第92話 誕生日の相談
「ん……」
目を覚ませば、夏休みの間で慣れたリビングの天井が視界に映る。
昨日は散々葵に我儘という名の揶揄いをされ、精神的に疲れて夜更かしする事なく寝てしまった。
流石に揶揄い過ぎたと思ったらしく、葵が着替えを終えた後は大人しくしていたというのも早寝した要因の一つだ。
ちらりと時計を見れば、いつもよりも早い時間を針が指している。
「……葵の体調は大丈夫なのかねぇ」
色々あったが、葵が風邪を引いたのは間違いない。
昨日の夜にはある程度元気になったが、今日がどうなのかは不明だ。
彼女がまだ寝ていたら後にしようと思いつつ、自室をノックする。
どうやら起きていたようで「どうぞー」と軽い声が返ってきた。
扉を開ければ、葵が寝転んだまま空へと顔を向けている。
「おはよう、葵。入るぞ」
「おはようございます、せんぱい。前々から言いたかったんですが、わざわざノックしなくてもいいですよ。せんぱいの部屋なんですし、私が居ても気にしないでください」
葵が起きているかいないかに関わらず、彼女が居る時はマナーとしてノックしていた。しかし、これからは不要らしい。
空を気遣ってくれるのは嬉しいが、女性としてどうなのかと言いたくなる。
「……じゃあ、次からは容赦なく入るからな。葵の寝顔をバッチリ見ても文句言うなよ?」
「何度か見られてますし、別にいいですよ。でも、間抜けな顔してても馬鹿にしないでくださいね?」
「しないって。葵の寝顔は可愛いからな」
気持ち良さそうな顔で静かな寝息を立てている時もあれば、だらしなくお腹を見せている時もある。
それでも可愛いと思えるのだから、これが惚れた弱みというものなのだろう。
素直な感想を口にすれば、整った顔が僅かに赤らんだ。
「そう、ですか」
「それで、体調はどうだ? 寝る前と比べて変わったか?」
「もうばっちり健康体になりました! 寝すぎて朝早くに目が覚めて、ごろごろしてたくらいです!」
「……良かったな」
いつも通りの溌剌とした笑顔からは、風邪の体調の悪さが感じられない。
ぐっと親指を立てられたせいで、先程まで心配していたのは何だったのかと脱力してしまう。
とはいえ実際は風邪が治っていない可能性もあるので、ベッドのすぐ傍に置いている体温計を手渡した。
「一応計っとけ。虚偽の報告をしたら分かってるよな?」
「うっす、分かってまっす!」
風邪が治ってテンションが上がってるのか、葵が敬礼で応えた。
急いで回れ右をすると、ごそごそと布が擦れる音が聞こえてくる。
何となく居心地の悪さを感じていると、すぐに電子音が鳴った。
「何度だ?」
「三十六度です。どうぞ!」
見ろと言わんばかりに差し出された体温計には、確かに言葉通りの体温が表示されている。
完治したという確証が取れ、ようやく完全に肩の力が抜けた。
「よし。ならベッドから解放だな。でも無理はしない事。いいな?」
「はーい! じゃあまずはベッドのシーツを洗濯だぁ!」
窓は開けていたものの、エアコンを点けずに過ごさせたせいで汗を搔いたのだろう。
それがベッドを汚すのが嫌だったらしい。
意気揚々と動き始める葵の姿に微笑を浮かべ、リビングへと向かうのだった。
「はふぅ……。やっぱりお風呂はいいですねぇ」
空の自室の片付けた後、葵はシャワーを浴びて汗を流した。
今は以前と同じく半袖シャツとハーフパンツというラフな姿で寛いでいる。
「一日風呂入らないと体がベッタベタになるもんな」
「ですね。タオルで拭いて多少はマシになりましたが、お風呂とは爽快感が違います」
晴れやかな笑顔を浮かべているので、余程汗を流したかったのだろう。
ソファに凭れてのんびりとしている姿は、昨日風邪を引いた人間とはとても思えない。
とはいえ、彼女が風邪をすぐに治したのは良い事だ。
折角なので、昨日から考えていた事を質問させてもらう。
「そうだ。保険証で見ちゃったけど、葵の誕生日ってもうすぐだろ? 何か欲しい物とか無いか?」
「はい? ああ、そうでしたねぇ。忘れてました」
本当に忘れていたようで、葵がぽんと手の平を合わせた。
彼女の家庭事情からすると、誕生日を祝われたのが相当前なのだろう。あるいは、一度も祝われていないかもしれない。
質問した側である空の胸が痛むのとは反対に、葵が顔を歓喜に彩らせる。
「もしかして、祝ってくれるんですか!?」
「そのつもりだけど、誕生日プレゼントだけはさっぱりだったんだ。だから、買いに行かないか?」
葵は我儘を言ったり空を振り回すが、決して物をねだったりする事は無い。
だからこそ、こういう時は何をプレゼントすればいいか分からないのだ。
昨日一日悩んだが思いつかなかったので、苦肉の策として葵に選んで買ってもらう事を提案した。
あまり嬉しくないのか、彼女が顔を曇らせる。
「うーん。別にプレゼントなんて無くてもいいですよ?」
「そっちか。てっきり一緒に買うのが有り得ないのかと思ったぞ」
「せんぱいが買った物なら何でも嬉しいですけど、買いたい物を好きに買っていいのも良きです」
「何だ。じゃあプレゼントが要らない訳じゃないんだな」
ちぐはぐな葵の発言だが、何を考えているかは大体分かった。
どんな形であれプレゼントは欲しいが、無くてもそれはそれで構わないのだろう。
あるいは、金を使うのでいつものように我儘を言いたくないのか。
空の発言を受けてぎくりという風に顔を強張らせたので、指摘は当たっていたらしい。
「……そりゃあ、まあ、欲しい、ですけど」
「なら遠慮すんなって。買いに行くでいいか?」
「はい。ありがとう、ございます」
ふにゃっと緩んだ笑顔に、こういう時に怖気づく葵の不器用さを見て、彼女の頭に手を伸ばす。
抵抗する事無く空の手を受け入れた葵は、しばらく撫でられるがままになっていたのだった。




