみたいところがあるの」
ヴァレリーは首をかたむけた。彼の透き通ったアクアマリンの瞳が、優しく細められる。
「君の行きたいところなら、どこへでも。明日は会議もないから、僕が連れて行ってあげるよ」
「では、お願いします。お訪ねしたいのは、医療の塔よ。ヴァンは、そこでお医者さんの資格を取ったんでしょう」
「ええっ、あんな場所に? 埃っぽくて、古臭いだけの建物だよ」
そこをなんとか、とユーディドは食い下がる。今回、体調を崩したことで再認識したが、彼は優秀な医師だ。彼が勉強した場所を、見てみたかった。
それに、ユーディドのために薬を作ってくれた人と、会えるかもしれない。
「分かったよ。医療の塔はソルレの町にあるから、朝はゆっくりして、昼過ぎに出掛けよう」
やった、とユーディドは寝台の上で体を弾ませた。
医療の塔は、ソルレの外れにあった。
四角く灰色の塔は黒ずんで、ふもとから見上げると、全容が見えないほどに高い。
塔と同じ敷地内には、広大な平屋の建物もあった。ヴァレリーによれば、そちらは医科大学の学舎なのだという。
「医療の塔に、大学が入っているのだと思っていたわ」
「塔には、研究室が入っているんだ。学生の中で学業優秀な者や、医師の資格を取ったあとに、ひとつの分野を探求したい者が、部屋を与えられるんだよ」
「そうなの。すごい人がいるのね」
感心していると、学舎からぽっちゃりとした男性が駆けてきた。
「もう到着なさっていたとは。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません。私は医科大学の学長をしております。国王陛下、妃殿下。よくお越しくださいました」
学長だという男性は、五十代ほどで、ぺこぺこと頭を下げている。
彼の挨拶に、ヴァンはこくりと頷くだけだったので、ユーディドは深く礼をとった。
「初めまして。王妃のユーディドでございます。このたびはお忙しい中、見学を許してくださって、ありがとうございます」
すると、学長は顔を赤らめた。
「なんとお美しい……。妃殿下ほど、可憐な女性を私は見たことがありません。陛下が必死になられただけのことはありますなあ」
どういう意味だろうか。首を傾げたユーディドだが、ヴァレリーはなにも言おうとしない。ユーディドは学長に向かって言葉を重ねた。
「わたし、この国の医療の先端を担うという、医療の塔を見てみたかったんです。それに、できればお話ししてみたい方もいて……。塔の中に、入れていただけますか」
学長は破顔した。
「もちろんでございます。塔には、陛下の研究室もございますから。ご案内いたしましょう」
「陛下も研究室を持っているんですか!」
驚いて尋ねれば、学長は誇らしそうに首肯した。
「陛下は、医科大学を首席で卒業されました。学生時代から部屋を所有され、研究に励んでこられたのですよ。さあ、こちらです」
ユーディドはわくわくしながら、学長に続いて医療の塔の入り口をくぐった。
ヴァレリーが、黙ったままあとをついてくる。
ヴァレリーが話した通り、医療の塔は古びた建物だった。塔の廊下には三つの扉が並んでいるが、その間隔は狭いので、おそらく部屋の一つひとつはあまり広くないのだろう。
学長は、どんどん階段を上っていく。二階、三階と、代わり映えのしない廊下の風景が続いた。
学長の背中を見ながら、ひたすら足を動かしていると、背後から心配そうな声が聞こえてきた。
「ユディちゃん、大丈夫? 僕の部屋は塔のかなり上にあるから、疲れたら言って」
「このくらい、平気よ。それに、先日のことで思い知ったわ。わたし、もっと体力をつけなくちゃ」
石造りの折り返し階段を、どれだけ上っただろうか。細長い窓から、ソルレの町が見渡せる。
「お疲れさまでございました。この五階にあるのが、陛下の研究室です」
肩で息をしながら、ユーディドは辺りを見回す。五階には、扉がひとつしかなかった。
「ユディちゃん、本当に僕の部屋へ入るの……?」
ヴァレリーの言葉に、ユーディドは彼を振り返った。眉尻が下がり、どことなく困っているように見える。
「もしかして、嫌だった?」
「ううん。君が中を見たいのなら、もちろんいいけど……」
なぜか歯切れの悪いヴァレリーは、懐から鍵を取り出し、扉を開ける。彼にどうぞと示されて、ユーディドは部屋の中へと入った。
「わあ……。とっても広いのね。それに、綺麗に片付いているわ」
ヴァレリーが気の進まない様子を見せていたのは、部屋の中が散らかっているからではないかと思ったが、きちんと整理整頓されている。彼は、部屋にある両開きの窓を開けた。
大きなテーブルの上には、ユーディドの知らない器具がたくさん置いてあり、天井まである棚には無数の抽斗があった。部屋の奥には、寝台も配置されている。
家具に埃が積もっていないのを見て、ユーディドは不思議に思った。ヴァレリーが大学を卒業したのは、ずいぶん前のはずだ。
「お部屋を掃除してくれる人がいるの?」
ヴァレリーは首を横に振った。つられて、彼の肩上まである髪がさらさらと揺れる。
「ここには、僕以外は誰も入れないようにしているんだ。掃除も、自分でやっているんだよ」
「ヴァンはまめなのね。わたしも見習わなくちゃ」
物を出したら出しっぱなしのユーディドは、部屋の片付けも苦手である。レアンでは侍女たちがやってくれていたが、サナはいつも壁に控えているだけなので、王妃の部屋は散らかりつつあった。
