第79話 自覚する想い
「ん……」
どれくらい葵の膝で泣いていただろうか。
いつの間にか寝てしまっていたらしく、目を開けると葵が瞳に穏やかな光を灯して空を見つめていた。
「おはようございます。すっきりしましたか?」
「……ああ。ホント、ありがとな」
「お礼なんて必要ありませんよ。お互い様、でしょう?」
「そう、だな」
同じ考えを持つからこそ、お互いに対してだけ甘えられる。
今までずっと貯め込んでいたものを吐き出せたからか、彼女の言葉にすんなりと頷く事が出来た。
それと同時に、空が気付かないフリをしていた感情が沸き上がってくる。
(そりゃあ、好きにならない訳がないよな)
再会したばかりであまり葵を信用していなかった頃から、彼女は空に近付いてきてくれた。
空が嫌がらせを受けようとも、情けない過去を持っていようとも、それは変わらない。
そうして葵の押しの強さに負け続けているうちに、彼女が傍に居るのが当たり前になってしまった。
(それに、葵も同じ感情を抱いてくれてるはずだ)
いくら恩人とはいえ、深夜近くまで一緒に居る訳がない。
勿論一緒に居るだけでなく、今では葵が空の家の風呂を使っているし、私物を置いてもいる。
空を男として見ていない可能性も考えたが、散々葵に忠告しただけでなく、最近では彼女が偶に照れたりもしているのだ。
ましてや学校では付き合っている事にしているのだから、空の抱いた確信は間違っていないだろう。
となれば、すぐに想いを伝えるべきではないのか。
いつ頃から葵が空に好意を抱いていたのか分からないが、気付けば感情に蓋をしていた空よりも後というのは無いはずなのだから。
体を起こし、葵を見据える。残念そうな顔をしてるのは、申し訳ないが無視だ。
「その、葵」
「はい? どうしました?」
「えっと、だな」
長ったらしく喋る必要などなく、想いを伝える言葉を口にするだけでいい。
けれど初めての事に緊張し、口が動かない。
きょとんと無垢な顔で首を傾げる葵の前で、深呼吸をして心臓の鼓動を落ち着かせる。
「俺は――」
「あ、分かりました。分かりましたけど、ちょっとストップです」
「あ、え? お、おう……」
思い切り出鼻を挫かれ、空の頭を戸惑いが占めた。
少しずつ頭が冷えてくると、今度は葵の空への感情は勘違いだったのではないかと思えてくる。
まさか何も告げられずに失敗したのかと内心で冷や汗を掻いた。
おそるおそる葵の顔色を窺えば、口元を緩めつつも眉を寄せるという、器用な事をしている。
「せんぱいが私と同じ気持ちになってくれたのは、そりゃあ嬉しいです。ぶっちゃけ遮った事をちょっと後悔してます」
「そ、そうなのか」
どうして何も言っていないのに察せられたのかは分からないが、どうやら空の考えは間違っていなかったらしい。
その割には話が前に進まないので、歓喜と困惑で胸がぐちゃぐちゃだ。
葵は真面目な表情をしているはずなのに、どうにも空気が緩んだ気がする。
「でも、あのままだったら場の流れによって言わせたような気がして、私が嫌だったんです。…………まあ、その、ほんの少しだけ、狙ってましたけど」
「おい。ちゃっかり計算してたのかよ」
最終的にはやっぱり駄目だと判断したようだが、意外と策士な葵に思わず突っ込みを入れてしまった。
後ろめたさはあるようで、彼女がしゅんと肩身を狭くする。
「だ、だってぇ……。せんぱい、私の頑張りを見て見ぬフリするんですもん」
「それは、その、すまん」
「まあ、私も今回の件はちょっと狡いなって思ったので、お相子にしましょう」
強引に話を纏めた葵がパンと手を叩いた。
いつも通りの明るい笑顔を向けられて、これまたいつも通りに反論する意思が折れる。
「という訳で、もう少しお互いの仲を深めてからにしませんか?」
「いや、既に普通の友達の距離感じゃないと思うんだが」
「でも、せんぱいは甘える事に慣れてません。それに、心のどこかで私を怖がってるんじゃないですか?」
「……」
これからは葵に出来る限り甘えようとは思うが、かといって劇的に態度を変えるつもりもない。
それは単に先輩だったり男の矜持だったりするのだが、同時に恐怖もあるのだ。
葵が中学時代のクラスメイトのように、いきなり態度を変えるのではないか。
両親や中学時代の教師のように、頼ったら突き放されるのではないか。
そんな思いは、今日まで葵と一緒に過ごしていても心の隅から消えなかった。
何の反論も出来ずに黙り込めば、葵が柔らかく目を細める。
「だから、せんぱいが言おうとした言葉はまだいいです。せんぱいが本当の意味で私を信用した時に、聞かせてください」
「…………分かった。本当に、ありがとう」
今回の件で計算していた事もあり、本当は空に言って欲しいのだろう。
けれど葵は空の気持ちを第一に考えてくれている。
嬉しさと情けなさに胸が締め付けられ、ぎこちない笑みしか作れなかった。
そんな空の笑みに返ってきたのは、小悪魔のような意地の悪い笑みだ。
「まあそれはそれとして、私はせんぱいに甘えますし、せんぱいを甘やかすんですが」
「え?」
「ただジッと待ってるなんて嫌ですよ。それに、今更遠慮する必要もないですしね」
驚きに固まっていると、ただでさえすぐ傍に居る葵が空へ距離を詰める。
そのせいでお互いの吐息が顔に当たるが、彼女は全く気にしていない。
細い指先が頬に触れ、慈しむように撫でられた。
けれど空には、獲物を品定めしているように感じられる。
「いろいろと、覚悟してくださいね。せんぱい♪」
結局、空が葵の押しの強さに流されるのは変わらないらしい。
視界の殆どを占める可愛らしい満面の笑みを、何故だか怖いと思ってしまうのだった。




