第二話:子犬のヴァレリー
ユーディドは湯浴みを済ませると、ナイトドレスを身にまとった。七分袖に膝丈まであるワンピース型の、露出の少ない寝衣だ。
――疲れたわ……。
午前中にランベルク王国へ着いたと思ったら、ほとんど休憩を挟まずに着付けをして、午後からヴァレリーとの結婚式を挙げた。
裾の膨らみのない花嫁衣裳は簡素で、列席者のない結婚式は、なお一層簡素だった。ヴァレリーからは誓いのキスすらなく、代わりに握手を求められたときには、あまりの驚きに茫然としてしまった。
――当然よね。ヴァンとは仲良しだったけれど、お互いに恋愛感情があったわけではないもの。
彼にとって望まぬ結婚だったのだから、仕方がないと、ユーディドは自分に言い聞かせた。
おまけに、自分はもう二十歳なのだ。民ならいざ知らず、王族としては結婚適齢期を過ぎている。
それに、とユーディドは俯いて考える。
――ヴァンは、変わってしまったのかもしれないし……。
狂王ヴァレリーの噂は、ユーディドの故国であるレアンにも届いていた。謁見の間で再会したときこそ、昔そのままの人懐っこい彼だったが、身近な者であっても粛清すると有名な彼が、自分のことをどう思っているのかは分からない。
ユーディドは鏡台の前の椅子に腰かけると、タオルで髪の水滴を拭った。
ユーディドとヴァレリーは、幼少の頃、三年間だけ同じ場所で過ごした。
ユーディドの故郷、レアン王国の離宮でのことだ。ヴァレリーがレアンに来た当初、彼は六歳で、ユーディドは五歳だった。
ユーディドは生まれつき体が弱く、高原にある離宮で暮らしていた。そこへ、レアンと親交のあるランベルク王国から、「家庭の事情」でやってきたのがヴァレリーだった。
二人はたちまち仲良くなり、なにをするにも一緒だった。やがて、ユーディドの弟ルイスが加わり、更ににぎやかになったが、ヴァレリーが九歳のとき、再び家の事情により、彼は帰国することになったのだ。
それから六年後、ユーディドはヴァレリーがランベルク王国の国王として即位したことを知った。
その後もユーディドは離宮で暮らしたが、ユーディドの持病の特効薬が、ランベルク王国で開発され、健康になったのが昨年のこと。けれども、薬は継続して飲む必要があった。
すると、それまではユーディドの結婚を諦めていた父王が、どうせ治療費がかかるのなら、薬を開発したランベルク王国に嫁げばいいと言い出したのだ。
なにを思ったのか、この強引な申し出を、ランベルク王国は受け入れたのだという。
――おおかた、ヴァンを預かっていた恩でもちらつかせたのでしょうね。
ユーディドは過去を思い出しながら、小さく息をついた。そうでなければ、いくら幼なじみとはいえ、十二年も離れていた自分をヴァレリーが選ぶ理由がない。
「妃殿下、国王夫妻の寝室へご案内いたします」
寝室で、ユーディドがあらかた髪を乾かし終えると、部屋の隅に控えていた侍女が口を開いた。サナと名乗った侍女は、湯浴みから今まで、ユーディドの身辺を一切整えようとしない。
辛うじて彼女から聞きだした情報によれば、サナは二十二歳。そのほかのことは、なにも教えてもらえなかった。
栗色の髪をひっつめた彼女の、琥珀色の瞳からは、なんの感情も窺えない。
彼女は、強引にヴァレリーの妻に収まった自分のことが、面白くないのかもしれない。
「ありがとう、サナ」
ユーディドに与えられた王妃の部屋は、豪奢な居間の隣に、寝室がついている。サナが示しているのは、寝室の奥にある扉だ。
サナが扉を開けると、その向こうには薄暗い空間が広がっていた。
アラベスク模様の壁紙に、深い青の、足首まで埋まる毛足の長い絨毯。飴色の木でできた柱時計に、海辺を描いた風景画。落ち着いた雰囲気の部屋だった。
季節は春を迎えたが、朝晩はまだ冷える。暖炉の火と、いくつかの燭台の光によって照らされた部屋の中心には、巨大な寝台が鎮座していた。
天蓋付きの寝台は、小柄なユーディドの体格であれば、一度に五人は寝られそうなほど広い。