でも、とユーディドは首をかたむける。
「お部屋がこんなに綺麗だということは、ヴァンは最近、ここへ来たことがあるの?」
毎日、政務でとても忙しそうにしているけれど。
ヴァレリーは、顔を赤くした。
「昨日までユディちゃんが飲んでいた薬は、ここで調合したんだよ。簡単な薬なら、王宮の僕の部屋でも作れるけれど、塔の気温と湿度が薬の保管に適しているから、薬草の多くをここに置いているんだ」
ほら、とヴァレリーが抽斗のひとつを開けると、そこには乾燥した植物が入っていた。
「この薬草には、熱を下げる効果がある。君に作った薬の成分のひとつだよ」
ユーディドは目を見張った。この壁一面に並んだ抽斗に、それぞれ薬効の違う植物が入っているのだと思うと、彼の知識量に圧倒される。
「これは、なに?」
テーブルの上にある、金属でできた底の深い器と、取っ手の付いた車輪をユーディドは指した。
「それは、薬研っていう。薬草を磨り潰すのに使うんだよ」
「そっちは?」
白い陶器の小さな容器に、手のひら大の棒。
「すり鉢と、すりこぎ。薬を混ぜるためのものだよ」
ユーディドの胸に、迫るものがあった。彼は、本当に幼い頃からの夢である、医師になったのだ。
「ヴァンは、お薬について研究していたのね」
すると、傍らで話を聞いていた学長が、そうではありません、と口を挟んだ。
「陛下が専門にされていたのは、心臓です。生まれつき心臓が弱い患者への治療を研究しておられたのですよ」
「そうなの。心臓のお医者さんって、多いのね。わたしの薬を作ってくれた方もそうでしょう? お会いしてみたいわ」
ヴァレリーは、なぜか俯く。
「ユディちゃん、それは気にしないでって、言ったでしょう……」
突然、学長がワハハ、と笑い声を上げた。
「妃殿下、なにを仰います。妃殿下のお薬を開発したのは、他でもない陛下ですよ。陛下は政務の合間を縫われて、何年もかけて薬をお作りになったのです」
ユーディドは、はっと息を吸った。窓から風が吹き込み、遮光カーテンがひるがえる。
「ヴァン……。それは、本当なの?」
ユーディドは囁くように尋ねた。けれども、彼はユーディドの問いには答えないまま、学長を睨みつける。
「その話をしてよいと、誰が言った?」
「す、すみません、陛下。失言でした」
ユーディドは、二人のやり取りには構わず、ずいとヴァレリーの前へ進み出た。
「あなたは、昔からお医者さんになりたいと言っていたわね。もしかして、それも、わたしのため……?」
恥ずかしいのか、ヴァレリーは小さく頷いて、肯定の意を示す。
「僕はユディちゃんの犬だから。ご主人さまには、元気でいてほしいんだ」
それでは、自分はヴァレリーのおかげで健康になったのだ。
ヴァレリーは、幼い頃から医師になることを志し、難関といわれる医科大学に入り、卒業後もずっと研究を続けた。彼は途方もない時間を、ユーディドのために捧げてくれた。
それは、どれほど大変な道のりだっただろうか。
ユーディドはヴァレリーの手を、そっと取った。幼い頃とは違う、大きな手。
「ユ、ユディちゃん、どうしたの? 君から、僕に触れてくれるなんて……」
彼の柔らかな声が、上擦る。
ヴァレリーの顔の熱が移ったように、ユーディドもまた、頬が赤くなるのを感じた。
――どうしてかしら。ヴァンを見ていると、胸がいっぱいになる……。
体が温かいもので満たされるのに、なぜか、そわそわと落ち着かない。
「ヴァン、わたしを助けてくれて、本当にありがとう……」
彼の腕を胸の前で抱きしめるようにすると、ヴァレリーはぴくりと肩を引きつらせて、固まってしまった。やがて、ゆっくりとユーディドの手を離す。
「本当に、気にしないで。僕がやりたくて、やったことなんだから。そんなことより、せっかくだから、他にも君に見せたい場所があるんだ。一緒に来てくれる?」
なんだろうと、不思議に思いながら、ユーディドは頷いた。
ヴァレリーの案内で塔を下り、やってきたのは学舎の裏手だった。そこにあるのは、平らな屋根の小さな建物だ。石造りの壁は白く、染みひとつない。他の建造物に比べて、ずいぶん新しそうだ。
「ヴァン、ここはなに?」
「ユディちゃんの心臓の薬を保管している倉庫だよ。キルナ草っていう薬草が原料なんだけれど、一度採取したらすぐに調合しないと効果が落ちてしまうから、製造は大学に委託しているんだ」
「そうだったの。ヴァンも、学長さまも、本当にお世話になっています」
とんでもない、と学長が破顔する。
ヴァレリーは、学長を一瞥した。
「城の在庫が少ないが、次の納品はいつだ?」
「ちょうど、キルナ草が収穫の時期を迎えております。近いうちに、必ずお届けいたします」
「急ぐように」
そう話したヴァレリーは、ユーディドに視線を合わせると説明を始める。
「キルナ草は、他の植物と違って、海に囲まれた場所でしか育たないんだ。ソルレ港からほど近い、離れ小島で栽培しているんだよ」
「わたしは、たくさんの人に支えられているのね。大学の皆さんにも、どうぞよろしくお伝えください」
学長が目を細める。
「ありがたいお言葉です。ここには、大勢の医師と、看護師が在籍しておりますから、皆に伝えましょう。きっと大喜びしますよ」
あいにく、今は授業中らしい。いつか、彼らに会うことができたらいいと思いながら、ユーディドは医科大学をあとにした。