第88話 悪戯
「あ゛ぁ~」
葵が浮き輪に腰を落とし、体の力を抜いて幸せそうな声を漏らした。
ナンパを退けてから昼飯を平らげ、それから空と葵は流れるプールに来ている。
彼女はすっかり機嫌を直したようで、ふにゃっと緩んだ表情をしていた。
「すげー声が出たな」
「こんなに極楽なら出ますよぉ。疲れた体に水の冷たさが染み渡りますねぇ……」
「気持ちは分かるけど、寝るなよ」
午前中に散々はしゃいだのだ。流れに身を任せてのんびりするのは最高だろう。
けれど蒼の瞳がとろみを帯びたので、流石に心配になった。
念の為に釘を刺すが、葵は微笑を浮かべながらのろのろと小首を傾げる。
「せんぱいが助けてくれるでしょうから。大丈夫じゃないですかぁ?」
「それでもだ。大体、こんな所で寝たら俺に悪戯されるぞ」
葵から目を離すつもりはないし、何かあれば絶対に助ける。
けれど、プールというはしゃげる場所で無防備な表情を見せられると、ちょっかいを出したくなってしまう。
今にも寝そうな彼女を起こす意味でも忠告すると、くすくすと軽やかに笑われた。
「いいですよぉ。どうぞー?」
「……許可したな? それじゃあ遠慮なく」
これまでは日和っていたが、折角のチャンスなのだ。
どくどくと心臓の鼓動が弾む中、浮き輪からはみ出している折れそうな程に細い足首を掴む。
滑らかな感触とあまりの細さに堪能していると「あ、あの……」と戸惑ったような声が耳に届いた。
葵の顔を見れば、少しは眠気が飛んだようで目に光が宿っており、ほんのりと顔を赤くしている。
「足、なんですか?」
「顔とか上半身をべたべた触る訳にはいかないからな」
「いやまあ、胸を触られたらびっくりしますけど、どこを触っても構わないですよ?」
「驚くよりも嫌がれって。というか下手な所を触ると俺が捕まるっての」
あくまでもじゃれ合いの範疇にしなければ、空の首に縄が掛かってしまう。
頬を引き攣らせながら提案を拒否すると、残念そうに唇を尖らせられた。
「むぅ、確かにそうですね。なら取り敢えずせんぱいは足フェチという事にしておきましょう」
「…………何だって?」
突然性癖を断定され、首を傾げる。
葵はというと、悪戯っぽく目を細めて笑った。
「だってそうでしょう? 悪戯するって言って触ったのが足なんですから。そんなに好きなんですか?」
「いやまあ、好きか嫌いかで言ったら好きだけどさ。細いし綺麗だし、すべすべだし」
男を魅了する足なのは間違いなく、葵の言葉を否定出来ない。
短い誉め言葉を羅列すると、彼女の顔が甘く蕩けた。
「えへへ。そう言ってもらえると、頑張ってるかいがありますねぇ」
「でも足フェチは納得がいかん。帰ったら覚えておけよ?」
今触れるのは足だけだが、家に帰ればそうではなくなる。
揶揄った仕返しに宣言したのだが、葵は嬉しそうにはにかむだけだ。
「はい。期待してますね」
葵を動揺させるのは簡単ではないと、思い知るのだった。
「すぅ……」
「いやまあ、分かってたけどさ」
電車に揺られつつ隣を見れば、葵が空の肩に凭れて寝息を立てている。
ある程度流れるプールを楽しんだ後、少し早いが切り上げて帰る事にした。
やはり疲れたようなので、あのまま夕方まで遊んでいても楽しめなかっただろう。
その判断は正解だったが、見ず知らずの人に葵の寝顔を見せたくなかった。
とはいえ空の我儘で彼女を起こす訳にもいかず、周囲から向けられる視線ともやもやした感情に耐え続ける。
暫くすると家の近くの駅に着きそうになったので、葵の体を揺すって起こした。
「ほら葵、起きろ。降りるぞ」
「……あぃ」
流石に駄々を捏ねていられない状況なのは分かっているようで、葵はのそりと立ち上がる。
しっかりと彼女の手を掴んで離れないようにし、駅に降りた。
すると葵は空の腕を抱き締め、寄り掛かってくる。
「後はよろしくお願いしますぅ……」
「何がよろしくだ何が。寄り掛かっていいから自分で歩け」
「うぃ」
半分寝ているような状態の葵を引き摺るようにして家に帰り着いた。
葵はすぐに空のベッドにダイブし、幸せそうに目を閉じる。
「せんぱいの、ベッド……。さいこぅ……」
「全く……。気ままな奴だなぁ」
葵に振り回されるのはいつもの事なので、言葉とは裏腹に空は微笑を浮かべていた。
それでも、彼女をここまで連れて来たご褒美は欲しい。
流れるプールでの揶揄いの事もあり、興味があるのは足だけではないと、頬に手を伸ばす。
「ん……」
程よい弾力のある頬を撫でると、葵が鼻に掛かったような声を上げた。
晩飯時までは寝かせるつもりなので、起こさないようにゆっくりと撫で続ける。
空とは違う滑らかさに、虜になってしまいそうだ。
「……俺が手を出したらどうすんだか」
一応、空と葵はまだ恋人ではないが、それに近い物になっている。
その理由は空が葵を心から信用していない――離れて行く可能性を捨てきれていない――からだ。
勿論、今も心の隅にそんな考えはあるものの、全てを吹っ飛ばして葵を求めたらどうなるのだろうか。
最近の葵の態度から察すると喜んで受け入れそうだが、空としてはきちんと区切りを付けたい。
そうでなければ、溺れてしまうだろうから。
「いや、こんな考えをしてる時点で今更か。狡いやつだなぁ」
狙っているのか、純粋に全力でぶつかっているだけなのか。
どちらにせよ、葵の態度を空は好ましく思っている。
肩を竦めつつほんの僅かに柔らかな頬を摘まめば、「んぅ」と不満そうな声が返ってきたのだった。




