第91話 久しぶりの葵の部屋
「マジもマジです。そこの財布の中に鍵があるので、それを使ってください」
空の呆けたような声に、楽し気な笑顔を浮かべた葵が応えた。
彼女の為に動くと決めたのだから、ここで辞める事は出来ない。
とはいえ、下着と同じく簡単に行動出来ないのも確かだ。
「いや、男が一人で女の部屋に入るんだぞ。どう考えても駄目だろうが」
「私は普段せんぱいの家に勝手に入ってますし、逆になっただけでしょう?」
「そうだけど、そうじゃないだろ!」
葵の指摘はごもっともだが、女性の部屋に一人で入るなど、悪さをしてくれと言っているようなものだろう。
勿論、変な事をするつもりはないが、状況が状況だ。
空の理性が崩壊する可能性は捨てきれない。
悲鳴のような声を上げると、葵がこてんと可愛らしく首を傾げた。
「もしかして、部屋を漁りますか? こっちに持って来てない服とか下着とかありますし、男性としては見たいですよねぇ」
「バッチリ分かってるなら変な事を言うんじゃない!」
「事実を述べただけですよ。それに私は漁られても構いません」
「そこは構えよ!」
「えー? いやもう、ホント今更でしょうに。取り敢えず着替えは私の部屋にあるので、適当にタンスの中とか探してくださいな」
空の突っ込みに付き合ってられないと判断したのか、葵が話を強引に進めた。
声を張り過ぎたのと心臓に悪過ぎる発言の多さに僅かに息が乱れ、心臓が激しく鼓動している。
「……それを世間では漁るって言うんだが?」
「だーかーらー。私は構わないって言ってるじゃないですか。ほら持ってきてください。着替えはしたいですけど、多少戻るのが遅くなっても構いませんので」
空を追い払うかのように手を振って退出を促された。
多少遅くなっても構わないのは、探すのに苦労するからなのか、それとも空が邪な事をしてもいいからなのか。
何にせよ意見は受け付け無さそうなので、仕方なく葵の財布から鍵を拝借し、彼女の家に向かう。
鍵を開けて中に入れば、甘い匂いが香った。
「……いやもう、何のつもりなんだか」
我儘を言って甘えたように思えるが、今回はどうにも違う気がする。
もしかすると、空への誘惑なのかもしれない。
やり方が斜め上のような気がするものの、彼女を意識してしまっているので、成功しているのが少しだけ悔しい。
溜息をつきつつ久しぶりの葵のリビングを見渡すが、相変わらず殆ど物が無かった。
埃っぽくないのは、偶にだが葵が日中の間に掃除しているからだろう。
「ここには無いよな。となると、言ってた通り葵の自室か」
何度か葵の家に入った空でも、決して足を踏み入れなかった場所。
その扉の前に立って、勢い良く開けた。
夏休み前まで葵の家の中で一番彼女が生活していた場所だからか、甘い匂いが濃い気がする。
とはいえリビングと同じくあまり物が無く、備え付けのクローゼットに棚やベッド、そして勉強机くらいしかない。
どくどくと心臓の鼓動が弾む中、仕方のない事だと自らに言い聞かせてクローゼットを開けた。
「……あんまり服を持って無いんだな」
女性は大量の服を持っているイメージだったが、どうやら葵は違ったらしい。
それでも不足しない程度には持っているので、これが必要最低限なのだろう。
問題は、ここに部屋着が無い事だ。
「次は棚か。頼むから外れを引くなよ」
出来る事なら、一度で部屋着を引き当てたい。
しかし空の願いも虚しく、最初に棚から引っ張り出した箱には、色とりどりの薄い布地があった。
「っ!? ああもう、心臓に悪いんだよぉ……」
葵が傍に居ないので、悪い事などいくらでも出来る。
頬が熱いのを自覚しつつ、沸き上がる欲望を抑え込んで箱をしまうのだった。
「あ、おかえりなさーい」
「た、ただいま……」
空の自室へと戻ると、にまにまとした笑顔が出迎えた。
空のメンタルは家に戻った時点で疲弊しきっており、先程空のリビングで葵の下着を見繕った際は僅かに心臓が跳ねた程度だった。
なのでもう限界だと、手に持っている部屋着と下着を葵へ渡して大きく息を吐き出す。
「いやー、疲れてますねぇ。女性の部屋を漁るのはどうでしたか?」
「ホンッッットに大変だった。俺がどれだけ頑張ったと思ってるんだ……」
勿論、探すのを頑張ったのではない。部屋着ならば棚を漁り始めるとすぐに見つけられたのだから。
問題は、葵の目が無い所で下着を触れたり、彼女のベッドが目の前にあった事だ。
正直な所、あとほんの少しでも空の欲望が強かったら、理性が負けて色々と堪能していただろう。
がっくりと肩を落とすと、葵が何故か不満そうに唇を尖らせる。
「その様子だと、何もしなかったみたいですね。強情というか、鋼のメンタルというか」
「何かして欲し――いや、何でもない」
「私のベッドにせんぱいがダイブしてもおっけーでしたよ?」
「俺が飲み込んだ言葉をもっと詳しく言うな!」
どうやら、空のやりそうな事は見抜かれていたらしい。
悲鳴を上げるとくすくすと軽やかな笑みが返ってきた。
このままだと葵の気が済むまで弄られそうなので、くるりと身を翻す。
「ああもう、後は濡れたタオルだよな! 準備するから後は自分でやってくれ!」
「せんぱいが体を拭いてくれないんですか?」
「お願いですから。お願いですから、これ以上は勘弁してください…………」
もう理性の限界だと、年上の威厳や男としてのプライドを投げ捨てて泣きついた。
流石に追い詰め過ぎたと判断したようで、葵が満足げな顔で頷く。
「分かりましたよ。すみませんが、濡れタオルだけはお願いしますね」
「……うっす」
「それと、着替えた普段着を洗濯物に放り込むのもお願いします」
「全然濡れタオルだけじゃないじゃんかよぉ……」
まだ空の心を擽るのかと、情けない声を出しつつ自室から退散した。
一度心を落ち着かせたくはあったが、葵が体を拭きたいのは本音だろうと、すぐにタオルを用意する。
彼女に渡して再び自室から退散し、暫くすると呼ばれたので脱いだ服を受け取った。
すぐに洗濯籠へ放り込もうと回れ右をする空の視界の端で、葵が頬を朱に染めてはにかむ。
「すっごく恥ずかしいですけど、ちょっとくらいなら、あれこれしても許してあげますからね?」
「絶対しないからなー!」
急いで洗濯籠へ向かい、葵の服を叩き込む。
ふわりと香った甘さと汗の混じった匂いにどうしようもなく心臓が跳ね、ずるずるとその場にへたり込むのだった。




