スヴェイダ・ヴァトン【3】
「真夜」
その声にくんっと現実に引き戻され、はっとする。
気づくと全身にじっとりと気持ちの悪い汗をかいていた。
私が自分の暗澹たる想念に囚われていると、頭上から最近ようやく聞き慣れてきた、ぶっきら棒だがどこか優しい低めのテナーボイスが私を呼んだのだ。
どうも私は茫然と立ち尽くしていたらしい。
ふとした心の間隙に、過去の妄執が私の胸を冒してくる。
目の前がぼうと霞み、ショックで頭もくらくらしてきていた。
早く忘れたい、あんな事───
見上げると、普段の彼からは想像もつかないような困惑げな表情をその白貌に乗せていた。
最近カイルは私の前でも色んな表情を見せてくれるようになっていて、それが警戒心と猜疑心の塊みたいな相手が、緩やかに心を許してきてくれてるんだなという実感を私に与えてくれていた。
「どうしたんだ? 顔色が悪いな───具合悪いのか?」
黒髪の青年はそう言いながら私の額に左手を伸ばし、その掌をすっと押し当てる。
ひんやりとした滑らかなその感触が心地良い。
「……大丈夫。いつも気を遣わせてごめんね」
「こんなことで謝るな。どっちが気を遣ってるんだよ。歩けないんだったら───」
そう言いながらカイルは私に向かって両手を差し出してきたので、私は慌てて後退りしながら自分の両掌を胸元でひらひらと左右に振る。
「歩ける歩ける!」
いかんいかん!
もっとしっかりしないと───
これから私の従魔たる黒い火竜に会いにゆくのに、だらしない主の姿は見せられないし、大変な目に遭ったばかりの相手におかしな心配もかけたくはなかった。
「……真夜、また変な気ぃ回してないか? 俺はあんたが無理をしてそれで倒れられる方がよっぽど困るんだからな。羽根みたいに軽いあんた一人抱えるぐらい、俺にはどうって事ないんだよ」
私はその言葉に妙な擽ったさを覚え、何だか訳の判らないほんわか気分を味わっていた。
羽根みたいに軽いは言い過ぎかも。
「そっか……だよね。カイルってめちゃくちゃ強いもんね───その、ちょっと昔の嫌な記憶が蘇っちゃって………そのせいでちょっと、ね。我ながら情けなくって、堪らなくなっちゃったんだ」
思わずつい口も滑る。
この世界で前の世界の話したところで意味ないのに。
「………そうか。向こうの世界じゃ大変だったんだな、真夜は。今は俺たちがいる。一方的に無理矢理呼んだんだ。だから俺たちには何も遠慮なんかしなくていい」
その朴訥ながら真摯な言葉の内容と、少年のようにやけに純朴そうな邪気のない微笑みに、心身ともに弱り気味な私の脳髄を一気に震わせた。
うわー、やめてよー!
私はかあっと頬が熱くなるのを覚え、焦って自分の両手で覆ってそれを冷やすのに尽力する。
今、黒髪の青年に惨めに縋ったら、二度と離れられなくなりそうでとても怖かった。
そして更に思った。
確かヴィンセントさんがそんなような話を匂わせていたけど、カイルもかなりの苦労人なんじゃないか、と。
私は何とか縋りつきたくなる衝動を抑え、苦笑いしながら口を開く。
「うん、ありがと。本当に駄目そうだった時にお願いすr───って、わわっ ⁉」
それを言い終わる前に、私は瞬く間に軽々と抱き上げられていた。
やっぱりこの人って、私の言う事聞いているようで全く聞いてない気が……!
私がそれに目を白黒させていると、黒髪の青年はそのまま私の右項付近に顔を埋めるようにしてから口を開いた。
強襲する擽ったさに、途端に私はびくりとする。
「何であんたはそんなに頑ななんだよ………普通に俺に頼れよ。そりゃ、最初にあんな酷い態度とってたし、怖がらせてしまったせいなのは判るけど───今は、真逆以上なんだから、な」
そう言うと、彼はそのまますうっと大きく息を吸い込み心做しか満足そうな表情になったかと思うと、私が止める間もなくこの鬱蒼とした森の中を全速力で走り出していた。
そのジェットコースター張りの勢いに、私は久しぶりに自分でも驚くような金切り声を上げ、無条件でカイルの長めの首根っこにしがみつく。
だってそうでしょう───?
垂直落下よりはまだ平気だったが私から見る前方の風景は、ただただ重苦しいばかりの草木がみっしりと生えた場所でしかなく、彼はその植物の壁とも言うべき箇所に向かって猛突進していっている様にしか見えないのだから。
暗い森の中を、私の悲鳴がバンシーの如く響き渡っていた。
そんな私の悲鳴が止んだのは、烙印の沼に到着する直前であった。
蒼然とした深い森にぽっかりと空いた寂寞な場所にそれはあった。
そこでは、私の従魔である黒い火竜たる茶髪の竜人が、柔和な笑顔を湛え私たちを出迎えてくれたのだった。
「いらっしゃい、メグ、カイル───待ってたよ」
今回のエピソードタイトルは古ノルド語直訳で「( 罪人の烙印などを )焼き付ける水」です……多分諸々間違ってると思いますが
古ノルド語に「沼」が無かったのでほんと困りました
そんな訳で何とぞよしなに願います
【’24/05/08 誤字脱字加筆修正してます】
【'25/04/11 誤字修正しました】