第81話 お風呂上りの日課
「満足しました! それじゃあ私もお風呂に入ってきますね!」
散々空の髪を堪能した後、葵が達成感のある笑みを浮かべて立ち上がった。
彼女の指の感触が気持ち良かったせいで、心地の良い眠気が空を満たしている。
けれど寝る訳にはいかないと、棚から下着類を取り出そうとする彼女から視線を逸らしつつ口を開く。
「なら葵も手入れをしないままでリビングに来てくれ。髪は俺がやるからさ」
「えぇ……」
「何だよ。俺が乾かすのが不安なのか?」
露骨に嫌そうな顔をされると、流石に傷付く。
空とて髪をドライヤーで乾かしているのだ。
全く同じとまではいかないが、雑に乾かすつもりはない。
僅かに唇を尖らせれば、葵が気まずそうな顔でふっと視線を逸らす。
「そういう訳じゃないですけど……」
「む。じゃあ単純に触られたくないってやつか。分かった、なら止めとく」
最初は葵に乾かしてもらう意義が無いと思っていたが、想像以上に良かった。
だからこそお返しがしたかったのだが、彼女が嫌がるならば仕方がない。
気に病ませるつもりはないのであっさりと引くと、渋面を作られた。
「そういう訳でもないんですけど……」
「ならどういう訳なんですかねぇ……」
葵の思考がさっぱり分からないと、途方に暮れる。
流石にまずいと思ったのか、葵が焦ったような顔になった。
「や、その、髪ってなるべく早く乾かしたいじゃないですか」
「まあな。葵の長さだと俺より面倒そうだし、余計にだろうな」
「そうなると、肌の手入れは後になりますよね?」
「そうするしかないな。でも、俺が髪を乾かしてる間に肌の手入れは出来るだろ?」
「…………何でこういう時は察しが悪いんですか?」
「何で俺が怒られるんだ……?」
羞恥と拗ねが混じった表情で睨まれ、頭を抱えたくなる。
とはいえ彼女の言葉からすると、空ならば察せそうな理由らしい。
首を捻りつつ思考を巡らせると、空にとって嬉しい理由に思い至った。
「もしかして、肌の手入れをしてる所を見られたくないのか?」
「そうですよぅ。だって、みっともないじゃないですか」
頬を僅かに赤らめつつ、葵が唇を尖らせる。
空の前では綺麗でありたいので、影の努力を見せたくはない。
そんな葵の気持ちに胸が温かなもので満たされつつも、首を横に振った。
「葵の努力の証拠なんだし、みっともないとは思わないって」
「そ、そうですか。なら引いたりしませんか?」
「絶対に引かない。まあ、その。自惚れじゃなければ、俺の為に努力してくれてるんだしな」
いままで一度も言った事のない浮いたセリフに、頬が熱を持つ。
恥ずかし過ぎて視線を逸らせば、葵の顔が今度こそ真っ赤に染まった。
「そうです、ね。じ、じゃあ、せんぱいの前で、手入れします。ホントに、ホントに、引かないでくださいよ!」
「勿論だって。ほら、行ってこい」
「はぁい」
心配事が無くなったからか、葵はふにゃりと表情を緩めながら脱衣所へ向かう。
ドライヤー以外の物は葵が準備するので、空は彼女が上がってくるのを待つだけだ。
聞こえてくるシャワーの音には相変わらず全く慣れず、スマホを弄りながらも緊張して待っていると、脱衣所への扉が開いた。
「ふー。良いお湯でしたー」
ご機嫌な笑みを浮かべた葵が、空のすぐ傍に来る。
いつもと違って風呂から上がったばかりだからか、葵特有の甘い匂いとシャボンの香りが強く香った。
一瞬で心臓の鼓動が乱されるが、平静を装いつつ床を軽く叩く。
「ほら座ってくれ。注意して欲しい事とかあるか?」
「乾かした後は櫛で梳かしてください。それくらいですね」
「了解。それじゃあいくぞ」
「お願いしまーす」
ドライヤーのスイッチを入れ、湿った金髪に触れる。
頭を撫でる時にも触ってはいたが、髪だけに触れるのは初めてだ。
空には無い金色の髪は幻想的で、つい見惚れてしまいそうになる。
けれどこれは手入れなのだと、気を引き締めて乾かすのに集中する。
「んー。せんぱいに乾かしてもらうの、さいこうですねぇ」
ドライヤーの音に紛れて、機嫌良さそうな声が聞こえてきた。
一応、葵が風呂に入っている間に女性の髪の乾かし方を調べたが、合っていたらしい。
履くようにドライヤーの風を当て、全体を少しずつ乾かしていく。
「誰かに乾かしてもらうのって、いいよな」
「はいー。私は髪を伸ばしてますし、乾かしてもらうと私の手間が省ける点もぐっどです」
「セミロングだもんな。乾かす時に時間掛かるよなぁ……」
これだけ美しい髪を乾かせるのだから、ご褒美と言っても良い。
湿気が取れた髪が、部屋の光を反射して輝くのが堪らない。
手間が掛かる事に関しても、長い時間髪に触れるので嫌ではないのだ。
それでも普段の葵の大変さが分かるので、しみじみと呟いた。
「そうなんですよねぇ……。なので、せんぱいにはこれからも乾かしてもらえると嬉しいです」
「肌の手入れは見られてもいいのか?」
「既に見せてますし、もういいかなと。せんぱいに背中を向けてるので、顔が見られる心配も無いですので」
「確かに。ぶっちゃけ葵が何してるかなんてよく分からないからな」
空と同じように化粧水らしき物を使っているのは分かるが、空よりも数が多い。
葵を労うように髪へ温風を当てつつ、僅かに唇の端を緩める。
「じゃあ、葵のリクエストに応えてこれからも髪を乾かさせてもらっていいか?」
「勿論ですよ。これからよろしくお願いしますね。せんぱいの髪は、私が乾かしますから」
「頼んだ」
新しく増えた日課に心を弾ませ、真剣に、けれど楽しんで葵の髪を乾かすのだった。




