第90話 看病
「ごちそうさまでしたぁ」
おかゆを全て空の手で食べ、葵が満足げな笑みを零した。
「お粗末だ。後はゆっくり寝るんだぞ。エアコンは使うなよ」
「えぇ―。暑いんですが」
「病人はしっかり寝て汗を搔くのが仕事だ。換気の為に窓を開けるので我慢しろ」
「……はぁい」
不満たっぷりといった表情ではあるが、風邪を悪化させる訳にはいかないと判断したようだ。
葵が頷いて布団を被る。
その姿を確認して自室を出るが、強く言い過ぎたのではないかと心に靄が掛かった。
皿の片付けをしても気分は晴れなかったので、がしがしと頭を掻いて自室へと戻る。
腹が膨れたからか、葵がとろんと蕩けた目で空を見つめた。
「せんぱい……?」
「まあ、なんだ。葵が寝るまではここに居るよ」
「ほんと、ですか?」
病人を突き放すような発言のお詫びとして提案すれば、葵が嬉しそうに顔を綻ばせる。
もしかすると、風邪で心が弱くなっていたのかもしれない。
「ああ。だから、安心して寝ろ」
「なら、おねがいが、あるんですが」
「うん?」
なるべく葵に近い方が良いだろうとベッドの端に近寄れば、布団の中から僅かに赤みがかった手が伸びて来た。
その手は何かを欲しがるように、空へと手の平を広げる。
「てを、つないでほしいです」
「お安い御用だ。ほら」
「えへへ……」
風邪で少しだけ熱い手をしっかりと掴めば、安心したかのように葵の顔が緩んだ。
もう片方の手を彼女の頭に伸ばし、美しい金髪を撫でる。
すると気持ち良さそうに目が溶け、ゆっくりと瞼が落ちて来た。
「きもちー、です」
「そりゃあ良かった。今日くらいはゆっくりしてくれ」
「ふふ。いつも、ゆっくりしてますよ」
擽ったそうに微笑を零し、葵が繋いだ手に軽く力を込める。
感触を確かめるような仕草に小さな笑みを零した。
「……かぜなんて、こどものころ、いらいです」
「体が丈夫なんだな」
「はい。ばかは、かぜをひかない、ってやつですよ。……ひきました、けど」
「こら。自分の事をそんな風に言うな」
「あう」
葵の頭を撫でている手で額を突くと、彼女が辛そうに顔を顰めた。
もしかすると頭痛があったのかもしれないと、慌てて撫でるのに戻る。
すぐに葵の表情は戻ったのだが、僅かに影がある気がする。
「あのころは、おとうさんも、おかあさんも、……おばあちゃんも、わたしを、しんぱいしてくれました」
「そう、なのか」
「もう、しんぱい、してくれません。わたしが、ばかなことを、したから」
「……」
空という味方を得た今でも、親や祖母に見限られた事がトラウマになっているのだろう。
現在葵に一番近い存在である空でも、葵の痛みを全て癒せはしない。
けれどほんの少しでも力になれればと、熱を持った頬に触れた。
「俺は、葵を絶対に見限らないからな」
葵が馬鹿な事をしたとは思っていない。
けれど、ここで彼女の言葉を訂正するのは違う気がする。
迷いなく断言すれば、潤んだ葵の瞳が一際強く揺れた。
「……せんぱい、やさしすぎます」
「そうか? 良く分からん」
「ふふ。……ほんとに、みかぎらないで、くださいね」
「ああ。勿論だ」
空の言葉に安心したかのように、葵の瞳が長い睫毛の奥に隠れる。
すぐに規則正しい寝息が聞こえて来たので、もう空がここに居る理由はない。
けれど繋いだ手を解けなくて、傍に居たくて。
エアコンを点けないせいでじんわりと汗をかきつつも、暫く葵に寄り添っていたのだった。
「お腹いっぱいですぅ……」
「晩飯もしっかり食べたし、多少熱も下がってる。この調子だと明日には治りそうだな」
葵に暫く寄り添った後、空はリビングに移動して時間を潰した。
そして夜になって葵を起こし、晩飯を食べさせて今に至る。
彼女は随分楽になったようで、まだほんのりと頬は赤いが元気は取り戻していた。
「ですねぇ。折角の夏休みを何日も風邪で無駄にしたくないので、意地でも治します」
「その意気だ。それじゃあ後は安静にしてるんだぞ。すぐ寝ろとは言わないけど、ベッドで横になってろ」
晩飯時まで寝ていたのだ。今は目が冴えているだろう。
なのでせめて安静にしてるようにと告げると、葵が申し訳なさそうな上目遣いになった。
「横にはなりますけど、お風呂に入っていいですか?」
「却下。病人を風呂に入らせる訳ないだろ」
「でも、寝汗で体がべたべたなんですよ。ぶっちゃけ気持ち悪いです」
「……気持ちは分かるけど、風呂は駄目だ」
風呂に入って風邪がぶり返したら最悪だ。
とはいえ夏場に布団を被っていたのだから、寝汗が酷いのは理解出来る。
心苦しくはあるが首を振ると、葵が何かを思いついたようで唇の端を釣り上げた。
何となく嫌な予感がし、背筋がぶるりと震える。
「じゃあ、体を拭いたり着替えたりするのはいいですか?」
「まあ、それくらいなら」
「言質取りましたからね。という訳で、せんぱい。濡れたタオルと私の服、それと下着を用意してくださいな」
「…………何だって?」
体を拭くタオルを用意するのは簡単だ。むしろ喜んで用意する。
しかし、下着類を含めた着替えを空が用意するのは駄目だ。
聞き間違いかと思って首を捻るが、葵は微笑を浮かべたままだ。
「せんぱいがお風呂に入らせてくれないんですから、タオルだけじゃなくて着替えも用意してくれますよね?」
「一応聞くが、下着ってあの下着だよな?」
「むしろあの下着以外に何があるんですか? ああ、下着で分からないならショーツとブーー」
「分かった! 分かったからストップ!」
堂々と名前を宣言され、羞恥がぶわりと沸き上がった。
慌てて葵の言葉を遮ると、彼女がくすくすと楽し気な笑みを零す。
「そんなに慌てなくていいじゃないですか」
「慌てるに決まってるだろうが! 下着はリビングにあるんだし、葵が取ってくればいいだろ!」
「えー。病人をベッドから動かすんですか?」
「手洗いに行った時は割としっかり歩いてたのによく言えたな……」
明らかに空を揶揄っているし、甘えているのだろう。
嬉しくはあるものの、要求が要求なので頭痛を覚える。
突っ込みを入れるが、彼女は惚けた顔で首を傾げた。
「手洗いには根性を出したんですよ。という訳で、いいですよね?」
「それはむしろ俺が聞きたいんだが。ホントに良いのか?」
「はい。洗濯前だったり、汚れが取れてるか分からない干してる状態ならまだしも、片付けた下着ですからね。というか漁ってもいいって言ったでしょうに」
「ああもう、分かったよ。じゃあ適当に持って来るからな」
覚悟を決めて立ち上がり、リビングへ向かう。
しかし途中で大事な事に気付き、身を翻した。
「なあ。ちゃんとした部屋着って葵の家にしか無いよな?」
「はい。なので、せんぱいに取って来てもらおうかと」
「…………マジ?」
試練に次ぐ試練に、呆けたような声が出てしまったのだった。