角度によって模様の浮かび上がる、深緑の織物でできた美しい天蓋を眺めているうちに、部屋の反対側から、かちゃりと扉の開く音がした。こちらに歩いてくる背の高い人物を見て、ユーディドは肩を揺らす。
「ヴァン……」
目線でサナを下がらせたヴァレリーは、ユーディドと目が合うと柔和な笑みを浮かべた。
「ユディちゃん、今日は疲れたでしょう? 急な結婚式でごめんね」
「いいえ、それはいいんだけれど……。もしかして、わたしたちの結婚を、反対している人がいるの?」
だから、性急に結婚式を挙げたのだろうか。
「まさか。ユディちゃんとの結婚を、誰に反対させるものか。そうじゃなくて、できるだけ早く結婚したほうがいいと思ったんだ」
その理由を知りたいのだが、ヴァレリーはもぞもぞと口を動かすだけだ。
「ユディちゃん、花嫁姿の君は、とても綺麗だったよ。化粧を落とした今の君は、とても可愛い」
「あまり、見ないで……」
レアン王国は島国なので、ランベルクまでは船旅だった。揺れる船内ではあまり眠れなかったから、きっとくまができているだろう。
「さあ、横になって」
促されて、ユーディドはおずおずと寝台の端に腰かけた。ひどく、落ち着かない気持ちになる。
父王が突然言い出した結婚話、それより以前は病弱な体ゆえ、婚姻を望めなかったために、初夜の作法など知らない。王妃としての義務だといえばそれまでだが、心細さが募った。
「あ、あの、ヴァン……」
「いいから」
とん、と胸を押されて、ユーディドは寝台に仰向けになった。さらさらとした肌触りのシーツに、ユーディドの金髪が広がる。
なにをされるのだろう、とぎゅっと目を閉じていると、服の上から、なにかがぺたりと胸に押し当てられる。
「なっ、なにをしているの、ヴァン!」
飛び起きると、聴診器を耳につけたヴァンが、頭を抑えている。
「声が大きいよ、ユディちゃん」
どうやら、彼はユーディドの胸の音を聴診していたらしい。聴診器を当てたままユーディドが大声を出したので、大音声で耳に響いたのだろう。
「ご、ごめんなさい。でもなぜ、そんな物を持っているの?」
「もちろん、君を診察するためだよ。ユディちゃんは元気になったとはいえ、経過観察は必要だから。僕が主治医になるね」
「そういえば、ヴァンはお医者さんの免許も持っているんですってね。小さな頃からの夢も叶えたんだもの、すごいわ」
離宮で共に暮らしていたとき、彼がしきりに、医者になると話していたことを思い出す。
狂王ヴァレリーは、政敵を効率的に拷問するために、医学を身に着けた。
そんな噂があることをユーディドは知っていたが、これについては信じていなかった。無邪気な子どもの目標が、そんな恐ろしい理由によるものだとは思えない。
ユーディドがそんなことを考えていると、再び胸を聴診していたヴァレリーが、目を細め、唇を引き結んだ。まるで、涙をこらえているかのようだ。
「ユディちゃん、本当に元気になったんだね。僕、嬉しいよ」
ヴァレリーの言葉に、ユーディドは唇を綻ばせた。
「ええ。いつか、薬を開発してくれた人に、直接お礼を言いたいわ」
「気にしなくて大丈夫だよ、僕から君の気持ちを伝えておくから。さあユディちゃん、もう休んで」
「ヴァンは?」
ユーディドは尋ねた。穏やかに光を湛える彼の瞳からは、なんの欲望も感じられない。
「僕はこの部屋の隣にある、自分の寝室で寝るよ。安心して、子犬がご主人さまに手を出すことはないよ」
「気遣ってくれてありがとう。でも、あなたはそれでいいの?」
自分はランベルクに嫁いだ身なのだ。ユーディドが問うと、ヴァレリーは首肯する。
「もちろん。僕はユディちゃんの子犬であることに誇りを持っているから、どうかこのままで」
お休み、と言い残して、ヴァレリーは部屋を出ていった。
「子犬の誇りって、なにかしら……」
不思議に思ったユーディドだが、ヴァレリーの態度は、離宮で過ごしたときそのままだ。狂王の噂に惑わされず、彼を信じようと、ユーディドは思った。
瞼を閉じるとすぐに眠気がやってきて、ユーディドは夢の世界へ引き込まれていった。