第82話 困る事が無いからこそ
葵の髪を乾かした後は、言われた通り櫛で梳かしていく。
時間を掛けて乾かしていたからか、彼女は既に肌の手入れを終えていた。
「んー。乾かしてもらうのも良かったですけど、これもいいですねぇ」
「普通に櫛を通してるだけだけどな」
「それが大事なんですよ。ありがとうございます」
乾かす時もそうだが、やはり他人にやってもらうのは楽なのだろう。
心地良さそうな溜息が聞こえてきたので、お気に召したらしい。
「ホント、伸ばしてるのでこれが一番苦痛なんですよねぇ」
「ならいっそ切るのはどうだ? 昔っから伸ばしてたみたいだし、スッキリすると思うぞ?」
セミロングで苦労するならば、切ってしまうのも一つの手だろう。
人の髪型への決定権など無いので、あくまで提案するだけに留めた。
すると葵は顎に手を当てて考え始める。
「うーん。ぶっちゃけ伸ばしてるのに特別な理由は無いので、バッサリ切るのもアリなんですよね」
「そうなのか」
「はい。とはいえ、せんぱいには聞くべきでしょう。長い方が良いですか? 短い方が良いですか?」
「葵の好きな方で良いと思うんだが」
「私はせんぱいの好みを聞いているんです。そういう発言はNGですよ」
葵の過ごしやすさで決めるべきだと思ったのだが、僅かに振り返った彼女の表情は不満の色に染まっていた。
怒られたのが分かっていても、空の好みに合わせるという発言に勝手に頬が緩む。
「分かったよ。……俺は、長い方が良いと思う」
「そうですか。ならこのままにしますね」
「随分あっさり決めたな」
「せんぱいが気に入ってくれるのが第一ですので。手入れはこれからせんぱいがしてくれますし」
「ま、そうだな。ありがとな、葵」
空がこれから葵の髪を手入れするとしても、普段の生活で長い髪を不便に感じる時はあるだろう。
その不便さを飲み込むという意思に、彼女に見えないと分かっていても頭を下げた。
「お礼を言うのは私の方でしょうに。あ、それと、せんぱいの好み次第では黒に変えても良いですよ」
「随分と思い切った事をするなぁ」
「既にこの髪を嫌だとは思ってませんが、拘っている訳でもないので」
「……そう言えば、髪の感想は言ってなかったっけ」
空が葵を褒めたのは、服だったり容姿だ。髪については触れてすらいない。
だからこそ、葵は空が金髪に興味がないと思ってしまったのだろう。
今なら彼女に表情を見られる心配はないと判断し、羞恥が沸き上がってくるのを自覚しつつ口を開く。
「俺は葵の金髪、好きだぞ。何というか、特別感がある」
「は、え?」
「セミロングなのもポイントが高いな。こうして触れてるとさらさらなのが分かるし、ずっと触ってたいくらいだ」
「……」
「黒髪が悪いとは言わないけど、俺からしたらこっちが葵らしいってのもあるし、出来ればこのままにしてくれると嬉しい」
「…………」
「うん? おーい、葵。どうしたー?」
葵の反応が無くなってきたので、気になって顔を覗き込もうとする。
すると、彼女は思い切り空から顔を背けた。
「もしかして、褒めるのは駄目だったか?」
「……そうは、言ってません。せんぱいは、急過ぎます。私にも、その、心の準備というものが、あるんですよ」
「お、おう。そうなのか」
どうやら嫌がられてはいないようで、一安心だ。
ホッと溜息をつくのと同時にふと葵の後頭部を眺めれば、金糸の隙間から真っ赤になった耳が見えた。
彼女の突然の行動に納得がいき、嬉しさに唇の端が緩む。
「そういう事だから、葵さえ良ければこのままで居てくれ」
「……はい」
今の葵の顔を見てみたいとは思うが、流石にデリカシーが無い。
彼女の照れた姿を見れただけでも、空としては上々だ。
