アルフェマフトゥル【5】
魔術士ファーマンの分身だったミッシャの体から、蝉が羽化するかのように───いや、実際はそんなに美しいものではなく、ミッシャの血肉や骨を引き裂きながらその背から何かが出現しようとしていた。
辺りに独特の饐えた臭いが漂い始め、その眼前の地獄絵図の如き恐ろしい現象に、私はなす術なく青ざめ唖然としてしまっていた。
前で私を庇ってくれていた私の従魔たる黒ジャガーが、尻尾でぽんぽんとそんな私の背中を叩く。
『真夜、少しずつ後ろに下がれ』
眼の前で繰り広げられる怪異と惨劇から視線を逸らさず、弥七は恐怖で硬直しかけた私に思念伝達で的確な指示を出してくる。
『わ、判った───ごめん、弥七っつぁん。情けない主で』
『何言ってんだよ。ちゃんとあんたはオレがトスリッチ教アシレマ教会本部で死にそうになった時、自分の身の安全も顧みずにオレやあそこで迷い苦しんでたトスリッチ教信者の子供達まで助けてくれてたろ? オレ様には真似できない真夜の力だ。あんたに出来ない事は、出来るヤツが補えばいい。それで充分だろ』
えー、やめてよ、こんな時にそんな良い事言うの……!
黒い使い魔にそう力強く励まされながら、何だか泣きたい気持ちになっていた。
でもどんなにそれに感動していたとしても、目前の異常事態に泣いてなどいられない。
私も弥七に倣い、どんなに悪心が込み上げきても何度も生唾を音を立てて飲み込みながら、じわじわと後方に下がってゆく。
ところが、何を思ってかクリーム色っぽい熊は寝室の出入り口に詰まったまま、目下の奇っ怪な羽化を眺め続けていた。
私はその事実にぎょっとし、慌てて北極熊と灰色熊のハイブリッドな使い魔に思念で指示する。
『レラジェもそこから離れて! 何が起こるかわからないから、巻き込まれないよう距離を───』
『ご心配なく、主。私は貴方を体を張ってでもお守りするよう、魔法使いリワから言い付かっております故』
いやいや、だからって必要以上の危険は冒さないで欲しいんですが……!
はっきり言ってエゴだけど、自分が寝覚め悪くなるから本気でやめて欲しい。
それならおかしな状況に陥る前に何とかしないと───!
そう思いながらぐるぐると考えを巡らせていると、ミッシャの背中から迫り出してきた赤黒い物体から、地の底より涌き上がってくるかの如き声音の毒を含んだ言葉が私に向かって投げかけられてきた。
「……ほんっと君は、胸クソが悪くなるぐらい良い娘ちゃんだな」
そう言いながらミッシャの背中を破って出てきたそれは、薄い被膜に覆われたまま猛烈なスピードで確実に人間の姿を形成しつつあった。
ま、まさか───⁉
私は戦慄する。
バリバリバリバリッ………‼
到頭それに耐えきれなくなったように、羊膜にも似た被膜が激しい裂開音を立てて破れたかと思うと、そこから爆ぜ飛ぶように私達に向かって黒く禍々しい魔力を帯びた人影が襲いかかってきた。
私は反射的に魔杖をその人影に向けて叫ぶ。
「畏怖のヘルム!」
ネオングリーンの光の印章が私達の前に浮かび上がるが、それをいとも容易く打ち破り無数の黒い腕が私達に向かって伸びてくる。
だがそれと同時にその影の背後からも猛烈な破壊音が響き渡った。
ドコォオォオォ……………ン!
白っぽい大きな熊が出入り口の壁を打ち壊しながらその黒い人影を薙ぎ払う。
鈍く重い打撃音と共に、寝室の窓を粉々に破って黒く淀んだ人影が吹っ飛んでゆく。
あぁあぁ………里和ちゃんが見たら何て言うか。
その惨状に恐すぎて我ながらかなりおかしな思考回路になっていた。
しかし───
何事も無かったかのように薄闇の中、濃紺のピークドラペルのタイトなスーツを長身で筋肉質な体に纏った青年が、ゆらゆらと不自然に空中に浮かび上がる。
ダークブロンドのツーブロックヘアをふんわりとしたオールバックにし、鷲鼻で一文字眉に奥目がちな彫りの深い容貌、酷薄そうな薄い唇が耳元まで裂けるが如くに笑いの形を作ってはいたが、その怪しく輝くターキーレッドの瞳は一切笑ってなどいなかった。
憐れな分身のミッシャの中から現れたのは───
「レラジェ、久方振りに会ったのに嘗ての主人に対して随分ツレない態度だな」
【’24/07/09 誤字訂正とかなり加筆修正しました】