微笑を浮かべつつ金髪に櫛を通していくのだった。
葵の髪を手入れした後は、いつも通りに過ごした。
明言しないもののお互いに想いは知っているが、過ごし方を変えるつもりはないらしい。
空としても、いきなりべたべたされると困惑が勝っていたので有難かった。
「ふわぁ……。ねむいです……」
「そりゃあもう深夜過ぎてるからな。夏休み初日から飛ばし過ぎだ」
門限など無いとはいえ、自由にさせ過ぎたかもしれない。
上品な欠伸を零した葵に溜息をつきつつ、ソファから立ち上がる。
「俺は寝る準備するから、葵は家に帰れ」
「えー。移動するのめんどいんで、せんぱいの家で寝たいです」
「却下」
「なんでですかー? こっちで寝ても困る事なんて無いでしょうに」
移動しないと態度で示すように、葵がソファに凭れた。
今までとは彼女との距離が違っているので、正直なところ泊めてもいいのかもしれないとは思っている。
けれど、ここで妥協するとずるずると葵を泊め続けてしまいそうだ。
頬が熱くなるのを自覚しつつも、真剣な表情を取り繕う。
「困るだろ。……その、俺に手を出されたら、どうするんだ」
「え? 手を出してくれるんですか!?」
「そこで喜ぶんじゃない。付き合ってもいないのにそんな事をする訳がないだろうが」
目を輝かせた葵の姿に、頭痛を覚えてこめかみを抑えた。
彼女はというと、残念そうに唇を尖らせる。
「むー。言ってる事がちぐはぐなんですが」
「危機感を持てって事だよ。俺だって男なんだ。何かの拍子に暴走する可能性だってあるんだぞ」
「それはそれでいいと思うんですけど。だって、それだけ私を求めてくれてるって事ですし」
「……もう少し、自分を大切にだなぁ」
「してますよ。安売りなんてしません。せんぱいにだけです」
「……」
空になら手を出されても構わない。その覚悟は既に出来ている。
柔らかな微笑の奥に見える強い想いを感じ、反論が出来なかった。
「なので、せんぱいさえ良ければ泊まらせてくださいな」
「……分かったよ。でも、寝床は別々だ。俺はソファで寝るから、葵は俺のベッドで寝てくれ」
「家主をソファで寝かせるのは流石に申し訳ないんですが」
「これが俺に出来る最大限の譲歩だ。絶対に譲らんぞ」
別々に寝るならば、間違いを起こす事も無いだろう。
夏場なので、ブランケット一枚だけで寝ても何の問題も無い。
憮然とした態度を取れば、葵が渋々といった風に頷く。
「りょーかいです。ありがとうございます」
「よし、それじゃあ改めて、寝る準備するぞ」
「はーい。歯ブラシとか持ってきますねー」
帰りたくないと言っていた割に、きびきびとした動きで葵が玄関に向かう。
先程とのあまりの違いに溜息をつきつつ、薄着の葵を一人で外に出す訳にはいかないと後を追った。
彼女は嬉しそうにはにかみ、あっという間に歯ブラシ等の道具を取ってくる。
すぐに空の家に戻ってきて、並びながら歯磨きを終えた。
「それじゃあ、お休み」
「はい。お休みなさい。寝辛かったら来てもいいですからね?」
「行く訳ないだろ。ほら寝ろ」
「……はーい」
そこまでバッサリと否定するな、と言いたげな葵の視線を無視し自室の扉を閉める。
ソファに寝転び、大きく息を吐き出した。
「これで付き合ってないんだもんなぁ……」
実質的に付き合っているようなものだとは思うが、葵は空に時間をくれている。
それはそれとして甘えるという発言に、嘘は無いらしい。
相変わらずの押しの強さに苦笑を浮かべるが、全く嫌だとは思っていない。むしろ、感謝すらしている。
おそらく、夏休みもいつも通り葵に振り回されるのだろう。
それはそれで楽しそうだなと思いつつ、目を閉じるのだった。




